伊藤テクライト事務所

コラム

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No.200 東京スケッチ

 東京駅から茨城方面に向かう高速バスは、八重洲口のバスターミナルを出て首都高速に乗るとしばらくのあいだ隅田川に沿って走っていく。街中をゆるやかにカーブしながら流れていく深みある色の川と、それへ渡された青、赤、緑などの橋々。朝の光の中に現れたその光景に、自分には馴染みのないこのような東京の姿に、はしなくも心奪われる。

 たんたんと水をたたえる川の水面に残る消えかけた白い線を眺めていると、それを描きながら走る白い水上バスが目に入る。それを追うようにすぐ上を飛ぶ流麗な姿の水鳥。羽の角度を微妙に調節ながら風を捉えるようすまでが車窓からわかる。ほら船だ、ほら鳥だと、家族とこのような光景を眺めることを心に思い浮かべたりもする。

 川べりのコンクリートで覆われた灰色の堤に、青いシートをかぶせた小屋が一定の間隔を置きながら続いているのが見えた。数は数十ではきかない。二百戸はありそうだ。そこに住む人々の苦しい気持ちを想像してみようと試みるが、このような美しい川べりの光景のなかで生活することはむしろ快適なことにように思えたりもし、うまくいかない。そういえば東京駅の地下街に大勢の「住人」を見かけるようになった。人を生活からはじき出すのが東京なのか、住むところのない人をも受け入れるのが東京なのか、どう考えればよいのだろう。

 バスは隅田川を離れ、荒川を越え、やがて東京を後にした。(2003.3.1)

No.199 カシオペア

 私が数年来使っているカシオのPDA「カシオペアE-55」。ドッグイヤー(1年が7年分に相当する)と呼ばれるITの世界で、1998年に発表されたこの機種をいまだに使っているのは、中途半端に時代遅れの雰囲気もありますが、まだ役に立つのですからかまいません。

 しかし、先日、こんなことがありました。打ち合わせの場で、メモを取るべくカシオペアを取り出したところ、電源が入らなかったのです。電源ボタンを何度押してもダメ。相手の話を聞きながらも心の中では「あーついに寿命かあ」という悲しみと、「これで新しいのに買い替えられる」という小さな喜びとが交錯しました。

 打ち合わせの30分後、私はヨドバシカメラのPDAコーナーで、次なる愛機を物色していました。私のカシオペアは5万円ほどで購入したと思いますが、いまはその半分以下の値段で同等以上の機能を持った機種があります。液晶ディスプレイはカラーが主流となり、音楽再生装置としての機能を持ったもの、小さなキーボードの付いたものなど、バリエーションもさまざま。個人的な意見としては、日常的に携帯するPDAに高価なものは不適切。私がカシオペアE-55を購入した頃は選択肢が少なかったのでやむなく5万円ほどのものとなりましたが、ふだん持ち歩いて気軽に使うものとしての適切な価格はせいぜい2万円程度ではないでしょうか。

 しかし、物色を続けるうち、「カシオペアはまだ壊れたとは限らないぞ。家に帰ってからもういちどよく見るべきだ。それに新しいのを買うにしても、もっとよく調べて検討したほうがよい」とい う内なる声が聞こえてきました。不惑を越え、この程度の思慮はかろうじて芽生えてきたということでしょうか。私はその声に従い、その場で購入することは控えました。

 結果的に、それは正解だったのです。カシオペアE-55にはバッテリケースを固定するスイッチが裏面にあり、それが解除されていると電源が入らないという機構になっているのですが、何かの拍子にそのスイッチが「解除」側になってしまっていたのでした。それでいくら電源ボタンを押しても反応しなかった。帰宅後、それを発見したときの気持ちは、オカシイやら情けないやら嬉しいやら。そんなわけで、もうしばらくはこの年代もののカシオペアを使い続けることになりそうです。(2003.2.22)

No.198 『日本語の教室』を読む

 大野晋著『日本語の教室』(岩波新書)を読みました。これはとても楽しい読書だった。このところ長い時間をかけて移動することが多いのですが、このような本を読む楽しみがあると、移動の時間そのものが楽しみになってくる感じがあります。

 どのような内容か。『日本語練習帳』の著者でもある方の本ですし、題名からも考えて、教え聞かせるように日本語のウンチクを語っている本のように予想されますが、事実は少し異なります。日本語についての質問を提示し、それに回答するという形式なので、「教室」という言葉に嘘はないのですが、全体としてはこれは日本語を通して語る日本論の本になっています。

 みずほ銀行合併時のコンピュータシステムの混乱、官僚のBSE対策の不手際、その対策を悪用して不正な利益を挙げた企業の倫理、放射性物質をバケツで運んで事故になった東海村の事件、原子炉のひび割れの組織的隠蔽、そういった事例を示し、「日本人のトップクラスのはずの人々ですら(中略)精密を必要とする組織的な行為を正確に把握してそれに対処し、仕事を遂行することができない」と大野氏は述べます。そしてそれは「現在の日本人が事実を的確に、正確に把握する力に欠けて来た、事実とか真実に対する誠意が足りない、因習として虚偽と隠蔽が優先するという状態を示している」ことであり、それは「日本語を正確に、的確に読み取り、表現する力の一般的な低下と相応じていると思う」と述べます。

 一部だけ引っ張ってくると唐突な意見のように見えるかもしれませんが、全体として私にはとても説得力が感じられました。(2003.2.15)

No.197 ITと生活

 先日、タクシーに乗ったときのことです。ドライバー氏からGPS配車システムの話を聞きました。GPSとは、Global Positioning Systemの略。複数の人工衛星からの電波を利用することで、自分が地球上のどこにいるかを割り出すしくみです。

「どこ走っているか、会社のほうで一発でわかるんですよ」

「へええ」

「だから、昔だったら、どこそこでお客さん待ってるから、近く走っている車はそこに行ってなんて無線があったとき、ちょっと遠くても”○○号車、行きます”って言えたけど、いまはダメ」

「ああ、なるほど」

「迎車で行くときも、よく使ってくれてるお客さんだったら迎えにいくときに迎車を切って迎車代をサービスしたりもしてたんだけど、いまはダメね。迎車スイッチが入ってないのが会社でわかるの」

「監視されてるみたいですね」

「そうですねえ。でも、いいこともあるんですよ。お客さんの家に迎えにいくときとか、あまり知らない場所に行くときでも、どの道をまがって何軒目だとか、そういう道案内を会社から詳しく指示してもらえるんですよ」

「いまはどのタクシー会社もそうなんですか?」

「いやいや、それ入れるの相当お金かかるから。このあたりだと、うちだけですよ」

「食事するときとかは?」

「そんときは、食事するよって会社に連絡するの」

「そんなふうになってるなんて、知らなかったなあ」

「しっかりやらないとならないから、大変ですよ」

 技術が生活を変えていく(好むと好まざるとに関わらず)、その一例を垣間見たという感じがしました。

(2003.2.8)

No.196 ケーブルテレビ

 最近、ケーブルテレビを入れました。観ることのできるチャンネル数は一気に数十に増加、インターネットへの接続速度もこれまでのISDNの64kbpsからその数十倍に、という具合になかなか楽しい状況なのではありますが、子供たちが暇さえあればアニメのチャンネルを観るようになったのは弊害といってよいかもしれません。

 それはともかく、一つ気になることがあります。ケーブルテレビ加入後、毎月、一か月分の番組表の印刷された冊子が届くようになったのですが、これが少々使いづらい作りなのです。番組表ということなら、新聞の番組欄のように各チャンネルの一日のプログラムが一覧できるようになっているべきだと思うのですが、そのようにまとめてあるのは、全部で数十あるチャンネルのうち16チャンネル分だけなのです。それ以外のチャンネルについては、チャンネルごとのページで調べるしかない。これは不便です。このケーブルテレビのウェブサイトにいけばそういうものがあるかもしれない、と期待していってみましたが、そこにもなし。

 チャンネルは増えたものの、それを存分に楽しむのはそう簡単ではないという感じです。もっとも、テレビを観ていられる時間がたっぷりあるというわけでもないのですが…。(2003.2.1)

No.195 進化する黒猫に思う

 ヤマト運輸の宅急便に「伝票の宛名印刷サービス 無料で承ります」と書かれた紙が挟まっていました。それによると、発送元や宛先の住所氏名を印刷した伝票を無料で作ってくれるということのようです。発送元が印刷してあったら、ちょっと楽なことでしょう。同じ相手によく宅急便を送ることがあるなら、その宛先を印刷してもらっておけばさらに便利です。

 「クロネコヤマトの宅急便」が始まったのがいつのことかはわかりませんが、最初はこんなに便利ではなかったように思います。それが、届ける時間帯が指定できるようになったり、生ものを冷やしたまま送れるようになったり、荷物がいま運送行程のどの段階にあるかがインターネットで調べられたりと、大きな進化を遂げてきました。いったいどこまで便利になるのでしょうね。(2003.1.25)

No.194 『六月の勝利の歌を忘れない』を観る

 『六月の勝利の歌を忘れない 日本代表、真実の30日間ドキュメント』(岩井俊二監督)というDVDを観ました。昨年のサッカーワールドカップ開催中の日本代表の日常を撮ったドキュメンタリです。とても面白かった!

 カメラは、宿泊所での選手たちのようす、練習風景、プールサイドでたびたび開かれるパーティといった日常風景ばかりだけでなく、試合前や試合の前半と後半の間のミーティングのような非常に緊迫した場面まで映します。選手たちがじゃれあう姿、感情的になる姿、励まし合う姿、そういう若者らしい選手たちのようすに親しみを感じました。

 しかし、いちばん印象に残ったのは、トルシエ監督の熱い言葉の数々。とりわけ、試合前のミーティングでにおけるトルシエの弁舌の雄弁なこと。試合の重要さを静かに語り始め、そのために自分たちが準備してきたことを力を込めて説き、どういう態度で自分たちが試合に臨まなければならないかを叫ぶように熱く訴える。トルシエに並び立ちながらその言葉を同時に日本語に変えていくダバディー氏の通訳もすばらしかった。ともかく、DVDを観ているこちらまでエキサイトしてくるような言葉の連射には参りました。

 フランス人だからなのでしょうか。それともトルシエの個性なのでしょうか。奇矯なふるまいも目に付いたものの、あのように選手たちを鼓舞することができる監督がそうそういるとは思えません。言葉の持つ力の奥深さのようなものを感じさせられた作品でした。(2003.1.19)

No.193 プレステ体験

 プレイステーション2に触れる機会がありました。ゲームの面白さの本質は粗末な平面的キャラクターが動くだけだった頃とさほど変わっていないとは思うものの、最新のゲームの臨場感や本物らしさには目を瞠らされました。

 ゲームの動作を確認しなくてはならないのですが、ゲームが始まってしまうとついプレイに夢中になり、本来の目的がどこかへいってしまうのには困りました。スタートボタンを押すことで、自分のほうも「スイッチが入ってしまう」という感じです。

 ゲームといえば、うちの子供たちも大好きで、これ以上ないほどの熱意をそれへ傾けています。この情熱の半分、いや三分の一でもいいから勉学に振り向けてくれれば…というのは、おそらく多くの親が思うことではないでしょうか。とはいえ、自分ですら、ゲームを始めれば「スイッチが入ってしまう」わけですから、子供にそのようなことを言ってもしようのないことだろうなとも思うのです。世の中、思うようにならないことは多々あるものですね。(2003.1.11)

No.192 『それは情報ではない。』

 明けましておめでとうございます。

 このところ読んでいた『それは情報ではない。』(リチャード・S・ワーマン著、金井哲夫訳、MDN刊)をやっと読み終わりました。「この本は会話のような構造になっている」と著者自身が述べているとおり、この本はなんだか雑然とした印象を与えるのですが、退屈な会話ではありませんでした。

「私たちに使うことが許された説明の手段は、言葉と絵と数字の三つだけだ。」

「比較によって認識が生まれる。夜は、昼と比較して初めて認識される。」

「会話はいかなる文章よりも複雑な構造をしている。しかし不思議なことに、会話のほうがものごとが伝わりやすかったりもする。」

 すべてこの本からの引用ですが、面白いと思いませんか? こんなフレーズに私は刺激や魅力を感じるのですが、こういった言葉がこの本にはたくさん詰まっています。

 本の題名が意味しているのは、「データ」と「情報」とは違うということです。「情報とは、理解に結びつく形になったものを指す」とワーマンは述べています。それ以外のものは単なる「データ」に過ぎない。現代は情報に満ち溢れた時代で、新聞、雑誌、本、テレビ、インターネットなどからやってくる情報を私たちは懸命に追いかけ、吸収しようとしていますが、そういったもののほとんどはデータに過ぎなくて、いくら取り込んでも右から左へと通り抜けていってしまう。価値があるのはデータではなく情報なのです。

 ではどのようにしてデータと情報を区別すればよいのか。それがまさにこの本のテーマといってよいかもしれません。この本は、理解、わかりやすさ、コミュニケーション、質問の価値といったことについて、会話のようにあちこち寄り道をしながら考察をしているのですが、全体を通して振り返ってみると、データの海で溺れないようにするためのガイドラインになっているのです。

 あなたがもし消化しきれないほどの情報を前に困惑してしまったときは、まず「それは情報ではない」とうそぶくところから始めてみてはいかがでしょうか。(2003.1.5)

No.191 メルマガ雑感

 メールマガジンが楽しい。最近、そう感じることが増えました。十数本ほど購読していますが、特に面白いなあと感じるのは、やはり紙のメディアでも活躍している人が書いているもの。人により好き嫌いはあるでしょうが、村上龍のサッカーに関するコラム(ジャパンメールメディア)や猪瀬直樹の社会問題を突くコラム(日本国の研究)はとても面白く読めます。あと、私自身がその情報そのものに関心を持っている場合も、熱心に読んでしまいます。例えば、科学者へのロングインタビューを連載しているネットサイエンス・インタビュー・メール、ロケット関連の情報を報告するNASDA(宇宙開発事業団)の「宇宙開発事業団からのお知らせ」、恐竜研究の最前線を伝える「楽園通信@恐竜は生きている!」など。これらは科学少年だった子供時代に帰ったような気持ちにさせてくれます。

 こういったメールマガジンは、新聞や雑誌の一つの記事だけを切り離したようなところがあります。新聞や雑誌はさまざまな分野の情報を網羅した総合的な内容になっており、それにより多くの読者を獲得しているわけですが、メールマガジンならロケットのことだけとか科学者へのインタビューだけとかそのような絞り込んだ内容になっているものが多い。新聞や雑誌を買うということは、読まないページ・記事の分までお金を出すことになるわけですが、メールマガジンのように自分の興味のあるものだけ読めるようになれば、もっと効率がよいかもしれません。

 ただ、最初から情報を絞り込んでしまうことにはデメリットもありそうです。新聞や雑誌なら、興味なかった分野についてもたまたまその記事に目がいき、読んでみたら面白かった、というようなことで視野を広げるきっかけが得られることもあるでしょうが、内容の絞り込まれたメールマガジンだとそれはありません。

 最近はHTML形式のものが急に増えてきたようです。HTML形式となれば、ウェブページと同じですから、見た目がとても美しく、それだけでうきうきした気持ちになるような気がします。しかし、いくら見栄えがよくても、文章や情報そのものに魅力がなければ、ちゃんと読もうという気にはなれません。そういうことを「コンテンツが重要だ」というのでしょうか。先日、国立国語研究所の発表した言い換え案では「コンテンツ」は「情報内容」「内容」「番組」となっていました。メールマガジンだったら「情報内容」がぴったりかな。

 と、だらだら書いてきましたが、今年はこれが最後のコラムになります。不景気のなか仕事をなんとか一年やってこれたのは、周りの皆さんに支えていただいたおかげです。ありがとうございました。また、来年もどうぞよろしくお願いいたします。(2002.12.28)

No.190 日付を入れる

 ウェブ上の文章を読んでいるときにしばしばイライラさせられるのは、そこに日付が記入されていないことです。「インターネットの利用者は5億人を超えた」とどこかに書かれていたとします。もし、その文書の末尾なり冒頭なりに日付がなければ、いったいいつ超えたのかがわかりません。「いつ」がわからなければ、価値が半減してしまうことがあるのです。

 「日付の入っていない文章なんて、そんなにある?」と思われるかもしれませんが、これがけっこうあります。例えば、ウェブのトップページに今日の情報として掲載されているものなどが、過去データの置き場に移動した場合。「今日の情報」として出ている時点では「今日」は明らかですが、いったんしまいこまれてしまうともうそれがいつのものなのかわかりません。

 月日しか示されていない場合もよくあります。年がないのです。何もないよりこのほうが多いかもしれません。「○月○日、松井がホームランを打った」これだけでは、星稜高校での話か巨人軍での話かハッキリしません(来年からはヤンキースでの話の可能性も)。月日がわかっても年がわからないのでは、やはり困るのです。

 文章には日付を入れること、これを忘れないようにしたいものです。(2002.12.21)

No.189 トイレで読む本

 子どものころからトイレで本を読む習慣があり、それがいまも続いています。昔は、読んでいる本が面白いからトイレにもそれを持ち込んでしまう、という感じでした。いまはトイレにはトイレ用の本を常備しておき、トイレに入っているときだけそれを読む、という具合になっています。さながら、ボトルキープといったところ。

 どういう本をトイレに置くか。これはなかなか難しい問題です。いったんそこに置いた以上、読了するまではそこから出すわけにはいきませんので、 汚してしまう可能性もあります。よって人から借りた本などは除外しなくてはなりません。それから、トイレに入るのは読書のためではありませんから、本来の目的を阻害するようなものも困ります。具体的にいいますと、難しい本はよくない。読解すべく頭を使うと、下半身への集中がおろそかになるのです。つまり、足すべき用が足せなくなる。人間とはそういうデリケートな生き物ではないでしょうか。そして、短い読書時間を繰り返しながら長期間にわたって読むわけですから、ちびりちびりと読んでいっても大丈夫なもの。ここでもやはり難しい本は排除されます。いま読んだ部分 、理解したことがらを、次回のトイレタイムまで覚えていられるでしょうか。それから、トイレは家族全員が使うものですから、そのことへの配慮も欠かせません。できることなら、中学生や小学生の子どもがふと手に したとき、なにかしら社会や世界、あるいは人間というものへの知的関心を誘うようなものであってほしい(私が科学雑誌ニュートンをトイレに置くようになった背景にそういう配慮があることを家族は知らないことでしょう)。 ことほどさようにトイレで読む本の選択にはさまざまな条件が絡んでくるのです。

 そんな私の最近のお気に入りは、『通販生活』を出しているカタログハウスの『ピカイチ事典』。商品を紹介する短い記事の集まりですから、短い読書時間にフィット。いろいろなモノが写真付きで出てきますから、家族達も興味を持つのではないでしょうか。しかも、紹介されているのはいずれも選び抜かれたすばらしい商品ですから、記事の内容に大いに興味を感じつつ読むことができます。「ほうほう、そりゃすごい」「これは便利そうだ」「いいなあ、ほしいなあ」などと一人トイレでエキサイトしながら充実した時間が過ごせるというわけです。わたし、変でしょうか。(2002.12.14)

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 No.186のコラムで、ナマスが昔の言葉のような書き方をしてしまいましたが、私が無知でした。先日、スーパーで「なます」が売られているを発見し、なますは現役の食べ物であること、21世紀にもちゃんとあるということに気付かされました。お恥ずかしい。

No.188 圧力鍋の取扱説明書

  圧力鍋を使ってみました。ジャガイモとニンジンをふかしたのですが、そのできばえは上々。とくにニンジンが、何の味付けもしていないのにほのかな甘みがあり、そのままでおいしいのには驚きました。

 圧力鍋はフタを固定することにより内部の圧力を高め、短時間で素材を調理する機能があります。密閉されていない空間(1気圧の空間)では水は約100℃で沸騰しますが、気圧が高ければ沸騰する温度も上がるうえ、高温の水蒸気によっても素材が加熱されるために、短時間での調理が可能となる、というわけです。

 サラダにしたジャガイモとニンジンの味に満足しつつも、この圧力鍋については一つ言いたいことがあります。付属の取扱説明書がわかりにくいのです。圧力鍋は、高圧力を利用するので、いわば危険な調理器具です。ですから、取扱説明書は、安全に使うにはどうするか、十分にわかりやすく説明する使命があります。取扱説明書は、イラストも使い、警告表示などもいれ、安全に配慮していることはわかるのですが、その配慮が不十分なのです。

 具体的にいいますと、問題点は二つあります。まず一つめ。この鍋には、通常の鍋と違う機構が備わっているのですが、それをどのような状態にして使用するのかが明示されていないのです。調理後のフタの開け方についてはある程度ちゃんとした説明があるのですが、最初のセッティング方法がないわけです。しかたがないので類推しつつ使いましたが、それでいいのかどうか不安で、ちょっと怖かった。もう一つは、圧力調整装置と安全バルブという、圧力を減らすための機構が二箇所あるのですが、その名称の説明が使用方法の説明よりもあとに出てくるのです。そのため、圧力調整装置をどうせよという説明があっても、それがどっちのことを指しているのかはっきりしない。説明のイラスト中に名称を入れてくれればまだよかったのですが、それもない。

 調理例などのカラー写真も使った、なかなか見栄えのよい取扱説明書ではありますが、これではよい取扱説明書とはいえません。どういう情報をどういう順序でどういう表現で見せるか。取扱説明書の基本の大切さを改めて認識させられました。(2002.12.7)

No.187 スパムを食べる

 スパムメール:不特定多数にばらまかれる広告や、詐欺まがいの情報、「不幸の手紙」や善意を装ったデマといったチェーンメールなど、迷惑とされる電子メールのこと。(アスキーデジタル用語辞典より)

 電子メールを使っているとこのスパムメール(たんにスパムともいう)がたくさんやってくるようになります。社会問題化した携帯電話の迷惑メールもスパムです。すっかり悪い印象が定着してしまった「スパム」という言葉ですが、その名前には面白い由来があります。

 スパム(SPAM)は元々はHormel Foodsという米国の食品会社が作っているハムの缶詰の名前です。1937年に誕生したこの缶詰の販売量は累積で50億個以上だそうです。スパムは現在も製造されており、日本国内にも輸入されています。で、このスパム缶詰のことが、英国のテレビコメディのモンティ・パイソンという番組でギャグとして使われたことがあったそうです。場面に突然バイキング姿の男たちが現れ、「スパム、スパム、スパム」と連呼し、ほかの人たちの会話をかき消してしまうというシュールなギャグ。レストランに入った夫婦にウェイトレスたちがスパム料理ばかりを薦め、他の客もしだいにスパムを連呼しだした、そういうシーンだったという説もあります。あるいは、そのあとでバイキングたちが登場するということなのかもしれません。とにかく、スパムの連呼で会話を邪魔されるという内容だったようです。そういう前提があり、ニュースグループ(インターネット上の電子会議室)で議論や会話をしているときに迷惑な広告メールが大量に入ってくる。それがまるでモンティ・パイソンのスパムのギャグのようだということで、迷惑メールのことがスパムと呼ばれるようになった。

 Hormel Foodsは、SPAM.COMというウェブサイトを開設しています。そこで述べられている解説によれば、Hormelはスパムメールを送ったこともないし、スパムメールには反対するとのこと。そして、迷惑メールのほうはspamと小文字で表記し、缶詰の商品名のほうはSPAMと大文字で表記すべきだとも主張しています。

 考えてみれば、自社の商品名をこういう悪いイメージの俗語として使われてしまうのはハタ迷惑な話でしょう。しかしながら、そういう俗語の普及がSPAM缶詰の宣伝の役割も果たしていることも事実だと思います。消費者としては、迷惑メールのspamは憎み缶詰のSPAMは愛すという具合に両者を区別していきたいものです。

 じつは先日、近くのスーパーにSPAMの缶詰を見つけたので、買い求めました。これが大変おいしかったのです。みなさんもお店で見かけたら試してみてはいかがでしょう。(2002.11.30)

No.186 羹に懲りて膾を吹く

 失敗に懲りてむやみと用心しすぎることを「羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」といいますが、アツモノとナマスとはいったい何のことなのでしょう。たぶんアツモノは不用意に口にするとやけどするような熱い食べ物で、ナマスのほうは冷たい食べ物なのであろうと、そこまでは簡単に想像がつきます。しかし、具体的にどういうものなのかまでは知らない人が多いのではないでしょうか。もちろん私もその一人。アツモノについては、熱い食べ物全般のことだろうかとか、厚揚げ豆腐のことかなとか、そのようにイメージし、ナマスのほうはナマス→ナマズ→ウナギ→さめた蒲焼、みたいなしようもない連想をする程度。

 そこで今回は広辞苑で調べてみました。それによれば、羹(あつもの)は「菜・肉などを入れて作った熱い吸物」だそうです。一方の膾(なます)のほうは「魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの/薄く細く切った魚肉を酢に浸した食品/大根・人参を細かく刻み、三杯酢・胡麻酢・味噌酢などであえた料理」とあり、いずれにしても冷たい食べ物のようです。ちょっとおいしそうです。これをふまえて現代風に変えるなら、「肉じゃがに懲りてネギトロを吹く」といった感じでしょうか。

 英語にも同様の諺がありました。"A scalded cat [dog] fears cold water. "(研究社新和英中辞典)、直訳すると、やけどした猫(犬)は水をも恐れるという意味です。犬猫を出してくるあたり、なんとなく洋風な感じがしますね。

 日本語にも英語にも同じような諺が残っているということは、結局、昔も今も、人間は「羹に懲りて膾を吹く」ことをいろいろな場面で繰り返してきたということなのでしょう。皆さんも思い当たることがあるのではないでしょうか。マニュアル制作に携わる者としては、 「マニュアルに懲りて、パソコンをやめる」といったようなユーザーだけは生み出さないようにしたいものです。(2002.11.23)

No.185 長男的性格と次男的性格

 一般に長男はおっとりとした落ち着いた性格になり、次男は活動的で冒険心に富む性格になる傾向があるといいます。あなたの周りの「長男」「次男」を見て、そのように感じることはないでしょうか? 長女と次女の場合にそのような違いの傾向があるかどうかはわかりませんが、少なくとも長男と次男については、私が知る範囲では上記のことがよくあてはまるように思います。私自身も次男で、どちらかというとやはり次男的な性格が強いですし、我が家の二人の男児も明確に長男的・次男的性格に分かれています。

 どうしてそのような違いが生まれるのか。一番目の子は、最初の子として両親の関心を一身に集め、いつもかまってもらえるために、安定した性格となる、しかし二番目の子は両親の関心も薄れるので、自ら積極的に存在をアピールする必要がある。そんな説明を聞いたことがあるような気がします。もっともらしい感じもしますが、真偽のほどはさだかではありません。

 さて、このようなことを書いているのはなぜかといいますと、パソコンのような機械を覚えるのに向いているのは長男的性格と次男的性格のどちらだろうか、とふと思ったからです。まずいえることは、新しいものへ好奇心をもって挑戦するという面では次男的性格のほうに分がありそうだということです。なんにでも手を出すような、よい意味での腰の軽さ。新しいことを始めるには、それが大切ではないでしょうか。しかし、一方では、一つのことに腰をすえてじっくりと取り組むというところでは長男的性格がものをいいそうです。あれこれ手を出してばかりできちんと知識を深めようとしないでいては、あまり進歩は望めないことでしょう。このように考えると、長男的なだけでも次男的なだけでも不十分で、両方の長所をあわせもつのがよい、という結論になりそうです。

 あなたは、どういうタイプでしょうか?(2002.11.16)

No.184 『くたばれ、マニュアル!』を読む

 『くたばれ、マニュアル!』(海保博之著、新曜社)を読みました。センセーショナルな題名ですが、内容は真面目で、パソコンなどのマニュアルのわかりにくさを、パソコンそのもののわかりにくさ、ユーザーの心理、書き手の問題などいくつかの角度から解説し、問題解決の方向を示したものです。認知心理学の専門用語がいろいろと出てくるものの、噛み砕いて解説したうえで使われているので、難しくはありません。マニュアルに関心のある方なら面白く読めるのではないでしょうか。

 興味深く感じた部分がいくつかあるのですが、その一つが、教育に関する話題です。わかりやすいマニュアルを作れるようになるには、その基礎となる書く力を学校教育で学ぶ必要があるという話で、実際の小学校教科書の例も紹介されていました。それは「せつ明書を作ろう」という単元で、自分で選んだスポーツ、遊び、楽器などについて、人にわかるように説明書を作るという内容なのです。それを読んで思い出したのですが、うちの次男が学校の宿題として「ドッジボールがうまくなる方法」とかいう説明書を作っていました。もしかすると、本書で紹介されているあの単元の授業だったのかもしれません。こういった教育が小学校でなされているのであれば、日本のマニュアルの未来は明るい……かもしれませんね。(2002.11.9)

No.183 ドアの使いかた

 先日、カギ屋さんにドアの錠前を交換してもらいました。うちのマンションで使われている錠前と同じタイプのものが泥棒に開けられてしまうという事件が多発しているというニュースがあり、急遽、カギ屋さんを呼ぶことになったわけです。

「ドアのほうもみておきましょう」

錠前の交換後、カギ屋さんはドアの蝶番のネジを締めてくれました。

「年に一度くらいはネジを締めておいてください」

このネジが緩むと、防犯上よくないらしい。

「ドアの閉まる速さも調節しましょうか」

何のことかと思ったら、ドアの上部についている箱の横っちょにあるネジの締め具合を変えることで、ドアの閉まる速さを調節できるとのこと。ドアを開け放つと、ゆっくりと自動的に閉じていく、そういうドアがありますよね? その閉じていく速さのことです。

 ネジは三つあり、それぞれ、ドアの角度の範囲に対応しているらしい。つまり、ドアを一番開けた角度から途中の角度までは一つ目のネジ、その角度からまた次のある角度までは二つ目のネジ、そしてその角度からドアを閉めた状態までは三つ目のネジ、というふうに対応していて、それぞれの範囲における閉まる速さを別々に設定できるのです。

 いや、驚きました。ドアにこんな機能があったとは。実は我が家のドアは、手を放すとすごい勢いで閉まってバタンと大きな音を立てるので、ふだんは閉まりきるまで手を放さないようにしていたのです。調節の結果、ドアはゆっくりと閉まるようになり、手を放しても大きな音を立てなくなりました。

 それにしても、そんな機能があるなら、ドアの隅っこにでもその説明を貼っておいてくれればよいものを。まあ、メーカーにしてみれば、勝手にいじられて事故にでもなっては、ということかもしれませんが…。(2002.11.2)

No.182 エクストリーム・プログラミングに学ぶ

 『XPエクストリーム・プログラミング入門』(ケント・ベック著、長瀬嘉秀監訳、永田渉・飯塚麻理香訳、ピアソン・エデュケーション刊)という本を読んでいます。これはエクストリーム・プログラミング(XP)というソフトウェア開発手法を紹介したものですが、マニュアル制作を考えるうえでも参考になることが相当に含まれているように思えます。

 たとえば、XPではコミュニケーション、シンプル、フィードバック、勇気という四つの価値を重視します。コミュニケーションとは、プロジェクトに関わる人間同士のコミュニケーションを指しています。「プロジェクトの問題とは、重要なことを他の誰かに相談しないことから起こる」と述べられているのですが、これなどはそのままマニュアル制作にも当てはまりそうです。おそらくは、マニュアル制作に限らず、グループで取り組む仕事すべてに言えることでしょう。残りのシンプル、フィードバック、勇気の三つについても、そのままの形で適用できるものではないにしても、参考になるのではないでしょうか。

 四つの価値の説明のところで印象に残ったのは、「(尊重)respectという他の四つの価値よりも深い価値が表面下にある」ということが述べられている点です。XPを成り立たせる基本として、他のメンバーを尊重する姿勢が欠かせないというのです。またコミュニケーションの場合についての話になりますが、互いを尊重しながらのコミュニケーションは、たとえ仕事上のやり取りであってもとても気持ちのよいものです。逆に尊重する気持ちがなければ、しだいにコミュニケーションは苦痛になっていくのではないでしょうか。そういったことを思い浮かべながら、同書の説明に納得させられたしだいです。(2002.10.26)

No.181 門まで出て客を迎える

 「うちもやっとパソコンを買ったんだけどさ、メールの設定がうまくいかないんだわ」

北海道にいる兄からこんな電話がありました。兄の訴える窮状のポイントは次の三点でした。

・パソコン、添付ソフト、プロバイダーの資料が大量にあり、どれから手をつけてよかわからない

・どれをみても知らない言葉がやたらと出てきて読んでもよくわからない

・サポートセンターに電話しても全然つながらない

 どれもパソコンの問題点として何年も前から指摘されていることです。パソコンメーカーはマニュアルやサポート体制の改善に努力しており、状況はだいぶよくなっているのではないかと思いますが、ユーザー側から見ると、インターネットへの接続や添付ソフトも含めた「全体」が「パソコン」です。ある部分のマニュアルやサポートが改善されても、他の部分がダメだと、結局ユーザーはやりたいことができないということになってしまいます。TC業界の人には言わずもがなのことでありましょうが、やはり「全体」を考慮したうえでユーザーを導くことが必要なのだと思います。客を接待すべく部屋で待っていても、その部屋まで客がやってきてくれないことにはしようがないわけです。門まで出て客を迎え、玄関へと案内し、客の望む部屋まで導く、そういう存在がパソコン初心者には必要なように思えます。

 兄のほうですが、すでに支給されている仮IDをプロバイダーのウェブサイトで本IDに変更すればよいことが資料から判明し、関門は通り抜けることができたようです。(2002.10.19)

No.180 ダンス

  赤坂BLITZで行われたハイラ・モンピエ&クバニスモというキューバのアーチストのライブを見てきました。村上龍氏がメールマガジンで「間違いなく現代キューバ音楽界最強・最高の組み合わせだ」と熱烈に評価していたので(招致も村上氏による)、何年もライブには行っていないのにウェブで申し込んでしまったのです。実際、そのパフォーマンスはすばらしいものでした。ミュージシャンこそがこの世で最も幸福な職業だという長年の思いを新たにしたしだいです。

 会場の赤坂BLITZは中学校などにある体育館のような感じでした。椅子などはなくて、全員立ち見。音楽を楽しむ=踊るために来ているので、立ち見のほうが好都合なのですね。私は踊るとなると羞恥心のほうが先に来てしまうのですが、踊ることになんの気負いもなく、気の向くままに体を動かし、音楽と踊りを楽しんでいる、そういうふうに見える人たちが大勢いました。そうあるべきだよなあ、などと思いつつ、そういう人たちの踊りも見て楽しませてもらいました。

 すぐそばに年配の三人組の外国人がいたのですが、彼らも踊りまくっていました。三人のうちの二人が手を取り合って踊っていたところ、残された一人の女性のほうに一人の若い日本人男性が歩み寄り、自分の胸に手を当てながらお辞儀をし、それから女性へ手を差し伸べたのでした。一曲、お相手していただけますか、といったしぐさ。それから二人は踊りだしたのですが、若者は上手にリードして女性を回転させたりして、その二人の踊りはなかなか楽しいものでした。見事な若者です。

 ところで、そういう観客の踊りを見ていて気付いたことがあります。80年代に青春時代を過ごした者としては、踊りというとまずディスコのダンスを思い浮かべるわけですが、ハイラ・モンピエ&クバニスモの演奏で踊る観客たちのそれは、おそらくサルサなどラテン系の曲の踊り方がベースになっているのではないかと思うのですが、ディスコダンスとはまた別のものでした。

 その踊り方を文章で説明するのは困難です。腰を左に残しながら上半身を右にひねって左腕は脇を締めながら手を前に差し出して…などと書いていっても、あの踊りをその説明だけから再現できるとは思えません。イラストを付けたとしても、イラストは動きませんから、ある瞬間のポーズは示すことはできても、ポーズからポーズへの体の動かし方までは伝えられないことでしょう。踊りを説明するには最低限、動く映像は必要なのではないでしょうか。

 説明する内容に応じた説明の方法を選ぶ必要があるんですね、という具合に無理やりマニュアルの話に関連付けつつ話を終えることにしましょう。(2002.10.12)

No.179 明治の出版物に思う

 国会図書館がこの10月1日から「近代デジタルライブラリー」をウェブ上で公開しています。これは「当館所蔵の明治期刊行図書を収録した画像データベース」で、現在、人文・社会科学分野約3万冊を収録しているとのこと。要は、明治時代の本を1ページずつスキャナで取り込んだものをウェブで公開しているのです。

 試しに夏目漱石の『我輩ハ猫デアル』を見てみました。明治38年(1905)に刊行された本です。猫をあしらった装丁がなかなかおしゃれ。挿絵なのでしょうか、子供が猫の尻尾をツラマエテいる様子が障子に影として映っている絵のページもあります。そして本文は線が太く全体に丸みのある書体。当然のことながら、活字を一つ一つ組む活版印刷によるものでしょう。

 この約百年前の出版物と現代のそれとを比べると、本作りの舞台裏は大きく様変わりしたといってよいでしょう。活字を一つずつ拾ってページを組むということは、いまやほとんど行われていないはずです。執筆者もコンピュータで原稿を書き、そのデータをコンピュータでレイアウトする。場合によっては、執筆者がレイアウトまで行うこともあります。

 それだけの変化があったにも関わらず、明治の『我輩ハ猫デアル』がいま手元にあれば、明治の人たちとほぼ同じように、イラストや活字の味わいも含め、平成の私たちもその本を楽しむことができるように思えます。本の魅力、読書の楽しみは、昔も今も基本的なところでは変わっていないのではないでしょうか。なんだか面白いですね。(2002.10.5)

No.178  金木犀の不運

 住んでいるマンションの前にキンモクセイがたくさん植えてあり、いまの時期、ベランダの窓を開けるとそのよい香りが楽しめます。若いころはキャベツと白菜の区別もつかないくらい植物にはまったく関心がなかったものですが、三十代後半ころから少しずつ興味を覚えるようになってきたような気がします。

 ところでキンモクセイの香りですが、自分の中では単純に「いい香り!」という反応とはなりません。それはこういうことです。キンモクセイの香りは独特の魅力があり、しかも他の匂いを圧倒する強さがある。そういうことで、トイレや自動車用の芳香剤の匂いとしても使われています。私が育った土地にキンモクセイがなかったのか、あるいはそういう匂いに鈍感だったためか、自分の人生のなかでは、本物のキンモクセイの香りを知る前に芳香剤の香りとしてあの匂いを認識してしまっていたのです。そういうわけで、初めてキンモクセイという植物の花の香りをかいだときに私が思ったことは「トイレの匂いとそっくりだ」ということでした。悲しいかな自分の中での認識の順序は以来変わることがなく、あの香りに触れるたびに私はまずトイレを連想するのです。このことは私にとってもキンモクセイにとっても、不運なことだったなあと思います。

 そんなふうに感じるのは私一人ではないと思うのです。ここに一人いるということは、全国的には相当な数、そういう人がいることでしょう。キンモクセイの香りがしたとき、「いい香りだなあ」とあなたは感じるかもしれない。しかしあなたの隣にいる人は、トイレを思い出しているかもしれないので、ご注意ください。いや、別に注意すべきことではないのですが。(2002.9.28)

No.177  「答えてねっと」

 パソコンを使っていてわからないことがあったとき、人はどうするか。一番多いのは、「人に訊く」ではないでしょうか。わかる人が身近にいればその人に、いなければメーカーや販売店に問い合わせる。その結果、メーカーのサポート窓口の電話はいつも話し中です。

 なぜ自分で調べずに人に訊くかというと、それが一番楽だからですね。ほかの方法では、問題点がどこにあるか自分で整理する必要があります。たとえばパソコンがインターネットにつながらなくなったので、その対策をマニュアルで調べるとします。そのためには、問題点がハードウェアにあるのか、ブラウザーソフトにあるのか、OSにあるのか、プロバイダーにあるのか、といったところを見極める必要がありそうです。そうしないと、どのマニュアルを見ればよいのか、そしてマニュアルのどこを見ればよいのかがわからないからです。これでは、敬遠したくなるのも当然。一方、人に訊くのはとても簡単です。まず、「つながらないんだけど」の一言を発すればよいでしょう。そうすれば「いつから?」とか「何かいじった?」とか質問が返ってくるでしょう。それに答えていけば、問題は解決していくことが期待できます。

 ところで、マイクロソフトの運営するサイトに「答えてねっと」というのがあります。これは、人に訊きたいという人間の心理をうまく利用した仕組みになっています。インターネットでには、質問に答えてくれる掲示板やメーリングリストが多数ありますが、それをユーザーサポートの一環として取り入れた試みといってもよいでしょう。同サイトも、会員の質問に他の会員が回答するというところは同じですが、いろいろと工夫が凝らしてあります。質問者は、質問コーナーを「製品から質問」「現象から質問」「とにかく教えて!」の3種類から選べます。「とにかく教えて!」は、問題が未整理でも気軽に質問できるコーナーとなっています。会員は、掲載された質問を見て、答えられるものがあれば自由に回答を付けられます。質問しても回答してもポイントがもらえるというのが「答えてねっと」の最大の特徴です。質問者がその回答を評価すれば、回答者にはさらにポイントが追加されます。ポイントがたまると 、ポイント数に応じた景品の抽選に応募できるので、質問も回答も積極的に投稿されるわけです。

 マイクロソフトにとってはユーザーサポートの負荷が軽減するかもしれないし、質問者も回答者も景品をもらうことができるかもしれない。三方一両損ならぬ、三方一両得といった仕組みですね。なかなかいいアイデアではないでしょうか。(2002.9.21)

No.176 情報の今昔

 鎌倉時代でも江戸時代でもいいのですが、昔と現代とでどちらの人間のほうが大量の情報を処理しているかといえば、おそらく現代のほうでしょう。しかし、その差はそれほど大きくないのではないかと思ったりすることがあります。

 「そんなばかな、現代はテレビ、新聞、雑誌、インターネットと、さまざまな形で情報が入ってくるじゃないか。そういったものがなかった昔の何百倍もの情報を現代人は処理しているはずだ。」という声が聞こえてきそうです。そう思うのが当然です。しかし、こんなふうに考えることはできないでしょうか。人間を、一本の管と考えてみます。その中を通るのが情報です。どれだけの情報を受け止め、処理できるかは、その管の太さしだい。そう考えたとき、昔と今とで管の太さは変わっているのでしょうか。

 生物としてのヒトという意味では、数百年昔も今も同じだと思います。昔のヒト(たとえば江戸時代)の赤ん坊を現代に連れきてそだてれば、昔のヒトであることからくる違いなどは一切みられないとことでしょう(日本人の体型が昔と違っているのは、生活習慣や食生活など環境要因が大きく、後天的なものでしょう。生物としてのヒトの変化ではありません)。そうであるなら、「管」の太さは変わっていないのではないか。

 「管の太さは同じでも入ってくる情報の量が違うぞ」、という意見は当然あるでしょう。昔は管の中をチョロチョロとして情報は流れていなかったが、現代は限界近くまでドーっと情報が流れ続けていると。しかしそれについても、果たしてそうだろうかと思うのです。確かに文字として入ってくる情報の量は昔と比べ物にならないほど増えています。しかし、目や耳といった感覚器官は、どの時代のヒトの場合でも、常時情報を入手しつづけるものです。文字情報がなくても、ほかの種類の情報が管いっぱいに流れていたとは考えられないでしょうか。

 それはどんな情報か。たとえば道端に咲く花を見かけたとき、人間はそこからさまざまな情報を入手することができます。おおざっぱにいっても、どういう色か、どういう大きさか、どういう香りか、どういう手触りか、どこに咲いていたか、どういう季節か、どういう時間か、などなどさまざまな情報がそこには存在しています。さらに細かく花を見るなら、花びらの具体的な形状や、質感や、茎の太さや、いろいろな情報が得られます。文字にしていけば膨大な量になることでしょう。これは一例ですが、言いたいことは、情報は自然や人間の日常生活のなかに無限に存在しており、そういう情報を昔の人たちは現代人よりも豊かに感受していたのではないかということです。言い換えると、現代人は、テレビ、新聞、雑誌、インターネットというような情報源から大量の情報を得る代償として、かつては受け止めていた他の情報を受け損ねるようになってしまったような気がするのです。

 そんなふうに思うことはありませんか?(2002.9.14)

No.175 九月

 五月はほかの月より愛されている――以前、このコラムでそのように書きました。九月になり、涼しい風が窓から入ってくるのを感じると、「この月もまたそうだ」と思えてきます。

 『セプテンバー』や『セプテンバー・レイン』のように九月が曲名に使われた例は少なくありません。映画の題名にも九月はしばしば使われるようです。観たことはありませんが、『九月になれば』や『九月の空』という映画があります。『旅愁』という映画の原題は"September Affair"で、やはり九月が使われています。ちなみに、この映画のテーマ音楽の題名も『セプテンバー・ソング』。 やはり、九月も多くの人に愛されているのではないでしょうか。

 ところで、辞書を見て知ったのですが、"September people"で「55歳以上の中年後期の人々」という意味になるそうです(小学館ランダムハウス英和大辞典)。人生の秋を迎えた人々、というニュアンスでしょうか。しかし最近の50代というとずいぶん元気で若いという印象を受けます。高齢化社会・長寿社会を向かえ、人生の季節区分は見直しが必要かもしれませんね。(2002.9.7)

No.174 アマゾンのほとりにて

 書店で本を買うことがほとんどなくなりました。ほしい本はすべてアマゾン・コムで買ってしまうからです。一冊選ぶと、その本を買ったほかの人がどういう本を買ったかを表示してきて、それがまた面白そうなのでいっしょに買ってしまったりします。客に商品を買わせるためにはどうしたらいいかが徹底的に考えられている――アマゾン・コムに行くたびにそのように感じます。

 そのアマゾン・コムで先日も二冊の本を注文したのですが、届いたものを見ると一冊はどうも見覚えのある表紙なのです。ハッとして本棚を見ると、同じ本がそこにあるではありませんか。届いた本を手にとって見直すと、確かにこれは読んだことのある本でした。

 書店でなら、買う前に本を手に取り、帯の宣伝文句を読んだり目次を見たり冒頭の部分を読んだりして買うかどうかを判断します。すでに読んだことのある本なら、その時点でそれに気付くことでしょう。オンライン書店では必ずしもそうはいきません。本の紹介文や表紙の小さい写真などは出ていたりしますが、それだけでは今回のように既読のものであることを気付かせるには不十分なわけです。オンライン書店は、まだまだ改善の余地あり!ということを主張し、自分の記憶力の不完全さについては棚上げすることにしておきますか。(2002.8.31)

No.173 使う前の使いやすさ

 いまはたいがいのソフトウェアメーカーが製品の使いやすさに気を配っています。どんなに機能を詰め込んでも、それが使いやすくなければユーザーは使ってくれないということに気付いたからでしょう。しかし、気配りはまだ充分とは言えないという気がします。

 今日、ある大手ソフトウェアメーカーの製品の新バージョンが届きました。パッケージの中にはCDのケースが入っています。ケースをあけようとすると、あかない。ケースの一辺がビニールテープでとめてあるのです。そこでテープをはがそうとする。しかし、ピッタリと張り付いていて、どこからはがせばいいのかわからない。少し隙間がありそうなところを選んで、爪で引っかくようにしてテープの端をめくりあげる。いっぺんにはがすとテープが途中で切れてしまうので、徐々にはがしていく。そんなことをしているうち、テープの反対側のほうに小さく白い字で「PULL↑」と印字されているのを発見する。なんだ、ここからはがせばいいのか。途中まではがした反対側はそのままにし、PULLのところからはがし始める。ところが、「PULL↑」で示された矢印の意味がよくわからない。テープはケースのふちにそって張ってあり、形状としては細長い。矢印が示す方向は、このテープの長い方向へ向かうものではなく、短い方向へ向かっている。これではテープの端の一部ははがれるかもしれないが、全体ははがれないだろうに。などという具合に思考を蛇行させながら、やっとのことでケースを開けたわけです。このイライラとした気分、おわかりになるでしょうか。

 CDについては、まだ言わなくてはならないことがあります。CDのケースは左利きの人が考案したという噂を聞いたことはないでしょうか。たしかにCDのケースを、前面を自分に向けた状態から開こうとすると、左手で開ける動作をしなくてはならないのです。右手であけようとしてそれではダメだということに気付き、左手であけなおす、そういう経験は多くの人がしているのではないでしょうか。利き手がどっちであっても、簡単に開けられるケースなど、いくらでも考えられるはずなのに、なぜいまだにCDのケースはこうなのでしょう。

 それだけではありません。そう、ケースに中に収まっているCD-ROMを取り出す方法のことです。CDの中央部分を強く押し込みながら、別の手でCDの外周を持って取り出す。たかがCDを取り出すことのために、どうしてこんなやっかいなことをさせるのでしょう。怪我で片腕が使えなかったり、何本か指が使えなかったりしたら、この作業はとたんに難しいものとなります。第一、ぱっとみただけでは、どうやって取り出せばいいのかわかりません。

 CDが登場した当時のケース設計者の立場で考えると、貴重な情報(音楽やソフトウェア製品など)が収録されており、場合によっては非常に高価なものとなるCDを収めるケースは、むしろ開けにくく、CDを取り出しにくいものであるべきだという事情があったのかもしれません。また、取り出しやすさよりも、CDを安全に収納でき、移動時の振動などにも耐えられることが重要だったのかもしれません。つまり、その時点では使いやすさなどは二の次、三の次だったのでしょう。

 時代は変わりました。CDは老若男女あらるゆ人たちが使う身近なものとなっています。ソフトウェアメーカーは、製品の使いやすさに気を配るのであれば、製品を使う前の、ケースからCDを出す部分の使いやすさについても考えるべきなのではないでしょうか。(2002.8.24)

No.172 PHS再び

 外出の機会が増えてきたので再びPHSを購入しました。色も形もなかなかおしゃれで、見た目についてはかなり気に入っているのですが、ちょっと使いにくい。

 今回のものも含めるとこれまでに3社のPHSを使ったことになりますが、会社ごとに使い勝手がかなり異なります。たかが電話、といいたいところですが、携帯電話にしろPHSにしろ非常に多機能で、しかもその機能を限られたボタンで使えるようにしなくてはならないため、使い方がわかりやすく設計されていないと非常に使いづらいものとなってしまいます。

 よく設計されたものならば、見ただけでだいたいの操作はできるものです。以前使っていたiモードの携帯電話はそうでした。しかし今回の機種は、いろいろとボタン操作を試し、マニュアルを読み、やっと使い方がわかる、という感じです。

 携帯電話/PHSのユーザーインターフェースなど、研究し尽くされていてどのメーカーの製品も同じように使いやすい、という状況になっていてもよさそうですが、実際にはメーカー格差が相当あるといえそうです。なんだか不思議な気がします。(2002.8.17)

No.171 ケータイ

 よく使われる言葉は、それが長いほど略語化される傾向があります。パーソナルコンピューターはパソコン、デジタルカメラはデジカメ、原動機付自転車は原付、という具合です。そういった略語の一つとして最近「ケータイ」が定着してきたという感じがします。ケータイはもちろん携帯電話のことです。

 携帯電話を文字で書くときの略語が漢字の「携電」や「携帯」とならずにカタカナの「ケータイ」となったのはなぜでしょうか。まず「携電(けいでん)」と「携帯 (けいたい)」とを比べると、デンよりもタイのほうが音の響きが軽くていいという感じがします。デンでは重たい感じがあり、小さくて軽いという携帯電話のイメージに合わなかったのではないでしょうか。 それで「携電」が脱落。

 次は「携帯(けいたい)」と「ケータイ」の勝負。「携帯」という言葉は元々存在する熟語で、「たずさえ持つこと」という意味があります。そういう言葉を文中で使うと紛らわしくなる 。ならばカタカナで書いたほうがいい。このあたりで漢字表記の「携帯」は脱落。

 カタカナ表記ということなら「ケータイ」ではなく「ケイタイ」でもよいわけですが、「ケイタイ」では何か堅苦しいような古めかしいような印象があります。警察隊とかそんなようなものも連想させられそうです。そこで、実際の発音のとおりに「ケータイ」と書くことで(ほとんどの人がケイタイとは言わずにケータイと言いますね)、より軽く、自由で、新鮮な雰囲気を出した 。「ケータイ」という書き方が普及してきた理由はそういうことではないでしょうか。

 と、普及の背景に思いをはせつつも、自分で使うとなると抵抗感を覚えるというのも正直な気持ちではあります。(2002.8.10)

No.170 背広問題を考える

 夏真っ盛りの今日この頃。背広を着て出かけると、これほど非合理的な行為はないという気持ちになります。国家的な問題ではないかとさえ思えます。

 まず、ワイシャツに問題があります。生地の通気性がよくないことに加え、袖と襟のボタンを留める構造なので、内部は密閉された状態となります。さらに襟はネクタイでもってしっかりと首に密着させる。さながら携帯サウナです。その上に背広を着るわけです。外を歩き出せばたちまちワイシャツの中は汗だくとなります。下半身はどうか。まずは靴にかぶるくらい長いスラックスで脚全体は覆われます。腰はベルトでしっかり絞る。そして足先からスネの半ばまでを覆うソックス。それはズリ落ちないようにゴムがついており、スネにピッタリと張り付きます。靴はもちろん通気性ゼロの革靴。上半身同様、下半身もすみずみまで汗ばみ、むれるという仕組みです。

 そんな背広を着る習慣のせいで、日本の夏場に何が起きるか。吹き出た汗でワイシャツが体にべったりと張り付いた男たち、そういった男同士が体をくっつけ合わさざるを得ない満員電車、その不快感を少しでも緩和すべく行われる過剰な冷房、過剰な冷房にカーディガンなどで対応する女たち、…。こんなことが日本各地で数十日間続くわけです。なんというエネルギーの無駄づかい。

 国民の健康、発電施設の過多(夏場の突出した消費電力に対応するにはたくさんの発電所が必要になってしまう)、地球温暖化、といった観点から考えて、日本の背広問題は国家的な問題なのである、と言っては大げさでしょうか? いや大げさではないのです。それが問題とされたからこそ、かつて羽田元首相は「省エネルック」というキャッチフレーズのもと半そでの背広という大胆な格好をしてみせたのでしょう。そう、背広問題は、何年も前から日本にとって国家レベルの課題だったのです。

 しかし日本人は「省エネルック」のスピリッツを忘れてしまったようです。コナカやアオキが涼しげな背広を開発したからでしょうか? 着たことはありませんが、ワイシャツの段階ですでにアウトであることを考えると、涼しい背広などは焼け石に水でしょう。そんな対症療法ではいけないのです。抜本的な解決策をとるべきなのです。そうです、背広をもうやめるのです。

 やめるにはどうすればいいか。ビジネスの場を考えるなら、上の立場の者から変えていくしかないでしょう。上司が背広を我慢して着ているのに部下が涼しいアロハシャツを着るわけにはいきません(着れる人は着ていいわけですが)。お得意さんの会社が背広姿なのにこちらが背広を着ないわけにはいかないということもあるでしょう。やはり立場の強い側から変わっていくのが一番簡単なのです。もしこれをお読みのあなたがそういう立場の方なら、ぜひ背広問題について考えていただけないでしょうか。(2002.8.3)

No.169 タイミング

 7月のはじめころは8月以降の予定がほぼ空いていました。このまま仕事がこないようなら「営業する」必要があるなと考えていたのですが、そのうちにいろいろと仕事が入ってきました。受けきれないかもしれないくらいです。これまでにもこういうことがときどきありました。

 仕事が途切れそうになると、ちょうどいいタイミングで次の仕事が入る。なんだか不思議な感じがします。仕事がきだすと、たて続けに集中してくる、ということもよくありました。これもまた不思議です。

 人に聞いてみると、同じように感じている人が少なくありません。これを神秘主義的に解釈するのは趣味ではありませんので、自分の気づいていない業界内のサイクルのようなものがあるんだろうなという程度に思っていますけども。ただ、これまでがそうだったからといって、これからもそうだとは限りません。「仕事は途切れないものだ」などと高をくくっていたのでは、いずれ仕事はなくなってしまうものだと思います。次につながるよう、常によい仕事をすることを心がけたいものです。(2002.7.27)

No.168 バージョンアップ

 Jasc社のPaint Shop Proという画像ソフトを数年来使っています。画像の加工やスクリーンショットをとるのが主な用途です。使い始めたころはバージョン4あたりだったと思うのですが、現在はバージョン7を使っています。

 これを起動するたびに「昔のほうが使いやすかったなあ」と感じます。機能はバージョンアップごとに増えてきていますが、増えたのは自分には必要ないものがほとんど。結果として、機能が増えた分だけメニューやツールバーがごちゃごちゃしてきて、自分にとっては使いにくいものとなってしまいました。それでも使い続けているのは、愛着があるから、ということになるでしょうか。

 ソフトメーカーにしてみれば、あるバージョンがひととおりユーザーに普及してしまうと製品は売れなくなるので、どうしても新バージョンを出さざるを得ない。そして新バージョンを出す以上は、操作性がよくなったとか動作が高速になったとかだけでは訴求力に欠けるため、「旧バージョンとはここが違う」ということをはっきりアピールできるよう、どうしても新機能を付け足していかざるをえない。でないと新バージョンを買ってもらえない。使いにくくなってしまった背景にはそういう事情がありそうです。

 いや、Paint Shop Proは、アドビシステムズ社のPhotoShopのような高度な機能を低価格で提供することを目指しているのだ、という意見もあると思います。しかし、本当に高度な機能を求める人なら、高価であってもPhotoShopそのものを買うことでしょう。高機能・多機能となったPaint Shop Proには、高速なパソコンと大きいモニターがふさわしいのですが、そういう環境にはPhotoShopこそがふさわしいような気がします。一方、ちょっとデジカメの写真を加工したいというレベルのユーザーなら、Paint Shop Proよりも安く簡素なソフトで十分です。結局、Paint Shop Proのさまざまな新機能は誰のためのものなのでしょうか。

 新しい機能を付加するのは結構なことです。しかし、理想を言うなら、それは使いやすいものであるべきだし、旧バージョンからのユーザーを戸惑わせるものであってはならないと思います。(2002.7.20)

No.167 後半

  個人的なことですが昨日で41歳になりました。人生を80年と考えると、後半のスタートとなります。この年齢からみると、成人してからの年数と、一般的な定年までの年数もだいたい同じくらいです。「働く人」としても後半に入ったといってよいでしょう。

 サッカーなら前半の経過を踏まえて、そのままでいく、切り札を投入して攻撃的にいく、守りに入る、などのプランを胸に監督がピッチに現れてくる場面でしょうか。人生を勝ち負けで考えるのは正しくないとは思いますが、より充実した後半戦にするという観点から今後のプランを持っておきたいものです(まだありませんが)。(2002.7.13)

No.166 「つましい」と「つつましい」

 「つ」の数が一つ違うだけですが、「つましい」と「つつましい」は別の言葉です。似ているので混同しているケースを見かけることもあります。「つましい」は「倹しい」と書き、倹約であることを意味します。「つつましい」のほうは「慎ましい」と書き、控えめで慎み深いという意味。「つつましい(つましい)生活」など、同じような場面で使えるだけに、混同しやすいのでしょう。倹しい生活は慎ましい生活につながるし、慎ましい生活のためには倹しいことが必要になるかもしれない。そんなことを考えると、余計、混同しそうです。皆さんは、違い、ご存知でしたか? (2002.7.6)

No.165 頑張る気持ち

 しつこいようですがまたサッカーの話です。

 2002年のワールドカップは明日で終わりですが、この一ヶ月の大会を通じて私が感じたことは、最後まであきらめずに頑張ることの大切さです。困難な状況のなかであきらめることなく最後の笛がなるまで必死で頑張る姿を多くの選手が見せてくれました。

「すべてのゴールは奇跡である」とは作家村上龍の言葉ですが、それが表しているようにサッカーにおいてはゴールをする、得点するということは非常に困難なことです。11人の男たちが90分間けんめいにがんばってやっと1点入るかどうかです。下手をすれば1点も入らずに終わります。そういうゴールを目指して戦うわけですが、たとえば相手は格上の国で、すでに1点リードされていて、もう残り時間も少ない、そんな状況では「もうダメだ」と思うのがふつうでしょう。しかしそのように思わず、逆転を信じて全力で頑張った選手たちをワールドカップでは見ることができました。そして実際に逆転の勝利を得たチームもありました。どの国のチームかなどということは関係ありません。そのように頑張る姿には誰しも大きな励ましを感じるのではないでしょうか。

 あきらめずに最後まで頑張れ。そのような励ましの言葉は珍しくありませんが、それを実践する姿ほど人を励ますものはないように思います。ワールドカップではそれを見ることができました。(2002.6.29)

No.164 創造性

 ワールドカップの試合は、国の威信、選手の名誉、ときには選手生命までをかけた究極の真剣勝負ですが、しかしその試合は、子供が遊んでいるかのように感じられることがあります。相手をかわすフェイント、キーパーを 小馬鹿にするかのようなループシュート、相手を翻弄するワンツーパス…。とくにブラジルの試合にはそれが感じられます。

 ブラジルの選手たちも余裕をもって試合をしているはずはありません。どんな強豪チームでもちょっとしたミスで負けることがあるし、ブラジル代表である自分たちが負けたらどれだけ国民を失望させるかということを彼らはよく承知している ことでしょう。ですから懸命になって全力で戦っているに違いありません。にもかかわらず、 子供が遊んでいるかのような楽しげな印象を受けることがときおりあるのです。

 素人考えですが、サッカーでは、体力、技術、組織力といったものだけでなく、相手の裏をかいたり相手が想像もつかないようなアイデアで局面を打開する創造性が重要になることがあるのだと思います。それを知っているブラジルは、選手の創造性を重視している。そういうことなのではないでしょうか。それがため、彼らのプレーはときに「子供が遊んでいる」ように見えるのでしょう。

 考えてみると、私たちの仕事においても創造性は大切です。文章を書くこと、本を作ること、ウェブを作ること…、そのすべてに創造性は関わってます。決められたことをきちんとこなしていくということが 仕事の基本ですが、さらによいものを作るためには、豊かな発想で局面を打開する創造性が必要になるのではないでしょうか。

 ちょっと強引だったかもしれませんが、サッカーと仕事を結びつけて考えてみました。(2002.6.22)

No.163 心の戦い

 ワールドカップの決勝トーナメントに日本が進出しました。アメリカ大会の予選での「ドーハの悲劇」や一次リーグで一勝もできなかったフランス大会のことを思い出すと、グループリーグ一位の成績での決勝トーナメント進出は夢のようです。

 どうして日本は勝てたのか。それはこの4年間のトルシエ監督と選手達の努力のたまものであることは間違いありませんが、開催国という地の利も大きかったようです。監督も選手も解説者も、サポータの声援の重要さを口々に述べていますし、敵チームも日本のサポータの声援が大きなプレッシャーだったと言います。

 これほどまでに観客の声援が重要視されるスポーツはほかにないように思えます。静粛にすることが求められるスポーツすらあるなか、なぜサッカーはサポータの声援が必要なのでしょうか。おそらくそれは、90分間、集中力を切らさず激しく動き続けるということが非常に困難なことで、それをするためには周りからの励ましが必要不可欠なのでしょう。さまざまな戦術が登場し、また新しい戦術にとってかわられ、進化しつづけてきたサッカーというスポーツにおいて、いまもなお観客の声援による励ましと、それによる選手の頑張り、そういう泥臭い部分が大きい要素を占めているわけですから、面白いものですね。

 サッカー選手は、肉体で戦うと同時に心でも戦っているわけです。私たちもよい仕事をするためには、技術を磨くだけでなく、苦しくても頑張り抜けるよう心を強くしていく必要があるのではないでしょうか。精神的たくましさを感じさせる日本代表の試合振りを見てそのようなことを思いました。(2002.6.15)

No.162 『暗号化』を読む

 スティーブン・レビー著『暗号化』(紀伊国屋書店刊、斉藤隆央訳)を読みました。スティーブン・レビーらしく、技術と人の関わりを感動的に描いた好著でした。スティーブン・レビーはパソコン誌などにコラムも執筆しており、『ハッカーズ』(工学社)、『マッキントッシュ物語』(翔泳社)など邦訳著書もある有名なライターです。

 暗号というとスパイの世界のことのような印象を受けますが、実は私たちの生活に欠かせないものとなっています。たとえばインターネットで情報をやり取りする場合、それが第三者に見られてしまっては困ります。インターネットで本を買うときにクレジットカードの情報をウェブサイトで入力しますが、そのカード番号が悪意のある第三者に簡単に「盗聴」されてしまったら大変なことになります。それを防ぐために暗号化の機能がブラウザーには組み込まれているのです。いわば暗号は、現在のインターネットの発展を支えている重要な技術の一つなのです。

 米国は、この暗号の技術を長い間、安全保障という大儀のもとで厳重に管理していました。敵国のスパイが第三者に解読できない暗号を使って情報をやり取りしていたのでは、情報の傍受ができなくなってしまう。だから暗号の技術は一般の人々には教えないし、自由に使うこともできないようにする法律で縛る。そういう理屈です。暗号の研究も、国家機関で秘密裏に行われていました。ところが、1970年代に公開鍵暗号という画期的な暗号技術が民間の研究者たちによって生み出されました。この強力な暗号技術が普及することを米国政府は防ごうとしました。そこから民間と政府の長い長い攻防が始まりました。

 本書で描かれているのは、公開鍵暗号の技術の誕生と成長のドラマ、そして国家権力との長い攻防です。一時期、クリッパーチップ問題が話題になったのを記憶している方もいることでしょう。クリッパーチップというのは、必要に応じて国家が暗号を解読できるよう「裏口」をしつらえておく暗号化装置の名前ですが、あれは一つの妥協案として政府が考案したものでした。それも本書で描かれている長い攻防のドラマの一幕となっています。

 結果的にこの攻防は民間の勝利となって収束しました。その一例がブラウザーです。現在はWindowsにもMacOSにも暗号技術が組み込まれているそうです。

 よいノンフィクションの本を読むと、著者に感謝したい気持ちになるのは私だけでしょうか。このようなことがあったということを教えてくれてありがとう、とそういう気持ちになります。(2002.6.8)

No.161 地球儀のマニュアル

 子供たちの学習用に地球儀を買いました。米国のリプルーグル・グローブスというメーカーのものです。

 これには"A GUIDE TO YOUR GLOBE"と題された十数ページほどの小冊子が付いていました。地球儀の使いかたを解説したガイドブックなのですが、読み物としても楽しいものでした。古代人の考えた世界のイメージや天文学の発達による丸い地球の発見といった科学史が紹介されていたり、シカゴから東京までの最短距離はどういうルートかといった問いかけがあったりするのですが、そういうトピックを楽しんで読みながら、地球儀で経度緯度や時差を調べる方法が理解できるようになっているのです。これも一種のマニュアルといえるでしょうが、このように楽しく読めるマニュアルを読んだのは久しぶりという気がします。(2002.6.1)

No.160 人間のハイパーリンク

 自分がいままでテクニカルコミュニケーションの分野でなんとか仕事をしてこれたのは、いろいろな人との繋がりによるところが大きいと思います。AさんからB社を紹介され、B社の仕事を手伝うことでCさんと知り合い、Cさんに誘われてD社へ行き…、といった具合。それはまるでハイパーリンクのようです。ホームページの文字や絵をクリックすると別のページが表示され、そこで何かをクリックするとまた別のページへ…、そんなふうにいろいろな情報が網の目のようにリンクされたしくみがハイパーリンクです。そんな人と人とのリンクのなかで多くの人や仕事とめぐり合ってきたという気がするのです。

 それほど人付き合いが得意なほうではない自分が、結果的には多くの人たちとの出会いによって仕事をしてこれたということは、幸運と呼ぶべきでしょう。自分ひとりの力ではこうはいかなかったはずです。このことを忘れないようにしたいと思います。

 逆にいうと、一見仕事とは無関係の人付き合いや遊びが仕事につながっていくこともあるということです。これも忘れないでおきたい。仕事オンリーの生活では、その後の展開が制限されてしまいかねません。仕事を離れた人間関係には、仕事の幅を広げたりキャリアを発展させるヒントや種があると思います。忙しいことを理由に狭い人間関係に閉じこもるのはいけません。意識してその殻をやぶっていくことも大事なのではないでしょうか。5月の朝、自戒を込めつつ。(2002.5.25)

No.159 五月

 五月というのは他の月よりも多くの愛情を人々から与えられているような気がします。五月ときけば五月晴れや、青空を背景にそよぐ鯉のぼりなど、さわやかなイメージが思い浮かぶのではないでしょうか。

 五月が愛されるのは日本だけではないようです。小学館のランダムハウス英和大辞典によると、英語のMayには五月という意味のほかに詩語として「盛り、青春」という意味があるそうです。the May of my lifeで「私の青春時代」となるとのこと。

 面白いことに五月(May)は日本語でも英語でも人名として、特に女性の名として多く使われます(日本語では五月と書いて「さつき」と読ませますね)。それはこの月のイメージが美しく魅力的であるからではないでしょうか。そのような人になってほしいという願いがその命名に込められているのだと思います。

 あなたは五月がお好きですか?(2002.5.18)

No.158 デファクト・スタンダード

 最近、ジャストシステムのワープロソフト「一太郎」やロータス社の表計算ソフト「ロータス1-2-3」などを使う機会がありました。これらはかつてそれぞれの分野で代表的なアプリケーションソフトとして高いシェアを誇っていました。私も昔使ったことがあり、懐かしい思いがしました。いまはワープロソフトも表計算ソフトもマイクロソフト製がその地位にいて、特にビジネスの世界では実質的な標準(デファクト・スタンダード)として扱われています。たとえばマイクロソフト製のワープロ「Word」で作った文書は、そのままのファイル形式でメールでやり取りされることが珍しくありません。メールを受け取った相手が「Word」を持っていないなどということはほとんどありえないことと思われているからです。デファクト・スタンダードとなるということは、そういうことです。

 マイクロソフト製品がそういう地位を占めている分野はほかにもあります。ウェブブラウザの「Internet Explorer」や電子メールソフトの「Outlook Express」などがそうです。これらの分野ではワープロほどの地位にはなっていないと思いますが、それでも利用者は一番多いはずです。

 デファクト・スタンダードが存在することには、いい面と悪い面とがあります。いい面としては、まず、先ほどあげたように、データ交換のファイル形式として利用できるということ があります。いろいろなソフトに精通していなくてもスタンダードのソフトだけ覚えておけばよくなる、というメリットもあるでしょう。悪い面もいろいろあります。大きい問題としては、一製品だけがデファクト・スタンダードであるという理由だけで突出して売れてしまうため、他のメーカーの商売が難しくなるということがあります。独占的な存在となれば、競争原理が働かなくなり、価格競争やソフトの健全な進化が妨げられる可能性があります。

 もうひとつ、この2、3年で明らかになってきた問題として、コンピュータウイルスの被害が拡大しやすいということがあります。マイクロソフト製のワープロ上で動作するマクロを利用したウイルスや、同社製の電子メールソフトに感染するウイルスが次々と発生し、世界的規模で被害を出しています。被害が広がった背景には、マイクロソフト製品がデファクト・スタンダードとして広く使われていることがあります。利用者が大勢いるがためにウイルスは簡単に広まっていくのです。たとえていうなら羊の群れの中に病気の羊を一匹放つようなもので、周りに同種族がたくさんいるためにウイルスはまたたくまに蔓延してしまうわけです。効果的にウイルスが広まるから、ウイルスの作者もそれ(マイクロソフト製品)を標的にしようと考えるのでしょう。同社のメールソフトやウェブブラウザーを標的としたウイルスがあとを絶ちません。

 久しぶりに触れてみたかつての人気ソフトは、当然のことですが私が使っていた頃(10年以上前になります)から比べて大きく進化を遂げており、使いやすそうでした。これで十分仕事ができることでしょう。価格も安いのです。私自身はマイクロソフト製品を好んで使用していますが、他社の製品ももっと利用されてしかるべきではないかという気がしたのでした。(2002.5.11)

No.157 知識の伝承

 あれじゃ苦すぎて食べられない――テレビでフキノトウを摘む場面が出てきたとき、義父と義母が口をそろえてそういいました。話を聞いてみると、フキノトウは小さなつぼみのころに摘むもので、テレビで出ていたように大きな花になったあとでは苦すぎて食べられないそうです。フキノトウは私の田舎でもよく目にしていたのですが、それを実際に摘んで食べた経験はありませんでした。

 親の世代は知っているが子供の世代は知らない、ましてや孫の世代においては…、というような知識がたくさんあるのだと思います。フキノトウのことは、テレビを一緒に見ていたおかげでたまたま知識のギャップがあることがわかったわけですが、気付いていないこともたくさんあることでしょう。とくべつ伝えなくてはならないようなものじゃない知識も多く含まれていることでしょうが、役に立つことまで伝わっていないとしたら、残念なことです。

 そうはいっても、知識を伝えるということは、そう簡単ではありません。私たちの仕事もまさに知識を伝えることですが、それが職業として成り立っていることが、その難しさの傍証となるのではないでしょうか。フキノトウの摘み方、食べ方という話なら、楽しく学ぶことができそうではありますが…。(2002.5.5)

No.156 コミュニケーションの技術

 ネットワーク上ではあちこちで喧嘩が起きています。ネット上の喧嘩のことを「フレーミング」といいます。flame(怒りでかっとなる)が語源でしょう。掲示板、メーリングリスト、ニュースグループなど、コミュニケーションの場はいろいろありますが、どこでもフレーミングは珍しくありません。ネットワークは人を怒りっぽくさせるものなのでしょうか。ふだんは物静かな人なのにドライブのときは人が変わったように乱暴な運転をするというケースと同じように、ネットワークのコミュニケーションは隠されたいた性格をあらわにするものなのでしょうか。

 文字だけのコミュニケーションでは、目の前に相手がいないため、冗談が真面目に受け取られたり、ふつうに書いた文章が攻撃的なものと思われたりといった誤解が起きやすい。これがフレーミングの最大の原因でしょう。つまり、本来なら(誤解が起きなければ)やらないで済む喧嘩をやっているのではないか、という気がします。メッセージを書く側は誤解の生じないように言葉を選ばなくてはならないし、読む側は文字面だけでなく相手の心情を汲み取るようにして文意を読み取るようにする。これをネットワーク上でコミュニケートする場合の基本姿勢としたいものです。

 意見が異なる相手と議論する場合には、さらに配慮が必要です。意見が異なればそれだけで腹立たしくなるものです。議論を喧嘩にしてしまわず建設的なものにするためには、双方の努力が欠かせません。そのために必要なことは、意見と人格は別だということをはっきりと意識することではないでしょうか。言い換えると、相手の意見に反対はしても、相手の人格について言及しないということ。議論が喧嘩のレベルになってしまう例を見ると、相手の人格を批判することが転換点になっているように思われます。

 ネットワーク上ではさまざまな人々との意見交換が可能です。それを有意義なものにするために、上記のことを心がけたいものです。(2002.4.27)

No.155 技術がもたらすもの

 先日、デジタルカメラで撮影した家族の写真のデータをお店(ミニラボ店というのでしょうか)でプリントしてもらいました。20枚以上頼むと10枚分は無料になるというキャンペーンの実施中だったからです。仕上がったものを見ると、従来の銀塩写真と比べて特に見劣りすることはないレベルの画質。3年ほど前に購入した150万画素のデジカメですが、一般的な写真サイズにプリントする分には問題ないことが確認できました。

 この先、写真のプリントはどうなっていくのでしょうか。今回はミニラボ店に出したものの、基本料金300円、プリント1枚40円と、それなりの料金がかかります。時間も4日間必要でした。最新のプリンタがあれば、店でプリントするのと変わりない品質のものがその場で得られます。ミニラボ店は、個人がプリンタでプリントするのに負けないメリットを提供できなければ、今後、苦しい状況に追い込まれる可能性もあるのではないでしょうか。国内に限ると、従来の銀塩式カメラよりもデジタルカメラのほうが出荷台数で上回っています。デジタルカメラの利用者を呼び寄せることができるかどうか、大きな分かれ道となるはずです。

 ある技術の普及が一つの業種に大きな影響を与えるということは、これまでにも繰り返しあったことでした。たとえば、印刷における写植や電算写植という仕事は、DTPの普及によりフェードアウトしました。完全になくなったわけではありませんが、マニュアル制作の分野では完全にDTPに置き換わりました。図を線画として描くトレースという仕事も、パソコン上のグラフィックソフトで行われるようになりました。技術は必ずしもすべての人を幸せにするわけではないということはいえそうです。

 働く者としては、ある仕事が新しい技術で別のものに置き換わるとき、上手に技術を取り入れて、次の職種へと転身できるようにしたいものです。言うは易し行なうは難し、でしょうけども。(2002.4.21)

No.154 Windowsの電卓

 MS-DOSがパソコンのOSとして主流だったころ、「コンピュータのくせして、足し算引き算もできない」というような言葉を聞くことがありました。たしかにMS-DOSだけでは何もできなかったのは事実ですから、そう言われてもしかたがなかったと思います。コンピュータは、アプリケーションソフトがあってはじめて人の役に立つものです。

 その批判を意識してかどうかは知りませんが、ユーザーフレンドリー(一般の人にも使いやすい)が売り文句だったMacintoshには、最初から電卓ソフトが入っていました。ごくシンプルなものではありますが、ちゃんと使えるもので、それは「コンピュータのくせして」という批判を封じる力があったと思います。

 Windowsにも同じように電卓ソフトが付属しています。たとえばWindows XPでは[スタート]−[すべてのプログラム]−[アクセサリ]と選択すると[電卓]というのがメニューに出てきます。これを選択すると、やはりMacintosh同様、ごくシンプルな電卓が画面に表示されます。

 WindowsがMacintoshをマネているということを言いたいのではありません(それはいまさら言うまでもない事実ですし)。このWindowsの電卓は、実は関数電卓の機能も備えているのです。Windows XP/Windows Me/Windows2000の場合は[表示]メニューから、Windows 98の場合は[電卓の種類]メニューから、[関数電卓]を選択すると、それまでシンプルだった電卓が、多数のボタンを備えた関数電卓に早変わりするのです。実は何年も使っていならがらそのことを知らず、ついさきほど偶然にそれを発見したのでした。

 機能はかなり豊富です。三角関数や対数関数などは自分には不要ですが、10進数と16進数の変換、括弧付きの計算、統計(平均値計算や合計計算)などは使えそうです。データの数が多いときには表計算ソフトのExcelを使ったほうが便利ですが、ちょっと計算したいというときにはこの電卓が役に立ってくれそうです。(2002.4.13)

No.153 朝日新聞土曜日版beに「マニュアル不要」コーナー

 盛んにテレビで予告されていたとおり、今日の朝日新聞にはカラーの別刷り版が2部入っていました。どちらも"be"という名前ですが、1つはビジネス情報中心のもので青を基調としたデザインに、もう1つはエンターテインメント情報中心のものでオレンジ色を基調としたデザインになっています。

 この青のbeに「マニュアル不要」というコーナーがありました。内容はインターネットエクスプローラーの「お気に入り」の整理方法です。「マニュアル不要」というコーナー名は、マニュアルを読まなくても製品が使えるよ、使えるようにポイントをお教えしますよ、というようなニュアンスでしょうか。マニュアルの難しさに手を焼いている人にアピールするようなネーミングといえるかもしれません。

 「マニュアル不要」などといわれて不快に感じる人が、マニュアル制作に携わる人のなかにはいらっしゃるかもしれません。しかし、ある意味、これはマニュアルの存在へ関心をもってもらうきっかけになるかもしれません。不要と思われないマニュアルを作ろうと、いっそう努力したいものです。また、テクニカルコミュニケーターの分野を他分野の人が侵食しているというふうにではなく、テクニカルコミュニケーターが活躍できる分野が広がっていると捉えたいところです。

 そういえば、テレビ朝日で「トリセツ」という番組も始まりました。トリセツとは取扱説明書の略称で、いわばマニュアル業界の業界用語ですが、それが題名に冠せられたわけです。まだ一回分しか放映されていないのですが、初回の内容は寿司屋でのマナーといったものだったようです。私は見てないのですが、聞くところによると、どうもデートマニュアル、という感じのハウツー的なもののようです。今後、携帯電話の賢い使いかたなど、技術系の話も出てくる可能性があるので、注目したいと思います。(2002.4.6)

No.152 『イブの七人の娘たち』を読む

 科学解説書の歴史を振り返ると、ファラデーの「ロウソクの化学」、ローレンツの「ソロモンの指輪」、ドーキンスの「利己的な遺伝子」など、名著と呼ばれているものがキラ星のように並んでいます。この本がそのような名著の殿堂入りを果たすかどうかはわかりませんが、大変面白く読める本であることは間違いありません。

 この本で解説されているのは、いまのヨーロッパの人々のほとんどが母親の母親の母親へと家系をずっとさかのぼっていくと七人の女性のいずれかに行き着くという学説です。本書の前半は、その結論が得られるまでの過程をミステリー風の味付けで見せてくれます。著者のブライアン・サイクスは、ヨーロッパの母親となった七人に、アースラ、ジニア、ヘレナ、ヴェルダ、タラ、カトリン、ジャスミンという名前を付けているのですが、後半では、それぞれの女性の生涯を、想像力豊かに短編小説のように描写してみせます。

 私にとって、これは読書の幸福を味わわせてくれる本でした。以前、このコラムで、本がすらすら読めるためには、その本の内容に興味があることと、本が読みやすく書かれていることの二つが必要条件ではないかと書きましたが、それは『イブの七人の娘たち』にもあてはまります。非常に興味深いというか、エキサイティングとすらいえる内容でしたし、読者を引き込む魅力的な文章で書かれてもいます。同じ内容でも、科学論文のスタイルでは、楽しい読書とはならないことでしょう。内容と表現と、両方が揃っている必要があるのです。 (『イブの七人の娘たち』 ブライアン・サイクス著、大野晶子訳、ソニー・マガジンズ刊)(2002.3.30)

No.151 お気に入りのソフトウェア

 いろいろなソフトウェア製品に触れる中で、これはいいなあと心底思えるものに出会うことがときどきあります。私の最近のお気に入りは二つ。Virtual PCとFinePrint2000です。

 Virtual PCは、「仮想PC」というその名前のとおりパソコン上で仮想のパソコンを実現するソフト。もう少し具体的にいうと、たとえばWindowsXPの上で、あるウィンドウではWindows95、別のウィンドウではWindows98を動作させるというようなことができます。元はマック専用のソフトでしたが、いまはWindows版も出ています。そのどこがよいのかというと、私たちの仕事では、新しいソフトウェア製品をいろいろなOS上で動かして動作を確認したり画面を撮ったりする必要がありますが、そういうことをするのに非常に便利なわけです。以前なら何台ものパソコンを用意するか何度もOSをインストールしなおすなどしていろいろなOS環境を用意する必要があったのですが、Virtual PCなら一度各種のOS環境を用意してしまえば、それを何度でも再利用することができます。数万円するソフトですが、試用版をしばらく使って、これはもう買うしかないと判断し、購入にいたりました。

 もう一つのお気に入りFinePrint2000(ファインプリントソフトウェア社)は、プリンタとアプリケーションソフトの間に立って印刷機能を制御するユーティリティソフトです。たとえば印刷を実行する前に自動的に印刷イメージを画面に表示することができます。これにより、期待どおりのものが印刷されるかどうかということを事前に確かめることができます。1枚の紙に2ページ分を縮小印刷する機能は私がよく利用するものです。そのような機能縮小印刷は紙の節約になります。プリンタやアプリケーション側でそのような機能をもっていることもありますが、FinePrint2000ならどのプリンタ、アプリケーションでもそれができますし、操作も簡単です。印刷イメージをそのまま画像データに保存する機能もあります。ワープロソフトのマニュアルや教材などでは印刷結果を説明の中で示すことがよくありますが、そういうときに便利です。FinePrint2000はインターネットでダウンロードでき、支払もインターネットで行えます。値段は数千円程度。

 Virtual PCもFinePrint2000も、自分にとってはその値段以上の価値が十分にある製品です。この製品のおかげで、それまで苦労していた作業が何分の一かの手間で済んでしまうのですから。同業者の方に強くお勧めしたい製品です。(2002.3.23)

No.150 冷凍食品あれこれ

 家内が派遣で数週間の会社づとめとなり、その間の夕食のしたくは私がするようになりました。最初のうちは肉野菜炒め+スクランブルエッグばかり。肉の種類、野菜の種類、味付け、を変えていくことで変化を付けることはできるのですが、やはり毎日それだと飽きてきます。そこで冷凍食品を試してみたのでした。

 なんて素晴らしいんだッ!! というのが使ってみての感想です。「!」マークがふたつある点に注目してください。私は感動したのです。コロッケや鳥の唐揚げなどが、レンジで一、二分加熱するだけでできあがるのです。まあ、いまごろこんなことに驚くのは私くらいなものでしょうが、自分で食材を切って調理するのに比べるとおそらく十分の一以下の時間です。味は、グルメな方には不満かもしれませんが、平均的日本人にはおいしく食べられるレベル。さらに値段も高くはない。たとえば小さめのコロッケが六個入ったものが、二、三百円ほど。スーパーの安売りを利用すれば、三割引、四割引とさらに安く買うこともできます(生活感たっぷりですね)。冷凍食品にキャベツの千切りでも添え、もう一皿、別に何か作り、漬物や納豆など出せば、我が家の夕飯のおかずとしてはもう十分です。これだ、これで行こう、と私は決心したしだいです。

 冷凍食品は家事と仕事を兼ねる人の強い味方だなあという印象をもった私は、「冷凍食品」をキーワードにウェブで検索してみました。すると、そのものずばり「冷凍食品のページ」というのが出てきました。これはなんなんだと思ったら、冷凍食品新聞社(業界紙ですね)というのがあって、そこが運営している冷凍食品情報のウェブサイトなのでした。「業界」が存在していることに少し驚いたわけですが、考えてみれば、スーパーにいけば冷凍食品コーナーがあって、いろいろなメーカーのいろいろな製品が並んでいます。日本の家庭に冷凍食品というのは広く深く浸透しているのですね。簡単でおいしくて安い。浸透するのも当然のことだ、と実際に自分で利用してみた私は思うのでした。(2002.3.16)

No.149 読む速度

 『流血の魔術 最強の演技』(ミスター高橋著、講談社刊)という本を最近読んだのですが、読了までに数時間ほどしかかかりませんでした。一方、ここ何ヶ月もかかってまだ読み終えていない本もあります。本によって読む速度はずいぶんと違ってくるようです。

 その違いはどこからくるのでしょう。二つの条件がありそうです。一つは、読み手がその本の内容にどれだけ興味を持っているかということ。読みたい情報がそこに書かれていると思えば、次のページ次のページへとどんどん読み進んでいけるものです(プロレスが好きな私は『流血の魔術 最強の演技』に書かれたプロレスの内情について大いに興味がありました)。もう一つの条件は、その本が読みやすく書かれているかどうか。どういうのが読みやすいかは、奥の深い問題です。読みやすさより、読みにくさのほうから考えたほうがまだわかりやすいかもしれません。たとえば難しい漢字ばかりだったり知らない単語が多かったりしたら、読みにくい。「てにをは」が不自然なのも読みにくい。センテンスが長いのも読みにくい。読点の位置が不適切なのも読みにくい。古語や外国語で書かれているものも読みにくい(あるいは読めない)。ほかにもいろいろと「読みにくさ」の原因はありそうです。

 マニュアルを喜んで読む人は少ないと言われますが、その理由は、上の話に当てはめると、どういうことになるでしょうか。一つ目の条件「本の内容に興味があるか」ですが、これはナイということになるでしょう。ユーザーが興味を持っているのは 製品によって得られる何かであり、マニュアルの内容ではありません。多くの場合、マニュアルは「やむを得ず」紐解かれるのです。マニュアル自体が面白い読み物になっていたりすれば、話は別かもしれませんが…。

 もう一つの条件についてはどうでしょう。マニュアルの制作者は読みやすくなるよう努力はしますが、難なく読めるマニュアルというのは現実にはあまりないような気がします。それは、マニュアルの出来不出来以前の問題として、製品の解説という性格上、読者の知らない単語や概念がたくさん出てこざるを得ないというところに大きな理由があるのではないでしょうか。

 このように考えると、マニュアルは、速くは読めないことがあらかじめ約束された本だということができそうです。それを克服する手段の一つとして、盛り込む情報を極端に減らし、薄い導入用マニュアルだけを提供し、あとはオンラインヘルプなどを参照させるというやり方も多くなっていますが、それは根本的な解決にはなっていません。薄いマニュアルは、多くの場合マニュアルとして役に立ちませんし、オンラインヘルプは紙のマニュアル以上に読みにくい場合がほとんどです。

 すらすら読める――どうにかして、そんなマニュアルを作ってみたいものです。 (2002.3.9)

No.148 教授、教示、享受

 インターネットでときどき「ご教授ください」という表現を目にします。何か質問をして、その最後の一文として使われることが多いのですが、これは「ご教示ください」が正しいものと思われます。広辞苑によれば「教授」とは「学術・技芸などを教えること。養護・訓練とならぶ教育上の基本的な作用とされる。」ということですので、ちょっと質問に回答してもらうという軽いものではなく、それなりの時間をかけて何かをしっかりと教わるという意味になるからです。「教示」のほうは「教え示すこと。」(広辞苑)ということですから、質問の最後に入れる文としてふさわしい。また、質問の最後に「ご享受ください」と書いているのも見たことがあります。これは「受けおさめて自分のものにすること。精神的にすぐれたものや物質上の利益などを、受け入れ味わいたのしむこと。」(広辞苑)ですから、まったく意味として合いません。質問に回答してくれた人に何かサービスをしてあげるとでもいうのなら話は別ですが…。

 このような誤用が起きるのは、それらの言葉を目からではなく耳から(音で)覚えたからなのではないでしょうか。キョウジュ、キョウジ、キョウジュと三つの言葉を並べれば、よく似ています。似ているというか、教授と享受はまったく同じです(発音は、「享受」のほうが頭のアクセントが強いと思うのですが)。もし、目から、つまり読書からこれらの言葉を身に付けたのならば、このような間違いはしないで済んだのではないでしょうか。

 ここで「最近の若者は本を読まなくなった」とでも嘆いてみせれば、苦言オヤジの一典型をご披露することになるわけですが、それはやめて、理由の考察にとどめておくことにしましょう。(2002.3.2)

No.147 「勝ち組負け組」という言葉

 去年はショウケツを極めた観のあった「勝ち組負け組」という言葉ですが、最近はだんだんとすたれてきたようです。私は見聞きするたびにそこはかとない不快感を覚えていましたので、嬉しく思います。

 不快感の理由ですが、省察してみるに、そういう物言いの背後にある価値観からすれば自分などはどうしたって勝ちのほうには分類されないだろうという思いがあることは確かですが、それに加えて「そんなに単純に勝ち負けを決めつけていいのだろうか」という疑念も感じるからのようです。

「勝ち組負け組」はもっぱら企業を対象として使われた言葉ですが、企業の価値というのは多面的なものだと思います。利益を上げることはその一つですが、従業員の生活とやりがいを支えることや、社会の一員として責任を果たすことも企業の価値ではないでしょうか。しかし「勝ち組負け組」という言葉からは、利益を上げたかどうかという単純な価値観しか感じられません。たとえば、リストラで大勢の従業員を解雇しながら利益を確保する企業と、業績を悪化させながらも従業員を解雇せずに生き延びる道をさぐる企業と、どちらが勝ちなのか。これは一言で勝ち組負け組と二分することはできない問題ではないでしょうか。

 最近、岡山のある企業に取材したテレビ番組を見ました。その企業は、不景気に伴う業績悪化に対してコスト削減を努力を重ねたのち、それではしのぎ切れないという判断をして、労働組合に賃金の削減を持ちかけました。解雇はしない、しかし賃金削減に応じてほしいという相談です。長期間の交渉の末に、組合はそれに同意しました。あわせて、その企業では、それまで60歳が定年だったのを、再雇用で65歳まで働ける制度を導入したそうです(年金の支給開始は65歳からですから、65歳まで働けるかどうかということは非常に重要なことです)。「勝ち組負け組」と口にしていた人たちは、この企業をどちらに分類するのでしょうか。

「倒産してしまえば、従業員の生活も社会の一員としての責任もあったものじゃないだろう」という声も聞こえてきそうです。それは事実でしょう。しかし、それは岡山の企業のようにぎりぎりの努力を重ねたうえでのみ言える言葉だと思います。その努力をせずに、従業員の解雇、長時間労働、サービス残業といった犠牲のうえで「勝ち」を得たとして、それは「勝ち」といえるのでしょうか。

 いまもときどき見かける「勝ち組負け組」という言葉から、そんなことを考えました。(2002.2.23)

No.146 厄年を考える

 「人の一生のうち、厄にあうおそれが多いから忌み慎まねばならないとする年。数え年で男は25・42・61歳、女は19・33・37歳などという。特に男の42歳と女の33歳を大厄といい、その前後の年も前厄・後厄といって恐れ慎む風があった。」(広辞苑)―という説明でいくと 数えで42となる私は現在「大厄」ということになります(数え年では、生まれたときを1歳とし、正月を迎えるごとに年が増える)。  

 根拠の感じられない俗信の類には興味はないのですが(先日、中古車を購入したときにセールスの人に「納車日として大安を指定する人もいる」という話を聞いて驚きました)、長い年月のなかで検証されてきたいわば「生活の知恵」のようなものも中には含まれていると考えるならば、厄年というものもそれかもしれません。

 人間の生涯をいくつかの時期に区切っていくとしたら、その区切りの一つが厄年のあたりに相当するのではないか、そしてその区切りを境に人間は体質や能力が何かしら質的に変化するのではないか、だとしたらその区切りを境に考え方・生活態度なども体の変化に合わせて軌道修正しなくてはならないのではないか、とそのように考えることはできないでしょうか。

 それに対して次のように反論することもできそうです。いにしえの時代と現代とでは、人の寿命も違えば、その中身も全然違う。だから、厄年という考えそのものは正しいにしても、何歳を厄年にするかは、現在の平均寿命などに当てはめて変更しなければならない。

 この反論に対しては、さらに次のような反論もありえそうです。昔の平均寿命が短かったのは病気や戦乱などで若いうちに死ぬ人が多かったためであり、寿命をまっとうした人たちはちゃんと高齢まで生きた。現代になって種としての人間が変質したわけではない。だから厄年の年齢は昔のままでよい。

 だんだんどっちでもよくなってきてしまいますね。ま、若くないんだから無理せずがんばっていきましょう、ということだけは言えると思います。同年代の皆さん、いかがでしょうか。(2002.2.16)

No.146 中古車とパソコン

 これまでに乗った4台の車はいずれも中古車でした。その4台目が走行距離10万キロを超え、そろそろ寿命というころあいでしたので、10年ぶりに車を買い換えました。今回もまた中古車です。これまでのなかでは一番高い50万という値段でした(もちろんローンです)。

 昭和時代の車に長らく乗っていたせいで、車についての感覚がずいぶんと時代遅れになっていたようです。今回買ったのは7年前に作られた車で、すでに十分古いのですが、昭和時代の車と比べるとこれが最新装備満載というふう見えるから面白い。パワーウィンドウ、電動式サイドミラー、運転席のドアと連動して他のドアもロックされる機構など、そのいちいちに感動してしまいます。子供たちがそれに感動するのを見るのは、少々不憫な気がしないでもないのですが…。

 パソコンもこんなふうに昔のものが使えるとよいのですが、なかなかそうはいきません。実用的に使えるのは、せいぜい3年前くらいのものではないでしょうか。用途を限定すればもう少し古いものでも大丈夫ですが、車のように10年20年という期間までは使うことはできません。

 この違いは何によるのでしょうか。車の場合、<人や物を乗せて移動する>というところがその本質的な価値なので、古くなったとしても動きさえすればOKです。一方パソコンは、<速度>に本質的価値があるように思えます。速くソフトを動かすこと、速くインターネットに接続すること、速く仕事をこなす手助けをすること、といった具合に。速度が価値ということならば、それはどんどんと速くなっていかざるを得ない。速いものほど売れるわけですから、メーカーは速いものを作ろうとするでしょう。

 車との対比でいうと、車が乗せるものは人や荷物であって、それは時代が変わっても大きくは変わらない。それに対し、パソコンが乗せるものは、OSであったり、アプリケーションプログラムであったりする。これは時代とともに「重く」なっていく。どんどん重くなっていく。そうなると、古いマシンでは運べなくなる。人は必然的に新しいパソコンを求める。

 と書いておきながら逆のことを言うようですが、パソコンの速度はもう十分な速さに達しているので、状況は変わりつつあるようです。これからは古いマシンも長く使えるようになるかもしれません。高価なものなのですから、長く使えるのが当たり前ですね。中古パソコンの出番が増えることを歓迎したいと思います。(2002.2.9)

No.145 小説「血の日曜日」

 学生時代にいっしょにSF同人誌を作っていた友人が、当時作った同人誌のコピーを持ってきてくれました。20年近く前に書いた自分のSF小説は、いま読み返してみると書き方も感じ方も幼く、気恥ずかしいのですが、なんともいえぬ懐かしさもありました。また、「時代」というようなものも感じられる気がします。楽しんでいただけるかどうかはわかりませんが、その中の一編をここに掲載することにします。中で血液型についての話が出てきますが、完全なフィクションですので、どうぞお聞き流しのほどを。

―――

血の日曜日--Bloody Sunday--

 オレはO型である。誰が何と言おうとO型人間である。その証拠に、オレは一目ぼれしやすい。特にA型の女にはやたらと弱い。なぜなら、A型の女というのはやさしく、そして控え目だからだ。

 ところが、困ったことに現在日本ではO型とA型は別々に住んでいる。東経138度以東にO型が、以西にA型が住んでいるのだ。

 ことの始まりは、1987年に結成されたO型同盟である。枝葉末節にこだわるA型が人口の4割を占め日本を支配しているから様々な社会問題が起こるのだ、ノンビリとしたO型が優位に立つようになれば日本もよほどくらしよくなるだろう。そう考えて、全国のO型人間が団結したのだ。O型の結束は強い。やがて調子に乗ってB型がこれに加わった。それに対抗して、A型はAB型を味方に引き入れ、日本の全人口を二分する対立に発展したのだ。そして、ついに、後にOA戦争と呼ばれる争いが始まった。1990年のことである。

 一年間にわたる「血で血を洗う」戦いは、東経138度を境にして両者が住み分けるということで一応の終結をみたのであった。血液型を分ける境界線であることから、これを人々は「血境」と呼び、この血境には延々と鉄条網が張り渡され、人の往来はできないようになった。

 敵方の侵入と味方側からの亡命を防ぐために、血境パトロールも置かれた。オレはその一員である。オレの仕事は、後を絶たない亡命者の逮捕だ。向こうからこちらへ来ようとする者はほとんどいないが、こちら側から向こうへ亡命しようとする者は少なくない。それというのも、O型の男がA型の女に弱いからである。オレももちろんO型なのでその気持ちはよくわかる。しかし、しかしだ。その感情に負けては、理想の国家は建設できないのだ。

 

 その夜も、オレは担当区域をパトロールしていた。風音にまじって、ささやき声が聞こえていた。

「会いたかったよ」

と男の声。

「私も」

と、これは女の声。

「一週間に一度しか会えないなんてさびしいよ」

「私も。毎晩でもあなたに会いたい」

「でも、それは危険なんだ。この鉄条網があるかぎり、ネズミのようにこそこそと会うしかないんだ」

すすり泣き。

「私、もうこんなのイヤ。イヤ、イヤ。あなたと一緒にくらしたいっ」

しばらく沈黙。やがて、強い調子の男の声。

「よしッ。おれはそっちに行くぞ」

 思いついたらすぐに実行するのがO型である。オレは、声のしたほうへ駆けた。案の定、男は4メートルの鉄条網をよじ登っていた。下には、あちら側から男を見つめている女がいた。

「おいッ、もどらんかッ。もどらんと撃つぞ」

 オレは銃をかまえた。しかし、オレが撃つより先に、A型側から銃声が聞こえ、男は鉄条網にひっかかったまま動かなくなった。続けて、オレの足元で銃弾がはじけた。オレは、呆然として立ちつくしている女に向かって叫んだ。

「危ないから伏せてろ!」

 オレのほうを見た女のその顔はチャーミングだった。あと十秒も見つめ合っていたら、オレは完全にほれてしまっただろう、彼女は背中から弾丸に撃ち抜かれて倒れてしまった。あんなカワイイ娘を撃つなんて、A型の奴らは人間じゃない。

「ゆるせんッ」

 そう言ってオレは奴らに向かって発砲した。弾が左腕をかすめた。右手をあてがうと、熱い液体が流れ出ていた。これがO型の血だ。だが、その血のどこがO型なのか、オレには分からなかった。

 やがて味方が駆けつけ、戦闘は拡大していった。

 

 後にこれは「血の日曜日」事件と呼ばれるようになる。この事件が発端となって第二次OA戦争が始まったのである。時に1993年、冬のことであった。(おわり)

―――

 どうでしょうか。幼いおバカな作品ですが、幼いなりに笑える面白さもあるように思うのですが、ウヌボレですかねえ。題名は、U2の曲からとったように思います。 出だしの部分は豊田有恒のマネ(オマージュといいたいところですが)。鉄条網の話などは、冷戦時代を反映しているといってよいでしょう。ベルリンの壁が壊されるのは、この小説を書いた1983年から数年を経た1989年のことです。

 地方の学生の書いた小説にも、こうして時代の空気が自然と反映されているというところも、興味深いように思います。(2002.2.3)

No.144 コラボレート

  テクニカルライターは孤独だという話を前回のコラムでは書きましたが、見方を変えると、「孤独なテクニカルライターなどありえない」と言うことだってできるのではないかと思い至りました。

 それはこういうことです。マニュアルにしろ書籍にしろ、ほかの形態のメディアにしろ、その制作工程の最初から最後までをテクニカルライターが一人でこなすことはほとんどありえない。多くの場合、ほかの人の協力を得ながらそれを作り上げていく。マニュアル制作の場合でいえば、情報を提供してくれるクライアント、取材に応じてくれる開発者、ディレクタ、デザイナ、イラストレーター、DTPオペレータなど何人もの人がマニュアル制作に関わってくる。その人たちはマニュアルを作るという共通の目的のために力を合わせている。この状況のどこが孤独というのだろうか。そのように考えることができるのではないでしょうか。

 書籍、雑誌、新聞などに原稿を書く場合にしても、ライターがただ一人で書き始めて一人で書き終えるというようなものではありません。どういうものを書くのかということについて、ライターは編集者との会話の積み重ねによってイメージを作り上げていきます。原稿を書き、編集者の意見を聞き、軌道修正を行い、さらに原稿を書く。壁に突き当たったときには、編集者の励ましが大きな力になることもあります。多くの書籍において著者による編集者への謝辞が見受けられるは、慣習もあるでしょうが、執筆を終えた著者の自然な気持ちの表れだろうと思います。

 結局のところ、テクニカルライターをはじめとしてテクニカルコミュニケーターの範疇に入る人は誰しも、一人で仕事をしているのではなく、誰かとともにコラボレートしながら何かを作り上げていく。部分的に見ればそれは孤独な作業も多く含まれるわけですが、全体を俯瞰してみるならば、私たちの仕事はレガッタの漕ぎ手のように協同なくしては成り立たない。そういう意味において、私たちは孤独ではないということができるのではないでしょうか。(2002.1.26)

No.143 テクニカルライターの孤独

  フリーランスで仕事をしているライターは(翻訳者も同じかもしれません)、二重の意味で孤独です。一つは、家で一人で仕事をしているという意味で、もう一つは、やった仕事についての評価を得られにくいという意味で。

 企業の中で仕事をしているライターであれば、先輩や同僚、あるいは後輩が周りにいるわけですから、物理的な意味で「一人ではない」ということは言えると思います。しかしフリーランサーでは、家族がいれば別ですが、独身で一人ぐら しということだと、物理的に一人っきりになります。そういう状況では言葉を丸一日発しなかったということも珍しくありません。

 もう一つのほう、仕事についての評価が得られにくいというのは、こういうことです。マニュアルは製品に付属するものなので、マニュアルのよしあしは製品の売れ行きにほとんど影響しません。極端な言い方をすると、作ったマニュアルがよかろうが悪かろうか、誰も気にかけない。ほんとに極端な言い方ではありますが、そういう傾向が実際には存在します(書籍や雑誌記事のライティングの場合は別です)。それから、ページ数の多いマニュアルでは、それをちゃんと通読して評価すること自体が困難となるという事情もあります。マニュアルを通読したのは制作の担当者だけ、というケースは実際にありえる でしょう。そういったことから、マニュアルを書いてもそれについての評価はなかなか得られないわけです。マニュアルを書く側にしてみれば、キャッチボールで投げた球がぜんぜん返ってこないようなもので、これはある意味では「孤独」な状況だといえるのではないでしょうか。これは企業内で働いているライターにも共通していえることかもしれませんが、企業の場合は評価を行うシステムのできあがっている場合もあるでしょうし、自社製品のマニュアルであればユーザーからの問い合わせの多寡などから間接的な「評価」を得ることもできそうです。「 孤独なのはフリーランスの場合だけではない」と主張される企業内ライターの方もいらっしゃるかもしれません。マニュアル制作の何から何まで押し付けられ、手伝ってくれる同僚もおらず、仕事への評価もされない、とそんな状況におかれている方なら、そのように主張する権利を十分にお持ちだと思います。

 こんな具合にライターの孤独を語って、「それで何がいいたいわけ?」と問われると言葉につまるのですが、「まあ、お互いがんばろうよってことだよ」とでも答えましょうか。孤独でも、ネットでなら他のライターと語り合うことも可能です。人間はどうがんばっても孤独を解消することはできないが、孤独感を共有することはできる、そんな誰かの言葉が記憶にあるのですが、誰が言ったのかは忘れてしまいました。(2002.1.19)

No.142 インクジェットプリンタの進化に感動する

 ファクスやプリンタが一体となったCanon MultiPass B10を2年ほど使っていたのですが、ファクス機能の調子が悪くなったため思い切って新しいのを買いました。同じシリーズの最新機種MultiPass C70という製品です。

 使ってみてその高性能に驚かされました。まず印字がきれいなのです。MultiPass はインクジェットの印字方式を採用していますが、普通紙に印字しても以前のようなニジミがなく、レーザープリンタとくらべても全く遜色がありません。写真の印刷が美しいということはテレビCMでも店頭デモでも盛んに宣伝されているので承知していましたが、同じように文字の印刷も大きく改善されていたわけですね。

 それから、高速。仕様では最大で1分間に17枚の印刷が可能とのこと。これはB10の3倍以上の速度です。実際、使っているとその速さが実感できます。プリントアウト以外にも、ファクス送信時やスキャン時の原稿読み取りも高速になりました。

 キヤノンとエプソンの繰り広げるインクジェットプリンタの開発競争の成果ということでしょうか。たった2年でこれほどまでに変わるものなのですね。メーカーは大変でしょうが、ユーザーとしては単純にうれしいです。(2002.1.12)

No.141 正月、雪中でのチェーン装着に苦労する

 新しい年になりました。今年もよろしくお願いいたします。
 この正月は妻の実家に帰省していたのですが、帰る日の前夜からかの地では雪が降り始め、翌朝には相当の積雪に。帰路は雪道となることが予想されたため、急遽用意したネット式のタイヤチェーンを装着することになりました。

 ところがチェーンの装着は、簡単そうでいて、やってみるとなかなかやっかいなものでした。説明書がよくわからないのです。金属製の鎖でできた昔風のチェーンと違い、ゴム製で、タイヤを途中で回転させる必要のないタイプのチェーンなのですが、取り付けが簡単であることが謳われているにもかかわらず、私はすんなりとはそれを取り付けることができませんでした。雪の降るなか、写真入りで手順が示してある説明書を何度も読み返すのですが、あるひとつの手順のところが理解できないのです。焦っているせいもあったでしょうが、やはり説明のしかたにも問題があるように思われました。写真が不鮮明で内容が判別しにくいし、操作の指示文もあいまいで した。

 情けない気持ちになりながら私は思いました。「そうだよなあ、どんな単純な製品であっても、説明はわかりやすく正確に書かないと、こうやって困る人が出てくるものなんだよなあ」と。言い換えると、困っている人ほどマニュアルを必要としているわけです。そういう人の役に立たないようでは「何のためのマニュアルか」ということになってしまいます。

 結局、チェーンの装着に30分ほどかかりました。こういった苦労は、忘れないようにしたいものです。(2002.1.5)

No.140 グローバリゼーション雑感

 テクニカルコミュニケーションの世界に身を置く者の立場からこの一年を振り返ってみたとき、私の頭にまっさきに思い浮かぶ言葉は「グローバリゼーション」です。「IT」「ウェブユーザビリティ」「ユニバーサルデザイン」「ブロードバンド」といったキーワードも2001年のテクニカルコミュニケーションを語るうえでは欠かせないものだとは思いますが、それらはすべて「グローバリゼーション」という大きな潮流のなかの部分的な波だと捉えることができるでしょう。
 グローバリゼーションは、英語ではglobalizationと書くそうです。研究社の辞書によれば「(企業などの)世界的規模化」という意味ですが、実際にはもう少し広い意味で用いられているように思います。企業の競争が国境を越えて世界規模で行われ、その競争の激化のなかで、商習慣やさまざまな制度も世界共通のものへと集約されていく、そんなイメージで私は捉えています。
 作家の大江健三郎氏は、日本語でグローバリゼーションというと全面的によいことという印象があるが、英語圏では必ずしもそうではない、よい面と悪い面があり、グローバリゼーションに反対している人も大勢いる、ということを指摘しています。実際、日本では企業のスローガンとしてグローバリゼーションという言葉が掲げられるなど、非常にプラスイメージの強い言葉ですが、今年イタリアで開催されたサミットではグローバリゼーションに反対する人々の抗議デモが行われました。参加者が15万人とも30万人とも言われる大規模なデモで、警察との衝突により死傷者も出ました。「なぜグローバリゼーションに反対する人がそんなにいるの?」というのが日本人の平均的な受け止め方ではなかったでしょうか。
 グローバリゼーションとは、端的に言えば米国化ということだと思います。それがいい過ぎだとしても、米国化がグローバリゼーションの一側面をなしているということは間違いないでしょう。米国の基準に合わせ、米国のルールで競争する、それに追随できないものは脱落を強いられる。それがグローバリゼーションの実態だとしたら、もろ手をあげての歓迎はできないという気がします。
 ビジネスの場で「生き延びる」(サバイバル)という表現を目にすることが増えてきました。生きるか死ぬかという激しい競争を企業が強いられていることの証拠だと思います。グローバリゼーションがモノやサービスの低価格化を消費者にもたらすのだとしても、過剰なサバイバル競争は社会のあり方そのものをゆがめてしまう可能性があります。フリーランスの場合も、「生き延びる」ための最大限の努力が必要なのだろうと思います。そう思いながらも、はたしてこれは健全な姿だろうかという疑問も覚えないではいられません。
 来年もグローバリゼーションの潮流は変わることはないでしょうが、無理のない範囲でなんとかついていきたいものです。(2001.12.29)

No.139 セキュリティ情報を入手する

  猛威を振るったコンピュータウイルスは、少し下火になったもののまだ完全に駆逐されたわけではないようです。昨日も2通ほどウイルスメールと思われるものが私のところへ届いていました。

 コンピュータウイルスは、メールソフトやブラウザなどのセキュリティ上の弱点から侵入します。この弱点のことを「脆弱性」(ぜいじゃくせい)と呼ぶそうです。広辞苑によれば、脆弱とは「身体・器物・組織などが、もろくよわいこと」です。ソフトウェア製品には、「ここをたたくと壊れやすい(侵入しやすい)」という急所があるのですね。ウイルスはそこを狙ってきます。

 いままで知られていなかった脆弱性をつくコンピュータウイルスが登場するということはあまりなく、すでに知られている脆弱性が狙われるようです。ですから、ウイルスが登場する前に既知の脆弱性について対処しておけば、より安心ということになります。

 ウイルスの攻撃対象として選ばれることが多いのはマイクロソフト製のメールソフトやブラウザですが、その利用者にお勧めしたいのが「マイクロソフト プロダクト セキュリティ 警告サービス」 です。ここにメールアドレスを登録しておくと、マイクロソフト製品の脆弱性が判明した時点でそれをメールで知らせてくれます。たいがい、その脆弱性を改善する修正プログラムも提供されます。

 このサービスに登録してわかったのですが、実は脆弱性は山ほどあり、頻繁に警告メールが届きます。どのメーカーのソフトもこのように脆弱性だらけなのか、あるいはマイクロソフト製品だけなのか、私にはわかりません。しかし、いまの私たちの業界の仕事にとってマイクロソフト製品が不可欠であることは確かで、脆弱性があるからといって使用をおいそれとはやめられないというのは厳然たる事実です。マイクロソフト製品を使う以上は、上記サービスを利用するなどして、セキュリティについてできるだけの備えをしておくことが必要といえそうです。(2001.12.22)

No.138 ネット語にみる万葉集以来の日本語の伝統

 『漢字と日本人』(高島俊男著、文藝春秋社刊)を読んでいたら、こんなくだりがありました。万葉集の柿本人麻呂の歌で詠嘆の「〜かも」のところに鳥の種類を表す「鴨」の字を当てている例を紹介したあとで、「万葉集にはこういう用法がいっぱいある。いまで言えば「お前さん見たね」を「お前さん見種」と書くようなもので、一種のクイズにちかい。ふざけた気分でつかっているのでしょうね。」と書かれています。

 これを読んで思い出したのですが、「笑」を「藁」、「激しく」を「禿げしく」などと書くやり方をネット上で見かけます。もちろん正しい字を知っていながらわざと違う字を使ってふざけているのですが、その一見「日本語の乱れのきわみ」と思われそうな悪ふざけが、実は万葉以来の伝統を受け継いだ日本語のお遊びのひとつかもしれないなと思ったしだいです。そういえば、「〜である」を「〜でR」と書いたり(古い…)、長音記号の代わりに「ハッピ→」というように矢印を使ったり、言葉の書き方をずらすことで遊ぶやり方はいろいろありましたね。やり方は時代時代で変わるにしても、そういう遊び心は大昔からこの国にあったものなのかもしれませんね。(2001.12.16)

No.137 ウイルスがいっぱい

 複数のウェブサイトやメーリングリストを運営しているせいか、毎日数通のウイルスメールが届きます。こんなことは初めてです。夏に流行したSIRCAM(サーカム)や秋に流行したNIMDA(ニムダ)のときでもこれほどはひどくありませんでした。いま流行しているのは、ALIZ(アリズ)とBADTRANS(バッドトランス)。11月にはALIZによるメール(WHATEVER.EXEというファイルが添付されている)が多かったのですが、11月の終わりくらいからBADTRANSによるメール(二重の拡張子が付いたファイルが添付されている)が増えてきました。

 新種のウイルスが登場する、被害が広まる、新しい対策ツールがリリースされる、また新種のウイルスが登場する、といった繰り返しはいつまで続くのでしょうか。現状の見通しとしては、「いつも何度でも」というのがその答えになりそうです。自然界に存在するウイルスと異なり、コンピュータウイルスは人間が作っているものです。そういう人間がウイルス作りをやめれば繰り返しは止まるはずですが、1986年1月に発見された世界初のコンピュータウイルス「パキスタン・ブレイン」以来15年、新しいウイルスは次から次へと現れ続けています。ウイルス作成はそれなりに知的な能力が必要なはずですが、そういう能力を持った人が、それをこのような反社会的な方向で発揮するというのは、なんとも不思議な気がします。しかし、さまざまな犯罪行為が実社会でなくならないのと同じく、こういったウイルスもなくなることはないと考えほうがよいのでしょう。

 さて、そうだとしたら、私たちはどのように対策を立てればよいのでしょうか。外から帰ったら手を洗う、うがいをする、といった風邪対策と同じように、コンピュータウイルス対策を習慣化する必要がありそうです。具体的には、ウイルス対策ソフトを入れておく、そのようなソフトメーカーのウェブサイトでウイルス情報を定期的にチェックする、攻撃対象となるブラウザやメールソフトを常に最新のバージョンにしておく、 攻撃対象となっていないブラウザやメールソフトに切り替える、などが挙げられるでしょう。このような知識は、もはやコンピュータを扱ううえで必要な基礎知識のひとつと考えるべきかもしれません。(2001.12.8)

No.136 我慢比べの中で

 昨日の新聞で知ったのですが、国内の失業率はまた悪化したそうです。5.4%。男性に限ると、5.8%。女性のほうは若干低下したそうですが、それはアルバイトなど短期雇用・臨時雇用での就業が増えていて、立場としては不安定というのが実態。企業は生き延びるために、リストラを断行し、新規雇用を抑え、労働力の不足は臨時雇用で補っている、ということのようです。マニュアル制作会社やフリーランサーも、仕事を逃さないためには単価を抑え、短納期にも対応し、という努力が強いられている状況だと思います。それはまるで生き延びるための我慢比べ大会のようです。

 こういった中では、考え方は利益優先に傾きがちになるのではないでしょうか。利益を求めることはビジネスとして当然のことですが、利潤追求を唯一の目的と考え、利益のためなら法律に触れない範囲でどういうことをしてもよいと考えるとしたら、それは行き過ぎでしょう。経済活動には、広い意味で社会を動かす、成り立たせるという役割もあるからです。企業ならば、たとえば雇用を維持すること、環境に配慮すること、適正な納税を行い利益を社会に還元することなどがそれにあたるでしょう。フリーランサーの場合なら、自戒をこめて書きますが、質の高い仕事をすることやきちんと契約を履行すること(約束を守ること)などでしょうか。苦しい状況下でこそ、目線を高く保ち、仕事のあるべき姿を考えたいものだと思います。(2001.12.1)

No.135 ボーリング場にて

 家族サービスで久しぶりボーリング場に行ったのですが、TC的に面白く感じることがいくつかありました。

 まずはスコア計算。昔は(大昔ということかもしれませんが)、スコアは鉛筆で自分で書いたものでしたが、いまは自動的に計算されるようになっています。ですから「ユーザー」がするのはボールを転がすだけ。何本のピンが倒れたかとか、スペアやストライクのときの計算とかも、すべて自動で処理されて、モニター画面に表示されます。ゲームが終わって料金を精算すると、プリントしたスコアシートが手渡されます。それには、スコアはもちろん、各投球で倒れたピンの位置やアベレージなども記載されています。便利になったものです。

 もうひとつ面白かったことは、モニター画面に表示されているボタンの中に「取説」という名前のものがあったことです。当然「取扱説明書」を画面に表示する機能、つまりヘルプ機能なのだと思いますが、文字数制限の都合でそのような表記にしたのでしょう。なんとなく気後れして押して試してはみませんでしたが、いま思うと確かめておくべきだったという気がします。それにしても、「取説」では普通の人は意味がわからないのではないでしょうか。「説明」とか「解説」とかのほうがわかりやすいように思います。

 スコアの自動計算にはモニターでの操作は何も必要なかったので、取扱説明書も不要でした。よくできたユーザーインターフェースは、取扱説明書を必要としない、ということでしょうか。ただし、2ゲーム目になって投球の順番を変えたかったのですが、その方法はよくわかりませんでした。そのときこそ「取説」ボタンを押すべきタイミングだったわけですが、説明を読むのが面倒なような気がして、押せなかったのでした。そんなふうにちょっとした面倒くささから取扱説明書を読まない、ヘルプを参照しない、というのがユーザー行動なのだなと、みずからの行動を省みて考えるしだいです。(2001.11.24)

No.134 OSの移行は山あり谷あり

 予約していたWindows XPが昨日届きました。仕事関係で使っているアプリケーションがXPで動作することは確認できているので、さっそく主力機にインストール。Windows MeからXPへのアップグレードです。ところがプリンタドライバなどいくつかのソフトウェアが非対応であることがインストール時に判明しました。インストールソフトが解析してそのように報告してきたのです。ここまできてやめる気にはなれず、インストールを続行しましたが、プリンタやTV放送をパソコンで見るソフトなどが使えなくなってしまいました。後者は遊び用ですからよいとして、プリンタ が使えないのはちょっと困ります。

 プリンタは、ファクスと兼用の複合機です。このプリンタを動かすソフトウェアであるプリンタドライバは、Windows95/98/Me用しかありません。メーカーのウェブサイトを探しても、XP用はありません。Windows2000用があれば、おそらくXPでも動作したのではないかと思いますが、それもナシ。やむなく、このプリンタを主力機に接続することは断念。サブのパソコンに接続しました。代わりに、主力機には、古いレーザープリンタを接続。こちらはWindows2000用のドライバがあり、それがXPでも利用できました。 

 OSの移行ですから、いろいろな問題が発生するのはやむをえないと思います。私が経験したことは、まだ程度の軽いトラブルといっていいでしょう。広告では製品のよい面を強調しますから、使ってみたいと思う方は多いかもしれませんが、問題が発生する可能性もあるということを利用者は認識しておく必要がありそうです。(2001.11.17)

No.133 大失業時代のTC

  総務省の統計局の発表によると、9月の完全失業者数は357万人、完全失業率は5.3%。どちらも過去最高の数字だそうです。私が成人した80年代には日本の失業率は2%程度でしたから、当時と比べると失業者の数は倍以上になったということがいえるでしょう。ヤレヤレ。ちなみに「完全失業者」とは、ILO(国際労働機関)の定義によれば「仕事がなく、仕事を探していた者で、仕事があればすぐ就ける者」のことだそうです。失業してやむなくフリーターをしている人や、就業をあきらめて求職活動をしていない人などは、完全失業者には含まれません。ですから、広い意味で「失業」している人は、完全失業者数よりももっと多いということになります。
 ところでこの調査結果をよく見ると、産業種別によっては就業者が増えているものもあります。運輸・通信業とサービス業です(減っているのは、農林業、建設業、製造業、卸売・小売業、飲食店)。日本標準産業分類によると、テクニカルコミュニケーターの多くが所属するマニュアル制作会社、ウェブ制作会社、ソフトウェア開発会社、個人のライターや翻訳者などは、サービス業に分類されるようです。サービス業にはほかにもいろいろな分野が含まれるので、テクニカルコミュニケーション関連の分野の就業者数が増加しているということはできません。実際のところ、どうなのか。皆さんはどう思われるでしょうか。(2001.11.10)

No.132 Windowsと音楽

 Windows95のCDにgoodtime.mpgというファイルがあるのをご存知でしょうか。内容は、女性ボーカルのゆったりとした曲がハーレムの日常風景といった映像とともに流れるミュージックビデオになっています。 なんというバンドかはわかりませんが、私はこの曲と映像が気に入っていました。残念ながらWindows98やMeには、そのような"お楽しみ"を見つけることができませんでした が、今月発売されるWindows XPには、あるようです。マイクロソフトのプレスリリースによると、Windows XPには、80年代に活躍したトーキングヘッズというバンドの中心人物、デビッド・バーンのLike Humans Doという曲が収録されるとのこと。XPを買われる方は、ぜひご視聴を。(2001.11.3)

No.131 メルマガ

 仕事の関係でメルマガ(メールマガジン)の発行手順を確認する必要があったので、まぐまぐを使って実際にメルマガを発行してみることにしました。発行するためには、サンプルの文章を用意し、そのメルマガの案内のためのホームページも用意する必要があったので、そのとおりにしました。発行が承認され、購読者数が300万人以上というまぐまぐ自身のメルマガでそれが紹介されました。こうして首尾よく、メルマガの発行手続きを確認することができたわけですが、その後に起きたことは予想外の事態でした。
 私は自分のメルマガを誰かに読んでもらうつもりはありませんでしたから、手を抜いた紹介文をまぐまぐに送ってありました。しかしそれでも数十名の方が購読の登録をしてきたのでした。事態に戸惑いつつも、毎日、日記を書いてメルマガとして発行しはじめました。発行しはじめると、しだいに気合がはいってくるという感じがありました。あくまでも個人の日記なので、わかりやすさは考慮せず、状況の説明などもしませんが、そういう文章を書くことの新鮮味もあったと思います。しかし二十日間ほどそれを続けたところで、ふっとやる気がなくなってしまい、それまで毎日発行していたのを、途絶えさせてしまいました。そのままやめてしまってもいいかなという気持ちにもなりました。
 ところが2、3日、あいだが空いたところで、読者の方からメールが届いたのでした。短い内容ですが、温かい励ましのこもったものでした。それまではいったいどういう人が購読しているのか見当もつかなったのですが、実際に読者の方からメールをいただくと、発行してきたことの手ごたえがあり、やる気もまたわいてくるのでした。それに励まされるようにして、メルマガを再開しました。その後も、何人かの読者からメールをいただいたり返事を送ったりということがあり、メルマガの発行に加え、読者との交流という新しい体験もすることができました。
 仕事の都合で試しにやってみたことですが、それがこのように発展したわけで、世の中どこに面白い出来事が待っているか、わからないものだという気がしています。考えてみると、マニュアル制作にしろ書籍の執筆にしろ、ユーザーや読者の反応が直接自分のところへ届くということはまずありませんから、そういう意味でもメルマガでの体験は自分にとって興味深いものであるわけです。(2001.10.27)

No.130 変化

 テクニカルコミュニケーションの業界は常に変化しつづけてきたと言えますが、最近は一段とそれを強く感じます。変化が激しくなってきたということかもしれません。具体的に言うと、製品の取扱説明書の仕事が減ってきたこと、それに代わるようにして教材や書籍の仕事が増えてきたこと、納期が短くなってきたこと、そういう傾向がここ1年で強まってきたように感じるのです。たまたま自分のところに来る仕事がそうであるだけなのかもしれませんが、どの制作会社からの仕事もそういう傾向が感じられるので、業界全体の傾向なのではないかと思われます。
 理由を考えてみました。不況の影響があることは確かです。景気が悪ければ、マニュアルの制作コストは減らさざるを得ません。となると、外部へ発注するよりは、社内でなんとかしようという傾向が強まるのではないでしょうか。これがマニュアルの仕事の減っている原因ではないか。マニュアルについては、クライアントの社内へ出向して仕事をしてほしいという依頼が増えてきているのですが、これもマニュアルの内製化傾向の表れでしょう。
 教材や書籍の仕事が増えている理由は、パソコンやインターネットの普及にともなって、初学者が増え続けていることの反映でしょう。パソコンが”読み書きそろばん”と同じレベルの、社会生活に欠かせない基本素養となりつつあることを受けて、高校、専門学校、大学、企業主宰のセミナーといった場でパソコンを教えるケースが増えているのです。当然、授業には教材が必要となってきます。その制作にテクニカルコミュニケーターが求められるということではないでしょうか。
 納期が短くなった理由は、制作に関わる技術の進歩の結果でしょうか。いわば時代の必然。
 技術の進歩や社会の変化によって、一つの職種そのものがなくなってしまうことすらある時代です。仕事を続けていきたいと願うならば、変化に対応していくための努力は不可欠といえるでしょう。(2001.10.20)

No.129 MacOS X

 MacOS X(テン)の新しいバージョンが登場しました。いままではOS9を使っていたのですが、店頭でデモを見ているうち、衝動的に新バージョンのパッケージを購入してしまいました。
 うちのiMacでは多少動作にもたつきがあるものの、これまでのMacOSとはずいぶんと異なる雰囲気でとても新鮮です。ウィンドウを表示したりアプリケーションを起動したりといったOS上の操作をするのが楽しく、意味もなくいじってしまいます。
 そんなふうに意味もなくパソコンをいじってしまうというのは、初めてマックを購入したときにも体験したことでした。MacOS Xは、そんなふうにパソコンを操作する楽しさを改めて感じさせてくれます。ただ、残念なことに、対応するアプリケーションがまだ少なく、実用性という点ではまだ旧OSに軍配があがります。早く多くのアプリケーションケーションが対応してくれるとよいのですが…。(2001.10.13)

No.128 テクニカルメディエイター?

 Windows MEが不安定で困るという話を先週書きましたが、常駐型のソフトを削除することで大きく改善されたということをまずご報告しておきます。パソコンには最初からいくつかの常駐ソフトがインストールされており、周辺機器やソフトを買い足すたびにそれが増えていく。便利さを実現すべく、パソコンメーカー、周辺機器のメーカー、ソフトハウスのそれぞれがさまざまな常駐ソフトをパソコンへ組み込むという状況が、パソコンを不安定なものにしているという因果関係を目の当たりにした思いです。

 大江健三郎氏と小沢征爾氏の対談でインタープリターとメディエイターという言葉が出てきました。作曲家の書いた楽譜を読み取り、聴衆へと伝える、そういう意味で指揮者はインタープリター(通訳者)なのだと小沢氏は語ります。それに応じて大江氏は、メディエイター(仲介者)という言葉で芸術家の役割を説明します。「メディエイトする、仲介という訳が適当だと思いますけど、とにかく介添えしたり、媒介したり、仲立ちしたりする。キリストも神様と人間をメディエイトする意味で、メディエイター、その女性形のメディエイトレスは聖母マリアをさしますね。ある個人の考え方、個人のなかの深いものを、自分を通してほかの大多数の人に伝えるというのは、通訳というよりも、メディエイターだと思いますね。」(中央公論新社『同じ年に生まれて』より)

 メディエイト(mediate)を辞書で引いてみると、調停する、仲裁する、和解させる、協定などを (調停して)成立させる、贈物・情報などを取り次ぐ、といった意味が出ています。これを見てみると、テクニカルコミュニケーターの仕事は技術と人の間をメディエイトすることである、ということもできそうです。「情報を取り次ぐ」というのはまさにそうですし、人は新しい技術に対して不安感、恐怖感(ときには怒りも)を感じることがあるものですが、それを「仲裁」したり「和解」させたりするという側面も私たちの仕事にはあるのではないでしょうか。テクニカルメディエイター (technical mediator)、なかなか語感もよさそうです。(2001.10.6)

No.127 Windows ME

 仕事の都合上、先月、新しいパソコンを購入しました。WindowsMEがインストールされていたので、それをそのまま使うことにしました。これまで使っていたWindows98と大きな違いはなく、フリーズ(パソコンが反応しなくなること)が多いところも同じです。使っているアプリケーションの組み合わせがよくないのか、日に何度もフリーズしてしまいます。まるでエンストばかり起こしているオンボロ車のようです。

 それでよく仕事になるなと言われるかもしれませんが、パソコンはそういうものだと思って使っているので、データ(例えば書いている原稿)を頻繁に保存する習慣が身についており、データを失うということはありません。悲しい習慣ではありますが。

 11月に発売される新OSのWindows XPでは、従来より安定性が増すようです。他のいろいろな機能よりも、それが何よりも嬉しいと思うのは私だけではないでしょう。宣伝文句にいつわりがないことを願っています。(2001.10.1)

No.126 『ロンドンで本を読む』を読む

 『ロンドンで本を読む』(丸谷才一編著、マガジンハウス刊)という本のことは、新聞などの書評でも取り上げられているのでご存知の方は多いことでしょう。イギリスの書評を紹介する本なのですが、丸谷氏によるその前書きはイギリス書評の歴史や伝統を格調高く面白く解説したもので、それ自体大変読み応えのあるものでした。

 その文章のなかで丸谷氏は、書評ジャーナリズムの始まりを18世紀か19世紀前半とし、その背景には「単行本が情報の容器として重要なものになり、読者がふえた」ということがあるとしています。「さうなつた以上、紹介し論評する機関が必要だつた」ということです。

 雰囲気はずいぶんと異なりますが、それと同じような事情がITの世界にもあるといえるのではないでしょうか。たとえばウェブサイト、ウェブサービスは日々増え続けており、インターネットの利用者も増加の一途をたどっています。それを背景として、パソコン雑誌やインターネット関連雑誌にウェブサイトを紹介するコーナーは欠かせないものとなっています。コンピュータ関連の製品やネットで流通するシェアウェア/フリーウェアについても同様です。私自身、そのようなレビューの仕事を長らく続けています。

 同書で丸谷氏は、イギリスにおける書評の機能として、(1)本の内容を紹介すること、(2)読むに値するかどうか本を評価すること、(3)本の紹介をきっかけに見識と趣味を披露し、知性を刺激し、あわよくば生きる力を更新すること(=批評性)という三つを挙げています。これをITに当てはめるならば、(1)製品やサービスの内容を紹介すること、(2)利用するに値するかどうか評価すること、と二つまでは言い換えが可能だと思います(三つ目については保留)。こう考えると、IT分野でのレビューにもちゃんと社会的な役割があるのだということがわかります。

 しかし、自戒しつつ思うのですが、残念ながらIT分野でレビューは(1)の段階で終わってしまっていることが少なくありません。雑誌の製品レビューに対して「提灯記事だ」という批判の声を聞くこともあります。レビューはジャーナリズムの一つであり社会的な役割を持ったものだと考えるなら、レビューを書くときに私たちはぜひ(2)の機能を意識すべきです。

 こんな具合に意外な方角から刺激を受けることもあるという意味でも、読書は楽しいものですね。(2001.9.22)

No.125 テロと想像力

 米国のニューヨークなどで起きた同時多発テロには驚きました。事件の報道を見てさまざまなことを感じましたが、その一つは、想像力の重要性です。現代においては、いろいろな意味で、想像力を働かせることが不可欠であると感じました。

 世界貿易センタービルに飛行機が突入する映像やそのビルが崩れ落ちる映像をハリウッド映画の一シーンのように感じた人は多いのではないでしょうか。特に子供にとっては、ちゃんと説明されなければ、あれが現実に起きたことだとは思えないことでしょう。パソコンの画面も含め、多くの情報を画面を通して得ている私たちにとって、それがフィクションなのかノンフィクションなのかをきちんと区別しておくことが求められます。それには、画面の向こう側にある現実の世界をしっかりとイメージする想像力が必要なのではないでしょうか。

 なぜあのようなテロ事件が起きたのかを考えるうえでも想像力は重要です。テロは狂信者によるものであってその精神は理解不可能だ、と片付けてしまうことは簡単です。しかしそれでは、テロはいつまでもなくなることはないでしょう。大勢の命を奪ったことは許せないことですが、テロの実行犯にも私たちと同じ血が流れ、家族や友人がいたと想像してみること、そういう彼らがなぜテロへと至ったのかを想像してみること、それは事態の根本的な解決のために無駄なことではないと思います。

 話はいきなり身近なレベルになりますが、考えてみると、私たちの仕事においても想像力というのは大切です。たとえばメールでのやり取りにおいて相手の気持ちを想像することは、コミュニケーションを円滑に進めるうえで必要なことです。メールではこちらの微妙な感情は相手に伝わりませんから、相手はどういう気持ちか、自分の書いたメールがどう受け取られるか、そういったことに想像を働かせるべきです。また、どんな人がマニュアルを読むのか・どういう状況で読むのか、という具合にマニュアルの読者のことを想像してみることも有意義です。構成を考えるとき、表現を考えるとき、そういったさまざまな局面で、読者の行動や気持ちを想像してみることで、よりよいアイデアが得られるように思います。(2001.9.15)

No.124 IT業界の激変に思うこと

 ゲートウェイの日本撤退、HPによるコンパックの買収、ソネットによるジャストネットの買収と、IT業界で大きな出来事が続いています。まさに弱肉強食といった感じを受けます。いったいこの先どうなっていくのか、多少の不安を覚えざるを得ません。

 弱肉強食というと野生の世界の話ですが、考えてみると野生には野生のルールがあります。必要以上の殺生はしないというルールです。生きていくため必要な分だけ、「強 」が「弱」を食う。必要もないのに「強」が「弱」を襲っていたのでは、食物連鎖のバランスが崩れてしまいます。

 ビジネスの世界で弱肉強食は必然的なことかもしれませんが、野生の世界同様に、全体のバランスを崩さないためのルールが守られるべきなのかもしれません。(2001.9.9)

No.123 坊主刈り

 この夏は暑かった、サッカーの小野選手がやっていた、などの理由から今年の夏は頭を坊主刈りにしていました。家に古い電気バリカンがあるのですが、それを使いました。時間は10分ほどで終わります。簡単だし、お金もかからない、しかも涼しい(風のそよぐのが 頭皮で感じられるほど)、といいことずくめの坊主頭です。欠点を挙げるとするなら、会う人ごとに理由を説明しなくてはならないということぐらいでしょうか。もちろん、好みの問題は別としての話ですが(それが一般には一番大きい問題なわけですけども)。(2001.9.1)

No.122 夏を振り返る

 あと一週間で八月も終わりです。暦の上では立秋をとうに過ぎていますが、私はいつも九月の声が聞こえるこの時期になってはじめて夏の終わりを感じます。一週間で子供たちの夏休みも終わり、あちこちの花火大会もなくなり、日本全体がどことなく「祭りのあと」の虚脱感や寂寥感を漂わせる…。

 今年の夏は、仕事に忙殺された季節でした。極端な言い方をするならば、ずっとパソコンの前にすわっていた三ヶ月間でした。夏らしい過ごし方ができなかったことを残念に思う気持ちも多少ありますが、大メーカーのリストラ、失業率の増加、といった社会状況を考えるなら、こうして忙しく仕事ができていることをよしとしたいです。皆さんにとって、今年の夏はどんな夏だったでしょうか。(2001.8.25)

No.121 Yahoo! オークション体験

 はじめてヤフー!のオークションに出品してみました。余っていたCDステレオやPHS電話機など数点です。果たして入札してくれる人がいるのかどうか、はなはだ疑問でしたが、結果は見事、出品したものすべてが落札されました。とはいうものの、こちらの設定したオークション開始価格も数百円から千円程度でしたし、落札額もそこからさほど上乗せもされていない程度の金額です。しかし送料は先方にもっていただくため、こちらは不要になった品物でもって利益が得られるのですから、これはなかなか嬉しいものです。さらにいうなら、まだ使える製品が、廃棄処分にならずに、これからも人に使ってもらえるというのが嬉しい。使えるものを捨てるのはなんといってももったいないですから。オークションがすっかり気に入ってしまいました。(2001.8.21)

No.120 久しぶりです、ポーグさん

 来週はお盆で、夏休みとなる会社も多いことでしょう。しかし以前のように全国全企業一斉に夏休みという感じではなくなってきているようです。当事務所の取引先についていうと、会社全体としては短い夏休みを設け、あとは個人が自分の都合で夏休みを取るというスタイルが多くなっています。よいことだと思います。ちなみに私は夏休みはナシで、楽しく労働に汗を流しつつ盛夏を過ごす予定です。

 閑話休題。米国の新聞ニューヨークタイムズのサイトでユーザー登録すると、その日のニュースの見出しや、選択した分野のニューズレターがメールで送られてきます。私は「サーキット」というデジタル分野のニューズレターを購読しているのですが、そのライターであるデビッド・ポーグ氏は、古くからのマックユーザーにとっておなじみの人物です。彼はマック関連の書籍を何冊か出版していて、マック専門誌でユーモアのあるコラムを連載していました。私は、かつて親しんだライターが、こうして米国を代表する新聞で書いていることが単純に嬉しく思われたのでした。がんばれ、ポーグさん!(2001.8.11)

No.119 徹夜の乗り切りかた

 やはりときには徹夜で乗り切らなくてはならない局面が、私たちの仕事にはつきもののように思われます。そんなとき、どうするか。私の場合は、まず濃い目の紅茶を大量摂取。そして、眠くなっても椅子からは離れない。床であっても横になって寝てしまえば、数時間は起きられない可能性が高い。だから、横にはならない。その代わり机につっぷして眠る。これなら長くても20分ほどで目覚める。そしてこの20分ほどの短い眠りがリフレッシュのためにじつに効果的なのです。徹夜にならないようにペースを配分していく工夫をするのが、一番なのではありますが…。(2001.8.4)

No.118 『千と千尋の神隠し』

 先週、宮崎駿監督のアニメ映画『千と千尋の神隠し』を観ました。引越し先の家へ向かう千尋(ちひろ)とその父・母。迷い込んだ山道でトンネルを抜けた先にあった異世界。そこは人間が来てはいけない場所。父と母は豚に変えられ、千尋はヤオロズの神が訪れる湯屋で働くことになり、さまざまな人と出会い、さまざまな体験をする、そんなストーリーです。

 傑作を観たという思いが、一週間後のいまも強く残っています。子供は子供の目で、大人は大人の目で(子供時代を懐かしみつつ)、ともに大いに楽しめるすばらしい映画だといってよいでしょう。映画に感動すると同時に、こういった作品を人間が作り出せるのだという事実にも感動しました。(2001.7.28)

No.117 適正な単価

 店に並んでいる商品と同じように、マニュアルにも単価があります。ライティングなら1ページいくら、翻訳なら1ワード(単語)いくら、といったぐあいです。安くないと売れない、しかしいいものなら多少高くても売れる、といったようなことは、やはりマニュアルの世界にもあって、売る側も買う側もそのあたりは意識しながら取り引きをしてい ると思われます。

 適正な単価はいくらなのか。これは立場によって違ってきます。メーカーであるA社が制作会社のB社にライティングを依頼し、B社がそれをC氏に外注したとします。C氏にしてみれば、作業の時間や大変さに見合った額が適正価格ということになります。B社にとっては、社内経費と外注費を引いても利益の出る金額が適正な額ということになるでしょう。発注元のA社にとっては、予算内で収まれば、それが適正単価ということになるでしょうか。極端なケースでは、B社の売値がC氏の単価の倍近いというようなこともあるかもしれません。

 現在、TCストリートではマニュアル制作の単価についてのアンケートを実施中です。ライティング、DTP、テクニカルイラスト、ディレクションについて、作業の条件を設定して、相場としての単価がいくらになるかを調べようというもので、集計は今月末の予定。はたしてどのような結果が出るのでしょうか。(2001.7.21)

No.116 間違いメール

 あるポータルサイトが提供している無料のメールアドレスを持っているのですが、そこにときどき間違いメールが届きます。スパム(大勢の人に向けて配信される営業用メール)ももちろんありますが、知らない人から、個人的な内容の書かれた、しかも自分に身に覚えのない内容のメールなども来るのです。あきらかに間違いメールです。間違いメールが来るのは、そのメールアドレスが単純でありがちなものだからでしょう。取得したのがサービス開始から間もない時期だったためか、そのようなアドレスを登録することができたのでした。

 送り手の側に立ってみると、間違いメールは場合によっては非常に重大な事態を招いてしまう可能性があります。たとえば、同僚に送るつもりで書いた取引先の悪口を、当の取引先へ送ってしまったとか、恋人へ送る熱烈なメールを二股かけている別の恋人へ送ってしまったとか、「致命的」状況はいくらでもありそうです。いや、たぶん実際にそういう出来事は起きていることでしょう。何千万という人々が日夜メールを使っているわけですから。

 間違いメールを送らないためには、間違いメールが発生するパターンを理解しておくことが役に立つでしょう。パターンはいくつか考えられます。一つは、キーボードから宛先を入力するときに、入力ミスをするというパターン。私のところへ来るものは、たぶんこれでしょう。入力ミスではなくて、電話などでメールアドレスを聞いたときに間違えてメモしてしまったというようなパターンもあるでしょう。これらのパターンは、私のように無関係な相手に届くか、該当する宛先が存在しなくてメールが届かない、という結果になるでしょうから、あまり害はなさそうです。危険なのは、受け取ったメールへの返信を送る場合に、別のメールを返信の対象としてしまうというパターン。本来送るべき相手も、間違って送ってしまった相手も、自分に関係のある相手なので、場合によっては「致命的」な事態となるかもしれません。アドレス帳に登録してある相手に送るときに、別の登録アドレスを指定してしまうというパターンもあるでしょう。

 皆さんもメールの送り間違いにはご注意を。人に見られて困るようなメールは送らないというのも有効な対策ではありますが…。(2001.7.14)

No.115 うなだれた首筋に差す日の光

 十数年前、会社勤めをしていたころのこと。毎朝、通勤電車の窓から同じ男性を見かけました。その男性は私と同じ電車に乗り、私が降りる駅よりも手前で降ります。そしてホームを歩いているところを私が電車の中から見るわけです。

 彼は、これ以上ないという程うなだれて歩くのです。年齢は60くらい、中肉中背で普通に背広を着た男性なのですが、首を水平近くまで倒し、自分の足元を見つめながらとぼとぼと歩くその姿は印象的でした。ビデオテープの再生のように、毎日同じ姿勢、同じ速度で歩く男性の姿がホームにありました。

 窓際に追いやられ職場で毎日辛い時間を過ごしているか、再就職先の性に合わない仕事で苦労がたえないか、そんな職場での様子を私は想像し、いつも「あのようにはなりたくない」と思っていたものでした。実際には、彼は職場では生き生きと仕事をしている有能な人物であったかもしれません。あくまでの私の勝手な想像です。

 いま彼のことを思い出してみると、もう少し別の見方もできるような気がします。期間の長さはいろいろであるにしても、人は多かれ少なかれ、うなだれてしまう状況を経験するものではないでしょうか。自分にもこれまでそういうことはあったし、これらもあることでしょう。「あのようになりたくない」と思うだけでなく、そうなったときにどのように立ち直るか、どういう道があるのか、ということも考えたいものだといまは思うのです。

 話し変わって、構造改革を目指す小泉内閣の経済財政諮問会議が発表した「今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針」(いわゆる骨太の方針)では、「効率性の低い部門から効率性や社会的ニーズの高い成長部門へヒトと資源を移動」することを宣言しています。その過程で大勢の失業者が発生することが予想されています。そして2〜3年は低い経済成長率を甘受しなければならないとも述べています。そのとおりになるとすれば、うなだれて足元をみながらとぼとぼと歩く、そんな状況に追い込まれてしまう人も大勢出てくるのではないでしょうか。そうなっても、再び前を向いて歩けるようになる、そのような世の中であってほしいものだと思います。(2001.7.7)

No.114 マックにも小型キーボード

 キーボードは小型がいいと前回のコラムで書いたあと、マック用の小型のキーボードを求めてパソコンのアウトレットショップへ出かけました。Windowsマシンには以前から小型のキーボードを接続していましたが、マックのほうはフルキーボードでした。マックは幅のないパソコンデスクに置いてあるため、キーボードの横幅の長さは作業効率に大きく影響するのです。マックを使って長時間の作業を行うことが決まっていたので、小型のキーボードを用意する気になったのでした。

 ところが店にはマック用で小型のタイプはありませんでした。手ぶらで帰るものシャクでしたので、Windows用の小型キーボードを買いました。値段は4000円です。USBインタフェースで接続するようになっているので、マックでも使えるのではないかと目論んでのことです。

 その目論見はほぼあたりましたが、多少問題もありました。マックに接続してふつうに文字の入力をすることはできるのですが、キートップと入力文字が一致しない記号キーがいくつかあるのです。それからEnterキーの位置と大きさ、これも難有りでした。Enterキーを押すつもりで別のキーを押してしまうのです。もう少し慎重に選ぶべきだったと反省しています。(2001.6.30)

No.113 キーボードも省スペースで

 パソコンにはたいていキーボードが付属しています。そしてそのキーボードは、ファンクションキーやテンキーを備えたフルキーボードである場合がほとんどです。結果として、パソコン利用者の多くがフルキーボードを使っているというのが現状だろうと思います。

 ところで私はフルキーボードがあまり好きではないので、メインのマシンにはノートパソコンのキーボードほどの面積しかない小型のキーボードを接続して使っています。フルキーボードが嫌いな理由はただ一つ。幅がありすぎるのです。幅が広いと机のスペースが狭くなります。狭ければ、マウスを置く場所に困るし、資料を広げる場所も奪われます。広いキーボードの横にマウスを置くスペースは、私の机にはありませんから、キーボードの前か後ろかのどちらかに置くしかありませんが、それではマウスの操作がしにくくなってしまいます。テンキーやファンクションキーがあることのメリットよりも、幅が広いことのデメリットのほうが私には遥かに大きく感じられます。

 もちろんそんなことは人それぞれ。その上で相撲が取れるくらい大きな机を持っている人もいるかもしれませんし、机の下のスペースに置いたマウスを足で操作するのがお気に入りという器用な人もいるかもしれません。フルキーボードで問題なしという人は大勢いることと思います。しかし、キーボードが小さければ机の上がもっとゆったりと使えるし、ファンクションキーもテンキーもいらない、という人も、たぶん相当数いると私はにらんでいます。そんな人のためにメーカーは小型キーボードのオプションを用意したらどうかと思います。本体やモニターが省スペースであることを売り文句にするなら(最近そういうパソコンが多いのですが)、キーボードも省スペースにしてほしいところです。(2001.6.23)

No.112 校正記号

 マニュアルの出張校正の帰り道、ふと思いました。DTPやインターネットの普及でマニュアルの制作工程が大きく変わった現在も、校正紙に赤ペンで書き込んでいく校正作業はあまり変わらないものだなと。そこで使用する校正指示・記号が、「トル」や「イキ」といった昔ながらのものであることが妙に面白く感じられたのでした。

 コンピュータ上で指示を入れていく電子校正が普及したとしても、校正記号は残っていくに違いありません。レイアウトされたページに対して他人にわかるように修正指示を伝える方法として、これは合理的なものだからです。校正記号が消える日がやってくるとしたら、それは書き手自身が自由に操作できる使いやすくて強力なDTPソフトが普及したときではないでしょうか。そのときは、書き手は校正の指示を他人に伝える必要がなくなるのですから。

 では、コンピュータがマニュアルの校正作業をそのものを行うようになる日はくるのでしょうか。用字用語のレベルではそれは可能かもしれませんが、そこにどういう情報を掲載するか、イラストとどう組み合わせるかといったような総合的な判断に立っての校正をコンピュータにやらせるのは不可能に近いように思えます。マニュアルの校正の経験者なら誰しもそう思うのではないでしょうか。 (2001.6.16)

No.111 フィールエッジに簡易デジカメ

 Treva(トレバ)というデジタルカメラを、PHSの使用料に応じて溜まるポイントと引き換えで入手しました。デジタルカメラといっても、PHS(フィールエッジ)に接続して使うもので、大きさは消しゴムほど、電源スイッチもシャッターもない簡単なものです。下の猫の写真がTrevaで撮影した実例で、小さいながらも一応カラーで撮れているのがなんだかケナゲです。

 撮影した画像はPHS側に保存され、メールに添付して送ったりPHSの待ち受け画面に使ったりできます。アドレス帳に登録しておくと、その相手から電話がかかってきたときに自動的にその写真が画面に表示されるという機能があるのですが、親しい人の写真を登録しておくと楽しそうです。

 小さく軽く安価で使い方も簡単なので、使い捨てカメラ以上にカジュアルな使い方ができそうですが、このところ外出することが少ないためまだあまり試せていません。あなたならどのような使い方をしますか?(2001.6.10)

Trevaで撮影した画像

No.110 PHSのUI

 使っているPHSをH"(エッジ)からfeelH"(フィールエッジ)に機種交換しました。着信の音がきれいになったことや画面がカラーになったことなどに加えて、コンテンツサービスの利用が格段に便利になっていることに強い印象を受けました。コンテンツサービスというのはインターネット上のH"/feelH"専用のウェブサイトのことで、ニュース配信、天気予報、掲示板、着信メロディダウンロードなど多数のサービスが用意されています。

 便利になったのはメニューの選択方法です。コンテンツサービスはどのサイトも基本的にメニュー選択によっていろいろな機能を選んでいくのですが、H"ではメニュー画面が表示されたら画面を下までスクロールさせていって、それから選択する項目の番号を入力するという手順です。これがfeelH"では、いま選ばれている項目が白黒反転の表示になり、ボタン操作でその選択対象を自由に変えられます。選択する項目が決まったら、決定用のボタンを押して決定。パソコンでマウスを使ってメニューを選択するような感じです。レストランで料理を注文するときに例えると、H"はメニューにある料理番号を自分で紙に書いてウェイターに渡すようなもので、feelH"はメニュー上の料理名を直接指で指し示すようなものです。この差は大きい。同じサービスでもユーザーインターフェースによって印象がずいぶん異なるものだと思ったしだいです。(2001.6.2)

No.109 朝日新聞の記事に思うこと

 5月18日の朝日新聞夕刊に「用語分からず消費者混乱」と題された記事が掲載されました。パソコンを始めとするデジタル製品の取扱説明書のわかりにくさの周辺を取材した内容です。マニュアルのわかりにくさを訴える記事は各種のマスメディアでこれまでも何度となく登場してきましたが、いまだに多くのユーザーがマニュアルで苦労している以上、このような記事は繰り返し書かれるべきでしょう。批判は成長の糧ですから。

 さて、今回の記事ではいくつか注目すべき事実が紹介されていました。一つは、あるパソコン学習グループが実施したパソコン用語の認知度アンケートの結果です。用語集から選んだ180語中、高齢者の90%以上が聞いたことがない用語が82語にも達したというのです。私たちはパソコンのマニュアルに大量のカタカナ用語が出てくる現状を知っているので、この結果は驚くには値しないと言うことはできます。しかしながら、楽しげなテレビCMに誘われて、あるいは内閣がメールマガジンを始めるというような時代に乗り遅れまいと悲愴な覚悟で、パソコンを購入した高齢者がマニュアルを開いて、出てくる用語の半分ほどもわからないという状況に直面したとき、どのような気分になるか。それを想像すると、私は気が重くなります。

 もう一つ注目したいのは、マニュアルを初心者向けに工夫したことによってアフターサービスのコストが下げられるというメーカーの方の証言が掲載されていたことです。マニュアルをよくする原動力となるのは、やはりメーカーがマニュアル制作により多くの力を注ぐことです。それによってマニュアルが改善され、アフターサポートの負担も減る。紙面でこのことが指摘されたのは、とても価値のあることだと思います。マニュアル制作の現場の人間が、マニュアルをよりわかりやすくするために努力を重ねる必要があるのはいうまでもありません。しかし、制作コスト削減や制作期間の短縮といったことが最優先で、品質やわかりやすさは二の次というような方針の中では、よいマニュアルを作ろうと努力しても限度があります。そして実際、この不景気のもとで、メーカーがそのような方針でマニュアルを作ることは珍しくないというのが現状なのですから。(2001.5.26)

No.108 旅と仕事

 個々の仕事について、それを旅のように感じることがあります。旅には常に期待と不安が伴うものではないでしょうか。同じように私はジョブが始まるときには期待と不安とを感じます。そしてそれが動き出すと、あわただしく日々は過ぎていく。そのなかでいろいろな経験をする。いろいろな人とも知り合う。終わりが見えてくれば、ここまで来れたことへの満足感と、それが終わってしまうことへの少々の寂寥感とを覚える。

 ほとんどパソコンの前にすわって作業しているだけなのに、大きな船旅ででもあるかのようにたとえるのは滑稽でもありますが、そのように感じるのは本当です。とくに数か月にわたるようなジョブではそれが強く感じられます。旅が人を成長させるように、仕事を終わらせるごとに自分もなにがしかの成長をかちえているのだとよいのですが。(2001.5.19)

No.107 マラソンのように

 忙しくて生活が不規則になりがちだとフリーランサーの友人にこぼしたところ、それはあまり忙しくないからだろうといい返されました。忙しければ規則正しい生活をせざるを得ない。不規則な生活は長い期間で見てみれば、生産性は高くないというのです。いわれてみて私は納得せざるを得ませんでした。

 ある一つの締め切りを乗り切るために徹夜したとします。その日一日だけをとってみれば、多くの仕事をしたことになるでしょうが、翌日はあまり仕事ができないでしょう。場合によっては翌々日まで疲れを引きずるかもしれません。だとしたら、この三日間全体で考えると、一日徹夜するよりも、三日間を規則正しく働いたほうがより多くの仕事ができるのです。しかも徹夜でやる場合は、ダラダラと効率悪く仕事をする時間帯も含まれるでしょう。しっかりと寝て、すっきりした頭で集中して仕事をしたほうが、仕事の質も速度も高いに違いありません。もちろん健康にもそのほうがいいのです。

 友人の話を聞いて私が連想したのはマラソンでした。徹夜での仕事を全力疾走のようなものと考えるなら、規則正しい生活はマラソンのような走り方だといえるでしょう。最終的により多くの距離を走れるのはどちらでしょうか。間違いなくそれは後者です。より長い距離を走る(より多くの仕事をする)ために必要なことは、ペースを一定に保つことなのだと思います。(2001.5.12)

No.106 コミュニケーション欲

 いま街中のもっとも典型的な光景の一つは、携帯電話でメールを読み書きしている人の姿ではないでしょうか。どこにいっても携帯の小さな液晶モニターを見つめている人を見かけます。歩きながら、自転車に乗りながら、犬の散歩をしながら、しゃがみこみながら、それぞれの格好で熱心にメールを読み書きしている姿を見ると、こうして誰かとコミュニケートするとのは、食欲や性欲などと並ぶ人間の基本的欲求の一つなのではないかという気がしてきます。たぶん、歩く時につまづいたり物にぶつかったりしないように周りに注意を払いながら進んでいくのと同じように、我々人間が生きていくためには、常に人とコミュニケーションを取りながら自分の位置を確認していくということが欠かせないのではないでしょうか。広い意味では、新聞や雑誌を読むことや、テレビを見ることも、一方通行ではありますが、そのコミュニケーションの一つのように思われます。インターネットが爆発的に普及していったのも、この人間の基本的性質が大きな原動力となったに違いありません。

 テクニカルコミュニケーションの仕事も、その人間の性質に深く関わっているように思えます。メーカーは情報を伝えたいし、ユーザーは情報を受け取りたい。それがスムーズにいかない部分を我々テクニカルコミュニケーターが仲立ちをし、情報を円滑に受け渡す。我々の仕事はそんなふうに捉えることもできるのではないでしょうか。(2001.5.5)

No.105 ある作家からの電子メール(2)

 米国の作家から本の感想を聞かせてほしいというメールをもらったという話を先週かきました。そのメールが来たのはひと月ほど前のことですか、つい先日、その作家からまたメールが来ました。感想の催促だろうかと思って読んでみると、以前もらったのとほぼ同じ文面だったのです。最初にもらったメールにこちらから問い合わせのメールを出し、それに先方も回答してくれていたのに、そんなことがなかったかのようにまたメールが来たわけですから、どうやら大勢の人にそういうメールを送っているようです。何人にも送っているうちに、すでに私宛てに送っていることを忘れて、またメールを出してしまったのでしょう。なんだか拍子抜けした気分。すでに本は入手しているので、時間があれば読んでみますが、感想を送るかどうかは面白さしだいということにしておこうと思います。(2001.4.28)

No.104 ある作家からの電子メール

 ネットではいろいろと面白いことがあるものです。先日も一つ面白い体験をしましたので、ご紹介しましょう。

 それは、いま手元にある一冊の英語の本についての話です。題名はCandid Confessions。日本語にするなら、率直な告白、というような意味になるようです。書いたのはPatrick J. Maher。日本にきた外国人青年の生活ぶりを描いた小説らしいのですが、私はまだ読んでいません。

 二ヶ月ほど前に、この作家本人から電子メールがきたのでした。日本を舞台にした小説を書いたのだが、それについて日本人としての感想を聞かせてくれないかというのです。彼とは知り合いではありませんし、そういう作家がいること自体全然知りませんでした。ですから、なぜ私のような一般人にそんな依頼をしてくるのか不思議な気がしました。一種のセールスかとも思いましたが、どうして私のことを知ったかと問い合わせると、ホームページを見て頼むことを決めたという返事がきましたので、話は本当のようです。私は大江健三郎氏のファンサイトをやっているので、たぶんそれを見たのでしょう。仮にセールスだったとしても、ペーパーバックの安い買物ですから後悔するほどのことはありません。私は本を入手してみることにしたのでした。

 前記のとおり、まだこの本は読んでいませんが、何とか読み通して著者に感想を送るつもりです。彼はいまタイに住んでいて、「こちらに来ることがあるなら、いっしょにランチでも食べよう」と言ってくれています。タイまで行ってランチの相伴にあずかるのは無理としても、電子メールで文学談義を楽しめれば、ペーパーバック代くらいは安いものではないでしょうか。(2001.4.21)

No.103 想像力

 世界でもっとも大量の罵詈雑言に出会える場所―それはインターネットをおいてほかにありません。幸いにもあなたがネットのそういう側面にまだ接したことがないというのであれば、例えば国内屈指の著名サイトであるYahoo! JAPANの掲示板コーナーで投稿を読んで、罵詈雑言にあたる言葉を数えていってみてください。あなたがこれまでの人生で見聞きした罵詈雑言の数を超えるのに10分とかからないでしょう。

 Yahoo! JAPANが特別なのではありません。最近マスコミに登場することの多い2ちゃんねるなど、悪罵の類に出会える場所はいくらでもあります。もちろんそういった場でも理性的なメッセージのやり取りはなされており、割合としてはむしろ多いと思います。が、ひどいところは本当にひどい。はじめてネットワークの世界に足を踏み入れた人がそういうものに触れると、ネットの印象は最悪のものになってしまうでしょう。

 実はインターネットが普及する以前のパソコン通信の時代から、状況は似たようなものでした。ちょっとした議論が激論になり、またたくまに罵倒合戦になってしまう。それが日常茶飯事でした。ジャーナリストの筑紫哲也氏はパソコン通信時代のネットワークの世界に触れ、便所の落書きのようだという印象を持ったそうです。

 どうしてこういうことになってしまったのか。水が低きに流れるがごとく、ネット上のモラルは自然と低下していくものなのでしょうか。理由はいくつか考えられるでしょうが、私としては「想像力の欠如」ということを挙げておきたいと思います。ネットワークの向こう側に、自分の書いたメッセージを受け取る人間が存在していること、自分のメッセージにより相手が傷つく可能性があること、そういったことをについてしっかりと想像力を働かせなければ、ネットが「便所の落書き」になってしまうのは避けられないでしょう。逆に、相手の存在を想像し、その痛みを想像することによって、私たちが発する言葉は自然と穏やかなものになり、より前向きなコミュニケーションが可能になるのではないでしょうか。(2001.4.14)

No.102 インターネット使い放題で何が変わるか

 当事務所でも先月からフレッツ・ISDNが使用できるようになり、やっと心置きなくネットが利用できる環境となりました。接続速度こそ64kbpsと低速ですが、料金が固定、つまりは使い放題というのはいいものです。いままでNTT東日本へ毎月3万円ほどの電話料金を支払っていましたが、その半分以上がインターネットの通信料でした。今後はその部分がフレッツ・ISDNの定額料金である3600円で済むわけですから、これは大きな進歩です。

 さて、ネットが使い放題となると、利用のしかたはどのように変化するのでしょうか。例えば新聞の購読をやめて、アサヒ・コムのような新聞社のサイトを利用するようになる人もいるでしょう。天気予報ならサイバー・ウェザー・ワールドがテレビや新聞などよりはるかに詳しい情報を提供してくれます。新聞はテレビ欄しかみないという人にはオンTVジャパンのようなサイトが役に立つでしょう。新聞で得られる情報のほとんどが、ネットでも得られるといえそうです。

 私が最近よく利用しているサイトとしては、ウェブショットというのがあります。これはネット上の電子アルバムというようなもので、デジカメで撮影した写真をネット上に保管しておけるサービスです。もちろん無料です。面白いのは、もし望むのであればその電子アルバムをネット上で誰でも見れるように公開することもできるという点です。何人の人が自分のアルバムを見たか、どれだけダウンロードされたか(公開された写真は自由にダウンロードできる)、といったことが毎週電子メールで報告されてきます。また、指定した写真をプリントしてもらうこともできます(これは有料)。自分でカラープリンタを持っていなくても、きれいにプリンタされた写真が届くわけです。日本でもフォトハイウェイなど同様のサービスがあります。

 以上の例はほんの一部にすぎませんが、ネットが定額で利用できるようになることで、生活のさまざまな分野においてネット化とでもいうべき変化が少しずつ進行していくことは間違いないでしょう。(2001.4.8)

No.101 「冗長」ということ

 同じ言葉が場所によって違う意味を持つことがあります。例えば差別語としてテレビなどで使用されなくなった「キチガイ」という言葉は、場面によっては「すごいやつ」という誉め言葉として使われることがあります。政治の場で「前向きに検討する」といえば「何もしない」という意味だということは、日本人なら誰でも知っていることです。日本語の文脈で「ナイーブ」といえば、素朴だという意味ですが、英語では考え方が幼稚であるというニュアンスがあるそうです。このように言葉の意味は多面的です。

 一般の言葉と技術用語の間にも、同じようなことがあります。「冗長」という言葉がそのよい例ではないでしょうか。一般的にはこの言葉は、長ったらしいとかだらだらしているとかそのようなネガティブな意味で使われます。「彼の話は冗長だ」「この漫画は冗長である」といったぐあいに。ところが技術用語としては、ポジティブな意味を持つことがあります。例えば情報処理技術においては、やり取りするデータの信頼性を高めるためにあえてデータに余分な情報を足すことがありますが、その余分なデータを「冗長なデータ」といいますし、その処理のことを「冗長度を高める」と言い表したりもします。「ハードディスクを冗長化する」といえば、ハードディスクの台数を増やして、同じデータを複数の箇所に保存するというような意味になります。

 面白いものだと思いませんか? 私の文章はちょっと冗長だったかもしれませんが。(2001.4.1)

No.100 路上のルール

 妻の実家へ帰省していました。今回もあったのですが、高速道路を走っていると、しばしば不愉快な気分にさせられます。代表的な例としては、(1)ハイビームにしている車が後ろを走るとバックミラーに反射してまぶしい、(2)追い越し車線でもないのに後ろから来た車が煽り立てるように近距離まで迫ってくる、(3)隣の車線からこちらの車のすぐ前に車線変更で割り込んでくる、この3つを挙げたい。(1)はあまり気にしない人もいるかもしれませんが、こちらの車内が煌々としたライトに照らされるのはサーチライトの光を浴びせ掛けられているようで私としては不愉快なのです。(2)、(3)は実質的な危険も伴いますから、ぜひやめていただきたいものです。

 さて高速道路に限らず公道という公道はすべて道路交通法というルールによってその安全と秩序が守られています。しかし法律だけでは不十分だということは、車を運転する方ならご存知でしょう。上記に挙げたような例も含め、法律がカバーしきれない部分についてはマナーによって補う必要があります。それがなければ、路上はエゴのぶつかり合う不愉快な場所になってしまうことでしょう。

 たぶんそれはインターネットという情報の「道路」においてもいえることです。インターネットはその基本的な性格として法律による規制がかけにくいもののようです。それだけにマナーの果たす役割は大きい。車は交通法規を学んで運転免許証を取得したものだけが走らせることができますが、パソコンでインターネットを走るのに免許は不要です。私たちは、それが世界中に広がった公共的な場であることを意識しつつインターネットを利用する必要があると思います。(2001.3.26)

No.99 確定申告

 例年のことですが、3月15日ぎりぎりになって確定申告を終えました。あらためて感じるのは、確定申告の書類作成というのは圧倒的に紙主体の作業であるということです。ウェブで買物をし、銀行口座間の振り替えや残高確認もウェブで行い、取り引き記録は会計ソフトで管理し、というビジネスのスタイルであっても、確定申告においては雑多なサイズの領収書を整理し、手書きで決算書や申告書にこまごまと数字を書き込み、取引先から郵送されてきた支払調書を書類に糊付けし、という具合の作業をしなくてはなりません。

 すべて電子的に済ませることができれば便利だと思うのですが、政府は2003年度実施を目指してその準備を進めているようです。その一環として今回、国税庁では電子申告実験を行いました。「電子申告は、申告書(書面)の提出に代えて、電磁的記録(電子データ)のインターネット等通信回線を通じた送信をもって納税申告手続が可能となるもの」とのこと。これが正式に実施されるようになれば、確定申告の手間もだいぶ軽減されることでしょう。従来の紙の書類による申告もそのまま継続されるとのことなので、自分はパソコンなんか使いたくないという方も安心です。早く電子申告が実現することを期待したいです。 (2001.3.17)

No.98 家電リサイクル法

 来月1日から冷蔵庫、テレビ、洗濯機、エアコンは廃棄するのに数千円程度の費用がかかるようになります。リサイクル費用の一部を利用者が負担することを定めた家電リサイクル法が施行されるからです。

 報道によると、施行を前に対象家電製品のかけこみ買いが増えているそうです。いまならリサイクル費用を負担せずに買い換えが可能だから、ということでしょう。その気持ちはわからないではありません。正直、私も古くなったテレビを買い換えようかと一瞬考えました。しかしやせ我慢することにしました。(お金がないのが一番の理由ですが)

 家電リサイクル法の理念を考えてみると、早すぎる買い換えは逆方向の行為だといえそうです。家電メーカーや電気店にとっては嬉しいことでしょうが、買い換えの結果として発生する大量のゴミは環境にとってありがたくないことです。環境問題を放置していたのではもうどうにもならないという事態に突き当たって私達はリサイクルという道を選んだはずです。環境を守るためのさまざまなコストを負担する覚悟をしなくてはならない時代となったということだと思います。買い換えを考えている方は、今一度、考え直してみてはいかがでしょうか。 (2001.3.10)

No.97 フレンチ・キス

 フレンチ・キスと聞いて、あなたはどういうイメージをお持ちになるでしょうか。フランス人の恋人どうしがセーヌ川河畔のカフェなどで会話の合間に軽やかに交わすキス(BGMはフレンチポップス)――といったシーンを思い浮かべるとしたら、あなたのフレンチ・キスについての知識は間違っています。フランス文化の洗練されたイメージ、明るいイメージが、そのような誤解を招くのでしょうか。

 研究社新英和中辞典には「舌を使った熱烈なキス」とあります。小学館ランダムハウス英和辞典にはsoul kissを参照せよとあるのでそれを引いてみると「ディープキス」となっています。念のため英辞郎も調べてみると「フレンチキス、舌をからませるキス」と出ます。つまりこれは唇を軽く合わせるようなキスではなくて、まあ、恋人どうしだけがおこないうるようなタイプの行為なのですね。

 あなたが英語を話す人との会話において、フレンチ・キスをしようと求められたならば、その正しい意味を思い起こしたうえでイエスなりノーなりの返事をされることをおすすめしたく。 (2001.3.3)

No.96 リンクの自由について

 ウェブサイトから他のウェブサイトにリンクを設定する場合、相手先のサイトの了解を得る必要はあるのでしょうか。たぶん考え方は人により異なるでしょうが、現状、三種類くらいに分けられると思います。一つめは了解を得る必要はまったくないという立場。二つめは了解を得る必要があるとする立場、そしてその中間の、了解を得る必要はないがトラブルを避けるために了解を得ておいたほうがよいという立場が三つめ。私は了解を得る必要はないと考えています。一つめと二つめの考え方の人が少なからず存在することは、私のところにリンクを貼ってもよいかという問い合わせや、リンクを貼るがもし問題があれば連絡してほしいという連絡がときどきくることから想像ができます。また、実際いろいろなサイトを見ていると、リンクを貼る場合は必ずメールで許可を求めてくれと書いている人は少なからずいます。

 サイトの所在(URL)を一般に対して告知せず、検索サービスに登録せず、限られた人にだけ公開しているという場合は別として、一般に向けて公開しているのであれば、それはいわば本を出版したようなものだと思います。そうであれば、その存在と場所とを他のサイトでもって紹介されることを拒む「権利」(リンクを拒む権利)はもはやないのではないでしょうか。それがたとえ批判的立場からのリンクであっても。ウェブサイトを公開するということは、そういうことなのだと思います。皆さんはどう思われるでしょうか?(2001.2.24)

No.95 情報格差の拡大

 NTT東日本からフレッツ・ISDNの利用開始日が今月末になるという知らせが届きました。申し込んだ日から数えると約一ヶ月後の利用開始ということになります。これでやっと心おきなくインターネットが利用できるようになるわけですが、プロバイダーの契約内容の変更も必要で、これが料金締め日の関係から3月21日に切り替えとなることが判明。あとひと月はオアズケということになります。

  ところで、そんな具合にヨタヨタとネット環境改善へと向けて歩んでいる我が家の状況をコケにするかのようなニュースが飛び込んできました。有線ブロードネットワークスという会社がフレッツ・ISDNより少しだけ高い料金(月額4900円)で100Mbpsという高速でのインターネット接続サービスを提供すると発表したのです。フレッツ・ISDNの接続速度は64kbpsですから、なんと千倍以上の速さ。

 しかし、すごいぞ!と興奮したのもつかの間、そのサービス提供スケジュールを見てヤレヤレとため息が出ました。今年の3月に渋谷区・世田谷区の一部でサービス開始、10月には23区全域と政令指定都市、来年4月には30万都市と県庁所在地、再来年の4月にはその他の主要都市、というスケジュールです。人口10万程度のわが町が最後の「その他の主要都市」に含まれているかどうかはきわめて怪しいところですが、幸運にも含まれていたとして、それでもサービスが利用できるのは2年後ということになります。ヘタをすればもっと先、最悪の場合は永遠にサービスはやってこない…。

 これぞまさに情報格差(デジタル・ディバイド)の端的な例です。ことインターネット環境については、東京23区内というのは圧倒的に有利で、ほとんどのサービスはまずそこから開始されます。OCNしかり、フレッツ・ISDNしかり、フレッツ・ADSLしかり。選択肢が多く、より安価なサービスが選べます。それに対して地方は、だいぶ遅れてサービス提供が開始されるか、採算が合わないためにサービスそのものが提供されない場合も少なくありません。

 インターネットは電気、ガス、水道のようなライフラインとして、また道路のような社会的インフラとして、社会に浸透しつつあります。日本がIT立国を目指すのであれば、誰でもが安価に一定以上の速度でインターネットが利用できるように国はお金をかけるべきではないでしょうか。64kbpsと100Mbpsという暴力的なほどの格差を放置しておくべきではありません。(2001.2.17)

No.94 『新説 鴎外の恋人エリス』

  表題の本が面白かったのでご紹介します。ご存知の方も多いことでしょうが、明治の文豪・森鴎外は二十代のころにドイツへ留学し、ベルリンである女性と恋をした。この体験をもとに鴎外は小説『舞姫』を書きました。二人の出会いの場面はこうです。

「今このところを過ぎんとするとき、とざしたる寺門の扉によりて、声をのみつつ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。かぶりしきれをもれたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。わが足音に驚かされてかえりみたる面、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らかにて物問いたげにうれいを含める目の、なかば露を宿せる長きまつげにおほわれたるは、なにゆえに一顧したるのみにて、用心深きわが心の底まで徹したるか。」

 漢文調の古風な文体ですが、なんともいえずロマンチックなシーンではありませんか。頭巾からこぼれるブロンドの髪、その少女が長いまつげと濡れた瞳で物問いたげに見つめる。アニメにでもすれば、大いに青少年に受けそうでもあります。

 それはいいとして、この少女エリスは、小説では主人公に捨てられてしまうのですが、実際の鴎外の恋人は、四年間の留学を終えて帰国した鴎外を追って日本までやってきます。それを鴎外の家族らが説得し、帰国させたのでした。事実は小説よりも―を地でいくような史実です。

 さて、その「エリス」は誰だったのか、どういう女性だったのか。『新説 鴎外の恋人エリス』という本はそれを調査したものです。百年以上も前の、それも外国の女性のことです。一見不可能なことに思えるのですが、筆者の植木哲氏は果敢に挑戦し、成果をあげます。それを可能にした理由としては、氏が客員教授としてベルリンに滞在していたこと、氏がドイツ法の専門家として登記簿・戸籍簿といったドイツの一次資料を調べることのできる知識を備えていたこと、さらには東西ドイツの統合によってそれまで隠蔽されていた資料の閲覧も可能になったこと、この三点があります。エリスの実像へと迫っていく過程は、推理小説を読むような面白さがありました。このような本を書いてくれた氏に感謝したい気持ちです。(植木哲著、新潮選書、ISBN4-10-600587-5)(2001.2.10)

No.93 国名の順序

 来年、韓国と日本が共催するサッカーワールドカップ。その呼称をめぐって両国の組織委員会が揉めているという。公式名称は「2002 FIFA World Cup Korea/Japan」で決定しているのだが、日本国内での日本語の表記については、「日本」を先に置いた「日本・韓国」という表記も使いたいと日本側が主張しているのだ。

 なぜ日本の組織委員会はこれにこだわるのだろうか。新聞などでもこの問題は繰り返し報じられ、しだいに大きな問題になりつつあるように思う。そうまでしてこだわらなくてはならないことなのだろうか。

 組織委員会の使命はそういうところにあるのではないと思う。単独開催を目指して韓国と競い合ってきた経緯はある。しかしいったん共催が決まった以上は、互いに歩み寄って、友好的な関係を維持すべきだろう。公式名称が韓国・日本の順であり、日本・韓国という国名順に対して韓国が異議を唱えているのだ。これ以上、組織委員としては名称に固執せず、ともかく大会を成功させることを目指すべきではないだろうか。

 サッカー以外のことにも目を向けてみると、国名の表記は一般的に自国名を先にもってくるのが普通のようだ。日本では「中日友好」とは言わず「日中友好」と言う。「米日関係」ではなく「日米関係」と言う。国際社会では、それが当たり前なのだろうか。

 しかしどうもそういう姿勢には違和感を覚える。公式の場での発言であるとか公式な文書とかで相手国より自国の名前を優先させのは、日本的な謙譲の美徳に反するように思うのだ。国名の順が何か国益に影響するのだろうか。そんなことはないだろう。ならば相手国の名前を優先させればよいではないか。国名順にこだわるのは、子供じみているように感じる。(2001.2.3)

No.92 ネット時代の知的所有権の課題

 人を集めるためにウェブサイトはさまざまな工夫を凝らす。その王道は、魅力的なコンテンツを掲載することだが、インターネットがオープンなメディアであるために、ウェブサイト側が想定していない利用の仕方も出てくる。例えば、ある企業は一コンテンツとして天気予報のコーナーを持っている。それを知ったある人は、そのサイトの天気情報だけを取得して表示する、天気予報表示専門の特殊なブラウザを作った。また、こんなソフトもある。asahi.comなどのニュースサイトからニュース情報だけを取得し、表示するというブラウザだ。これらのソフトを使えば、そのサイトにある広告も見ずに、天気予報やニュースという、自分のほしい種類の情報だけをいつでも見ることができる。

 ウェブサイトの側にしてみれば、広告のバナーなどを省いて情報だけを取り出されるのは困るということになるだろう。知的所有権の侵害と考えるかもしれない。しかし上記ソフトの作成者・利用者にしてみれば、ウェブサイト上に公開している情報を個人的に利用して何がいけないのか、という言い分が成り立つであろう。インターネットエクスプローラーなどの一般的なブラウザであっても、画像を表示しないように設定することは可能だし、最初から画像表示機能を持たない(文字だけを表示する)ブラウザもいくつか存在する。それと大差ないと考えることもできる。

 たとえていうならそれは自動的にコマーシャルをカットするテレビのようなものか。テレビ局はコマーシャルを見てもらわなくてはならないのだが、視聴者は番組だけ見ることができればよい。一つの番組の中でも、見たいコーナーだけ見られればよいという人もいるだろう。テレビも進化すればそのようなことも可能になるかもしれない。

 メディアや関連機器の発展に応じて、知的所有権のあり方も変化していく。去年までこうだったからということで今年もそうだということは必ずしもいえない、そういう時代なのだと思う。(2001.1.27)

No.91 大統領とマニュアル

 昨夜、テレビで映画「エアフォース・ワン」というのを見た。米大統領の乗る専用飛行機エアフォース・ワンがテロリストに乗っ取られるのだが大統領が体を張ってその危機を乗り越える、というアクション映画だ。下手をすればお笑いになってしまいそうなストレートな筋書きだが、最後まで飽きさせないのは監督ウォルフガング・ペーターゼーンの力量か。とても面白かった。主役である大統領を演じるのはハリソン・フォード。特別うまいという感じはしないが、ブレード・ランナーを始めとして彼の主演映画でつまらないものを見たことはない。

 さて、この映画で大統領が携帯電話のマニュアルを開くシーンがあった。飛行機はすでに乗っ取られている。大統領一人だけが機内の底部にある倉庫へひそみ、何か手はないかと考えている。そして搭乗者の荷物が倉庫にしまってあることに気付き、その山から自分のバッグを捜し出し、携帯電話とマニュアルを取り出すのだ。彼はいつ敵が侵入してくるかわからない緊迫感のなか、マニュアルを開き、電話のかけ方を確認した、らしい(マニュアルでなにを調べたかははっきりとは示されなかったが)。そして大統領はホワイトハウスへ電話をかけ、事態の打開へ向けての一歩が踏み出される。

 マニュアルが役に立ってよかったです! これは架空の状況だが、こういう危機的な状況でマニュアルが読まれるということはあり得ないことではないだろう。マニュアル制作に携わる人は、「これで人が救われることもあるかも」と思えば、いっそう心を込めて制作に取り組むことができるやも。(2001.1.20)

No.90 インターコムに思う

 昨年の暮れに、以前入っていたSTCに再入会した。STCというのはSociety for Technical Communicationの略で、簡単に言ってしまえばマニュアル制作関連の業界団体だ。

 先日その会誌であるインターコムが届いた。以前は確か2色刷りの地味な感じの作りだったと思うのだが、今回届いたものを見てみると、4色刷りで、デザインも洒落ていて、タイトルなども面白そうで、一般のパソコン誌のような感じ。ページをめくるのが楽しく、これなら辞書を引き引きしながらでも読んでみようかという気になる。

 STCには東京支部があり、独自に会報も発行している。東京クロスポイントという名前のこの会報も読み甲斐のある内容だ。インターコムの抄訳も掲載されている。

 話は変わるが、以前は「ザ・テクニカルライター」という業界誌が存在していた。企業のマニュアル制作部門の訪問記事やマニュアルのレビュー記事など、価値ある内容だったのだが、どういう事情によるものか数年前に廃刊になってしまった。自分も原稿を書かせてもらったことがあるだけに、残念なことだった。

 業界誌が存在することのメリットはいくつかある。まず、それが業界全体に対して意見を述べる場となりうること。提言なり、批判なりが行える場があるのとないのとでは、だいぶ違うのではないか。また、制作ツールを提供する企業にとっては、効果的な宣伝の場となるだろう。もう一つ付け加えると、単純に、そういう雑誌があるのは業界内の人間にとって楽しいということもいえると思う。

 しかし現在は業界誌は存在しない。業界誌が成立し得る規模の業界ではないということなのだろうか。それともたまたまそれをやろうとする会社や人がいないだけなのだろうか。メールマガジンやウェブマガジンという形式でなら、比較的容易に立ち上げ可能だと思うのだが、誰かやってくれないだろうか。インターコムのページを繰りつつ、そう思った。(2001.1.13)

No.89 子供と取扱説明書

 いまの時代、子供も取扱説明書と付き合っていかなくてはならないようだ。小三の次男がお年玉で買ったおもちゃは、テレビアニメをモチーフにした腕時計型の電子ゲームだった。購入前に電池が消耗してしまわないよう、内蔵のボタン型電池と電極の間にシートが挟んであり、それを引き抜くと起動する。ところがそうして電源が入ったのはいいのだが、電源を切るスイッチが見つからないのだった。

「説明書をよく読んでごらん」

「見たけど出てなかった」

 どれどれと40ページあるA7判ほどの小さな取扱説明書を調べる。「目次で探せば?」という長男(小五)のアドバイスに従ってまず目次を見るが、それらしい項目はない。しかたがないので1枚ずつページを繰っていくと、あるページに「オートパワーオフ機能」という見出しの付いた小さな囲みがあった。5分間操作をしなければ自動的に電源が切れる、とある。それを説明してやると次男は安心したようだった。

 テクニカルコミュニケーターとしては、その説明はもっと前のほうに配置すべきだとか、オートパワーオフの説明だけでなくて電源を切る必要がないことも明記したほうがいいとか、機能名を見出しにするのではなくて「電源を切りたいとき」のようにすべきだとか、すぐにいろいろなことを思ってしまう。そこまでは次男には言わなかったのだが、言ったほうが教育上はよかったか。うるさがられるだけだろうが。(2001.1.6)

No.088 『ウェブ・ユーザビリティ』を読む

 夏頃に出た本だが、評判のよさにつられてヤコブ・ニールセン著『ウェブ・ユーザビリティ』(エムディエヌコーポレーション刊、グエル訳、篠原稔和監修)を読んでいる。実際のウェブサイトを事例として多数取り上げながら、ウェブサイトのユーザビリティのポイントを解説する本だ。ウェブユーザビリティとは、簡単に言うとウェブサイトの使い勝手ということになるだろう。

 多くの家庭がパソコンを所有し、インターネット(ウェブサイト)を利用する時代、ウェブサイトは誰でもが簡単に利用できるような作りになっている必要がある。しかし現実にはそうなっていない。パソコンによっては正しく表示されないサイト、画像が大きすぎて表示に時間がかかりすぎるサイト、構造が複雑すぎて求める情報が見つけにくいサイトなど、ユーザーから見て問題のあるサイトは数限りない。趣味でやっている個人サイトならそれでもかまわないが、企業の公式サイトがそれでは困る。そこで必要になるのがウェブユーザビリティという観点なのだ。

 しかし本書で解説されるポイントの数々は、どれもあっと驚くようなものではなく、言われてみればしごく当然と思われる事柄ばかりだ。悪い例として取り上げられたサイトは、言ってみれば「いい面の皮」で、くだんのサイトの制作者にしてみれば、重箱の隅をつつかれたような気分かもしれない。本書の挙げるポイントの数々はもっともなことだとして、難しいのはそれらを上手に統合し、バランスをとり、一つのウェブサイトにまとめあげることなのだろう。しかもただウェブサイトを作ればよいのではなく、企業の目的に沿ったものとなるようアイデアを出し工夫を凝らし、創造的に新しいウェブサイトを作らなくてはならないわけだから、ウェブサイトの制作とは大変な仕事である。

 本書の価値をおとしめるつもりはまったくない。ウェブ制作に携わる人なら読んで損はしない好著であると断言できる。HTMLのタグ云々というような技術的な話は少なく、ページの左上にロゴを配置するといったような誰にでもわかる内容が中心なので、サイト制作者だけでなく、部門管理者のような立場の人にも大いに参考になるはずだ。(2000.12.31)

No.087 ホームページ・ビルダーを使う

 仕事の都合があって日本アイ・ビー・エムのホームページ・ビルダー6.0を買った。人気の高いホームページ制作ソフトだ。同種のソフトとしては、これまでにクラリスホームページ、アドビのPageMill3、マイクロソフトのFrontPage98/2000を使ってきたが、それらと比較しての印象などを書いてみたい。

 まず強く感じたのは、マニュアルがよくできている点だ。最近はマニュアルの貧弱なソフトが多いが、ホームページ・ビルダーはしっかりと作ってある。特に、初心者に焦点をしぼったオンラインチュートリアルと4色刷りのユーザーズ・ガイド「入門編」はすばらしい。製品の使い方だけでなく、ホームページのしくみや公開の手順をわかりやすく解説している。要所要所で使われている図解用のイラストも内容が練られている。リファレンスマニュアルの名称を日本語で「参照編」としている点も、ちょっとしたことだが好感が持てる。

 製品自体は、初心者でも手軽にホームページが制作できそうなわかりやすさだ。大きな特徴は、他のソフトと同じようにワープロ風にページを制作する「標準モード」のほかに、素材をページ内のすきな位置に配置できる「どこでも配置モード」があること。これならページ内を自由にレイアウトすることが可能だ。画像ソフトを併用しなくても一通りのことができるようになっている点も初心者に便利だろう。大量の素材が付属しており、それを一覧したり貼り付けたりすることがホームページ・ビルダー上で簡単に行える。またロゴの作成機能もクリック一つで呼び出せる。

 スタイルシートをサポートしている点が個人的には嬉しかった。FrontPageでもスタイルシートは扱えたが、スタイルシートファイルとのリンクを管理するのみで、スタイルの内容については手作業での編集だった。ホームページ・ビルダーは内容の設定もダイアログ上で行えるようになっている。

 わかりやすい、使いやすいというだけではなく、凝ったホームページの制作にまで十分対応できるソフトだといえるだろう。個人のホームページならばこれ1本で間に合うのではないか。値段も実売で1万円を切るレベルなので、個人向けとして推奨したい製品だ。(2000.12.23)

No.086 「ダイナソー」を観る

 映画「ダイナソー」を観た。一頭の恐竜の誕生と成長を描いたCG作品だ。物語のほうは、恐竜の”男らしい”成長、メス恐竜との恋、仲間との争い、危機的状況、それからの脱出、そしてハッピーエンドというディズニー映画らしいもので(同社のアニメ映画「ターザン」を観ているかのような気分になったりもした)、控えめにではあるが恐竜の映像も擬人化してある”娯楽映画”なのだが、随所に近年の恐竜研究の成果が反映されており興味深かった。

 映画の冒頭、恐竜の群れが登場する。それぞれの恐竜は、縁を盛り上げて作った浅い穴に十個ほどの卵を配置しており、ときどき母親恐竜らしきのが卵の位置を直したりもしている。これは1978年にジャック・ホーナーが米国モンタナ州で発見したカモノハシ竜の集団営巣地のようすを反映したものだろう。フィリップ・カリーによれば、カナダのブリティッシュ・コロンビアで発見された恐竜の足跡の化石は、彼らが横に広がって隊形を組んで歩いたことを表すという。そして映画の中でも恐竜たちはそのように隊列を組んで移動していた。恐竜たちが渡り鳥のように毎年長い距離を移動していたという説もあるのだが、それを思わせるエピソードも映画には盛り込まれていた。全編を通じて活発に動き回る恐竜のイメージは、ロバート・T・バッカーの1970年代以来の主張の反映だろう。

 恐竜に興味を持つものにとって、この映画は、二つの楽しみがある。一つは映画としての楽しみ、もう一つはかつて何度も夢想した生き生きと動く恐竜の姿をリアルに見せてくれるという楽しみである。恐竜ファンよ、この映画を見逃すな。(2000.12.16)

No.085 満員電車

 仕事の関係でしばらく都内まで”通勤”した。”通勤”は久しぶりのことだったので、その感想を。

 早起きするのは、OK。問題なし。むしろそういうサイクルで生活するのは気持ちいい。家ではないところで、ほかの人たちといっしょに仕事をするのもOK。人の存在は、刺激になるものだし、同じ仕事に取り組む仲間がいるというのはいいものだ。唯一抵抗を覚えるのは、朝の満員電車だ。帰りはまだいい。ラッシュのピークを自分の意志で避けることができる。混んでいる電車はやり過ごし、次のに乗ればいい。しかし朝はそうはいかない。ぎゅうぎゅうづめの電車に嫌でも乗らなくてはならない。

 満員電車の不愉快さには、いくつかの要素があると思う。一つは窮屈であることそのものの不愉快さ。これはいうまでもないことだ。人と距離を取り、雑誌や本などを広げて読むことができれば、どんなにか楽か。だが、これはさほど大きなマイナス要素ではない。私が不愉快に感じのは、公共精神というか、公徳心というか、そういうものの欠如だ。後ろにバッグを突き出して平然としている人、混みあっているのに新聞(日経が多い)や雑誌や本を広げて余分に場所を占有している人、押されて斜めになったのにそれを修復せずに人に寄りかかったままでいる人、妙な場所でふんばって乗り降りの流れを邪魔する人など、周囲の迷惑を考えない人が非常に多い。携帯電話のおしゃべりのうるささであるとか車内で化粧することとかがメディアで批判されたりするが、個人的には先に挙げたような人々のほうが、物理的な影響があるだけによほど迷惑だと思う。加えて朝は寝不足だったりすることもあるので、不愉快さが倍増する。

 いい大人だから、不愉快だからといってキレたりはしないが、17歳だったらどうだったろう。ブルース・スプリングスティーンの歌に「都会で聖者になるのはたいへんだ」(It's hard to be a saint in the city)というのがある。朝の満員電車に乗るたび、その歌を思い出す。(2000.12.10)

No.084 ユーザーの声

 あるシステムのマニュアルの改訂に関わった後、そのシステムのユーザー向け研修を手伝った。外注としてマニュアルを制作する立場ではユーザーに接する機会は少ないので、これは自分にとって貴重な体験となった。

 研修で出てくるユーザーの質問は常に具体的で、現場の作業内容に即したものだった。しばしばそれはマニュアルを制作しているときには想定していなかったケースでの操作方法で、こちらが即答できないこともあった。

 マニュアル制作ではユーザーの立場に立って考えることが重要だと言われる。今回の研修を通じて、そのことをあらためて痛感した。この研修を踏まえてさらに取扱説明書を改訂すれば、よりわかりやすいものになったと思う。(2000.12.2)

No.083 二つの論理

 論理には二種類あると思う。もっとあるかもしれないが、少なくとも二種類はあると思うのだ。一つは、学問の世界でいうところの論理だ。それは厳密さが要求され、例外も考慮され、万人が納得できるものでなくてはならない。もう一つの論理というのは、感覚、感性、直感に基づくものだ。例えば、部屋に入ったときに、その部屋にいた男女のようすがどことなく変だったとする。そのようすから、二人が直前までキスをしていたと直感によって感じたとする。それは直感に過ぎないわけだが、男がこういうしぐさをしたから、女がこういう表情をしていたから、などの諸々の理由から、自分の判断は論理的であると感じる。それは学問の世界では論理とはいえないものだが、我々はそれを確かな論理として信じてしまう。いわばこれは論理という名の直感だ。

 学問の世界や裁判など、厳密さが求められる場合に必要なのは、もちろん一つめのほうの論理である。しかし実生活を進めるにおいて常にそのような厳密な論理を用いている暇はない。我々がふだん用いているものは二つめのほうの論理であろう。これは厳密ではない代わりに、一つめの論理では結論の出せないような問題に対しても結論を出すことができるという大きなメリットがある。先の例でいうなら、自分が部屋に入る前にそこで起きていたことを判断することができわけである。もちろんそれは間違っている場合もあるわけだが、だいたいは当たっていることだろう。直感というのはそういうものだ。

 二種類の”論理”は、互いを補うものだろう。どちらかだけでは世の中はたちゆかない。それぞれの長所短所、限界を意識して使い分けるべきだと思う。自分が「これは論理的な結論だ」と思うとき、それはどちらの”論理”であるのかについて意識的でありたいと思(2000.11.27)

No.082 ローカライゼーション

 マニュアル制作業界では「ローカライズ」、「ローカライゼーション」という言葉をよく使う。例えば米国で開発された製品のマニュアルを日本向けに作り変えることは「ローカライゼーション」である。「ローカライズする」という言い方もする。
 ローカライズ(localize)を辞書で引くと、「病気などを 一地方[局所]に制限する」「〜に 地方的特色を与える; 〜を 地方化する,地方に分散させる」(研究社 新英和辞典)とある。マニュアル制作で使う場合は「地方化する」という訳が一番ぴったりくると思う。
 「それは翻訳と違うのか?」という問いには「違う」と答えるのが、マニュアル制作業界の常識だ。翻訳は言葉を置き換えるだけだが、ローカライズにはもっと幅広い内容が含まれるからだ。例えば注意書きの内容は、法律や習慣の違いがあるため米国向けと日本向けでは異なる。米国向けの注意書きを”翻訳”しただけでは、日本向けとして適切な注意書きにはならない。だからローカライゼーションという視点が必要になる。
 しかし考えてみると、ローカライズ、ローカライゼーションという言葉が使われる以前から、海外のものを日本に導入する場合にはローカライズに相当する業務が行われていたはずだ。例えば外国のロックバンドのアルバムを日本で売るなら、ジャケットのデザインを日本向けにし、日本向けのライナーノートを作り、歌詞の日本語訳も入れ、売れそうな曲には日本語の題名を付けもしただろう。そういったことの全体は「ローカライズ」と呼んでよい業務だろうと思う。昔は何と呼んでいたのだろうか?
 余談だが、イギリスのロックバンドであるローリングストーンズのヒット曲に「悲しみのアンジー」というのがある。1973年に全米一位になったこの曲の原題は"ANGIE"であって、「悲しみ」に相当する言葉はどこにもない。この日本語の題名の是非はおいとくとして、「悲しみ」を付け足すというような行為は翻訳の領域を越えたこと、つまりはローカライズの領域であるように思うのだが、皆さんはどう思われるだろうか。(2000.11.18)

No.081 「フリース」の普及

 新しい言葉の普及のしかたはいろいろだろう。世間の動きをながめていると、普及の過程が肌で感じられる場合がある。最近では「フリース」という言葉が国内に普及し、浸透しつつあるように思う。

 その原動力は、「ユニクロのフリース50色1900円」のテレビCMだったろう。服飾に興味のある人など一部の人を除いて、かなりの人がそれまで「フリース」を知らなかったのではないだろうか。特に男性においては。私は知らなかった。

「フリースってジャンパーのことか」--あのCMでは、そのように思ってしまいかねない。実際にはフリースとは羊毛や羊毛に類似した布地の種類の名前だ。特にペットボトルの再利用により作られたものを差すことが多い。

 言葉が誤った意味や使い方で普及してしまう例は数多くある。「すべからく」は間違った使われ方をすることが多い。「どくだんじょう」は誤読が普及したものだ。敬称の「殿」を「様」より敬意が上だと思っている人もいる。見知らぬ人からのメールに「貴様(きさま)」が使われていたのを見たことがあるが、他の部分は丁寧な言葉だったからあれは「貴兄」「貴殿」「貴下」などのつもりだったのだろう。それにしてもひどい間違いだ(中世には「貴様」も敬語だったらしいが)。

 フリースがどういう意味の言葉として普及するか、いまが分かれ道かもしれない。ユニクロが「フリースのジャンパー50色1900円」とやってくれればよかったのに。まあ、どっちでもいいのだが。(2000.11.12)

No.080 世界大百科事典

 新宿の紀伊国屋で世界大百科事典とマイペディア98のセットが安売りしていたので衝動買いをしてしまった。発行が98年のもののため年鑑部分の情報が古くなっている、そういう理由で安くなっているのだろうか。定価59000円のところが約4分の1の値段になっていた。定価にみあう価値は十分ある製品だと思うので、その4分の1なら買い得感たっぷりだ。

 学生時代、百科事典のセールスマンに説得されて全35巻の百科事典を買ったことがある。2年くらいの月賦だったと思う。十分に使い込んだとは言いがたいが、たまに何かを調べたりすると、参照したい項目が思い浮かんで、それを調べるとまた別の項目について知りたくなって、という具合に、ページからページへとあちこちジャンプしながら読むことになるのだった。いま考えるとそれは、ネットサーフィンによく似た楽しみだ。それはつまり、インターネット全体が巨大な百科事典のような働きをしているということでもあろう。しかしインターネットが玉石混交であるのに対し、百科事典は各分野の専門家が専門分野について書いた文章の集積だ。情報の信頼性や密度ははるかに高い。

 かように自分は百科事典を高く評価する人間なのだ。が、百科事典のほうは就職で引越しをする直前に古本屋に買い取ってもらったのだった。購入価格の8分の1程度の金額にしかならなかったのが残念だったのだが、今回安くCD-ROM版が入手でき、なんとなく「借りを返した」という気分である。(2000.11.4)

No.079 一年を振り返る

 それまで所属していた会社を辞めてフリーランサーとなったのが去年の10月末。それから一年が経った。それ以前の10年も在宅勤務であったから、生活のスタイルはこの10年ほとんど変わらないのだが、どの会社にも所属しないで働いたこの1年はやはり緊張感が違ったように思う。というわりには、以前より太ったのだが…。
 会社員であることとの最大の違いは、働かなくては収入がなくなるということだ。当たり前の話だ。しかし会社に所属しているときには、そのことを忘れることもあったように思う。極端な話、会社員であれば一日ぼうっとしていても給料は入ってくる。もちろんずっと働かずにいれば首になるわけだが、働くことと給料をもらうことの間にだいぶ距離がある。それがフリーランサーの場合は直結しているというわけだ。
 この単純さは、自分にはむしろ愉快である。打ち込んだ一文字一文字、原稿の一枚一枚がお金に変わっていくという単純さ。家が畑、パソコンが農機具、原稿が作物といったところか。おのずとよく働こうという気持ちになろうというものだ。この調子でこれからも働いていきたいものである。(2000.10.31)

No.078 常用漢字表と表外漢字字体表

 一般にマニュアルでは、1981年(昭和56年)に内閣が告示した常用漢字表以外の漢字は使わないことになっている。1945字からなる常用漢字表は漢字使用の目安を示したものであって何も強制はしていないのだが、どの漢字を使うか使わないかの基準として便利ということで、マニュアル制作においても採用されているということだろう。常用漢字表に若干の修正を加えた新聞用語懇談会の基準が各種用字用語辞典として出版されているので、実際には、これに準拠して作業をすることが多い。ちなみに年配の人は当用漢字表という言葉によりなじみを感じるかもしれないが、それは常用漢字表の前身にあたるもので、常用漢字表とは別のものである。
 話し変わって、現在、国語審議会では「表外漢字字体表」を検討している。これは常用漢字表に含まれない漢字の字体の標準を示すものだ。印刷物やパソコンのフォントなどによって字体にバラツキがある現状に対して、これが標準の字体だというものを提示しようということだ。その案として掲げられているのは1022種の漢字。文化庁ではこの案についての意見を募集中だ。かなり長いその前文はけして読みやすいとはいえないが、漢字に関わるさまざまな問題や、常用漢字表や表外漢字字体表の位置付け、漢字の選定基準などが説明されており、なかなか興味深い。例えば、一般の出版物で使用される漢字の96パーセントは常用漢字表に含まれているという統計結果なども出てきて、面白いのだ。漢字や文字に興味のある人には一読の価値があるだろう。(2000.10.21)

No.077 「れれれ」の女子高生

 「メールのタイトルに『』ってつくでしょう?」「ああ、アールイー?」「そう、あれって何かな」「勝手につくよね」「返信の返信だと『れれ』になって、その返信だと『れれれ』ってなっちゃう」−電車の中で聞こえてきた会話だ。話しているのは女子高生とおぼしき二人。
 二人が話している「RE:」は、電子メールを使ったことがある人なら誰でも知っている、返信時にタイトルに付加される文字だ。一説によれはこれはReply(返信)の略であるとか。これによりどのメッセージに対する返信かを表す。これは昔からあった。私がパソコン通信をしていた十数年前からあったし、聞くところによるとテレックスという1930年代からある通信方式においても使われていたそうな。いわば通信においては伝統的な約束事なのだ。
 先の二人組が使っているメールというのは携帯電話によるものらしいのだが、携帯メールの急速な普及によって日本の若者が通信世界の古い約束事と唐突に出会うことになったわけだ。それを人前はばからず「」と言い、さしてこだわりもせずに新しい技術を使いこなしていく、そういう彼女らにワイルドといっていいようなエネルギーを感じ、少し愉快な気分になったしだい。(2000.10.14)

No.076 届かない言葉

 「「指南書」を数冊買い込み、秋葉原でノートパソコンを買った。まずメールを、と指南書を読んだが、いくら読んでも分からない。メーカーに電話をかけるがつながらない。再三電話しやっとつながったが、相手の言っている意味が分からない。(中略)なんでこんなものを買ったのかと嫌悪感に襲われながら、毎日苦闘している。」−−10月6日の朝日新聞夕刊の「どっとデジタル」というコーナーにこんな投書があった。
 そんなふうに四苦八苦している人は大勢いることだろう。けっして安い買物ではないのだ。これでいいはずがない。パソコンというものが買ってすぐ誰でも使えるという商品ではないという面はあるだろう。しかしこんな状況をほうっておいていいはずがない。
 メーカー側も電話サポートを充実させたりパソコンセミナーを開催したりと努力はしている。我々テクニカルコミュニケーターもマニュアルもわかりやすくしようと努力を重ねてはいる。しかしまだ不十分なのだ。我々の言葉は、まだ届いていない。届かせるための努力と工夫が求められている。(2000.10.7)

No.075 DVD

 コスト上の理由からか、ビデオになっていないレアな作品もDVDでは出ているということがあるようだ。大江健三郎原作、大島渚監督作品『飼育』がDVDで出ると聞いて驚いたのはふた月ほど前のこと。家にDVDプレイヤーはなかったが、たまたま仕事の都合でiMacを買う必要があったので、DVDに対応しているタイプのものにした。そして9月23日にDVDが発売されるのを待って、先日TSUTAYA Onlineで注文。三日ほどで届いたDVDを昨日観たのだった。
 絶版になって読めなくなってしまう本がたくさんあるように、いまは観ることのできない映像作品というのも多数あるに違いない。そんな作品がDVDになったり、インターネットのストリーミングサービスに乗ったりという形で、どんどん公開され、後世に残ってくれればと願いたい気持ちだ。たとえば80年代のポップミュージックのミュージックビデオ作品などはいまは観ることができるのだろうか。優れた作品がたくさんあったと思うのだが。
 映画版『飼育』は、大江ファンとしては納得しがたい内容ではあったが、原作とは別の作品と思えば、面白い内容ではあったと思う。(2000.9.30)

No.074 『ノンデザイナーズ・ウエッブブック』に学ぶ

 毎日コミュニケーションから出ている『ノンデザイナーズ・ウエッブブック』(ロビン・ウィリアムズ、ジョン・トレット著、吉川典秀訳)は参考になる。ロビン・ウィリアムズは映画俳優のあの人ではなくて『ノンデザイナーズ・デザインブック』などの本を書いているライター。 『ノンデザイナーズ・ウエッブブック』はウェブサイトのデザインについての解説書で、デザインの知識がない人、デザインの知識はあるがウェブサイト制作は初心者という人向けに書かれている。
 例えばこんなことが書いてある。「サイトについて明確な答えを出しておくべき2つの質問があります。それは1)対象にする観客はだれか、2)このサイトで達成したいことはなにか、ということです」この2点を明確にすることで、サイトに入れるべき情報の範囲や情報の優先順位がおのずと明らかになっていくというわけだ。言われてみれば当たり前のことだが、実際にはこの質問に対する答えを出さずに制作されたようなサイトは多数ある。当サイトについて1と2の質問に答えるなら、1)は「当事務所にとってお客様となり得る会社の人々」で、2)は「当事務所についてそれらの人々についてよく知ってもらい、仕事を発注してもらうこと」ということになろうか。この観点であらためてこのサイトを眺めてみると改善の余地は多数ある。しかしこのサイトを見て仕事の依頼をしてこられるケースも増えてきているので、それなりの役割は果たしていると言ってもいいだろう。ただの幸運によるものなのかもしれないが。(2000.9.24)

No.073 オリンピック開会式に込められたメッセージ

 シドニーオリンピックの開会式をテレビで見た。それは芸術であり、しかも明確なメッセージを表現したものでもあったと思う。長時間におよぶパフォーマンスは、オーストラリアの歴史や伝統を表現することが縦糸で、人種、民族、国家の壁を乗り越えた平和の賛美が横糸となった大きなタペストリーのようなものだった。そして先住民族であるアボリジニーに対する尊重と敬意の念が強く表現されたものでもあった。そのメッセージは世界に対して伝えられた。
 ナショナリズムを煽るものということでオリンピックを批判する声もある。商業主義という批判もある。しかしスポーツの舞台において、敵対する国どうしが同じグランドに立って公正なルールの下で競いあい、互いの健闘をたたえ合う、そして観客がそれに声援を送るということは、かけがえのない価値のあることではないかと思う。実際の政治はそんなふうに理想的にはいかないだろう。しかし理想を掲げるということは重要なのだ。目指すべき理想があればこそ人間は努力することができるのではないだろうか。
 開会式の後半は各国・地域の選手団の入場だった。最後に登場した地元オーストラリアの選手団が最も大きな声援を受けたのは当然だが、南北朝鮮の選手団が一つになって、一本の旗を支える二人の選手に従って登場したときの声援がそれに匹敵するものだったことには素直に感動を覚える。両国の統一を望んでいるのは朝鮮半島の人々だけではないということが両国の人々に伝わったと思いたい。(2000.9.16)

No.072 仕事の波

 8月の終わりから9月の始めにかけて、仕事の依頼が数件続いた。どうしたわけだろうか。二人でやっている小規模な事務所であり、すでに仕事の予定も入っていたので、その多くを断らざるを得なかったのは非常に残念だった。このように集中しないで、年を通して具合よく間隔が空いてくれると好都合なのだが、それは贅沢というものだろう。ともかくいただいた仕事をどんどんとやっていくしかあるまい。
 話し変わって、先月購入したiMac。時間が経つにつれて愛着が湧いてきた。通常のパソコンと違って冷却用のファンがないため、非常に静かだ。内蔵スピーカーの音質もなかなかのもので、CDプレーヤーとしても十分使える。マドンナを聴いていたら、後ろで宿題中の小五の息子が踊っていた。(2000.9.9)

No.071 アップルのマニュアル

 昨夜はTCストリートでのオフ会があった。いろいろ楽しい話題が出たのだが、我が事務所のアシスタント猫2匹のこともちらっと話に出た。何人かの方は猫の出てくるページをご覧になったことがあったようで、アシスタント猫のことをご存知だったのだ。
 猫たちは一日のほとんどの時間を寝て過ごしているが、ちゃんと仕事もしている。例えば雑誌に掲載する画像ソフトの紹介記事では、サンプル画像のモデルを務めた。彼らの画像は、新聞、雑誌、書籍に掲載されたから、何万人もの目に触れているはずだ。それ以外の仕事としては、ヒーリングがある。疲れた我々の気持ちを癒してくれるというわけだ。これはペット本来の仕事であって、あえて言うようなことでもないが。
 話は変わるが、先週のコラムではiMacのマニュアルがよかったという話をした。文字がなく、写真だけで接続手順を示した帯状のマニュアルがこれだ。

iMacのマニュアル

 シンプルで美しいと思う。○で囲ってあること、○がじぐざぐになっていること、各○の中のiMacの色が異なっていること、手順を示す数字以外には文字がないこと、それらがすべて美しいと思う。
 思いおこせば、自分がマニュアルというものを初めて意識したのもアップルの製品だった。それはAppleIIcというコンピュータで、付属のマニュアルがこれである。

AppleIIcのマニュアル

 表紙のよさは一目でわかっていただけるのではないかと思う。ページを開けばこれまた、カジュアルで、おしゃれで、明るくて、楽しいマニュアルなのだ。
 このような楽しいマニュアルが他社製品ではあまり見かけないのはどうしたことだろうか。iMacにしろAppleIIシリーズにしろ、ある意味で特別な製品なので、マニュアルも特別なものが必要だったということは言えるかもしれない。特別というのは、単なるコンピュータではなく、工業製品と芸術作品の両面を持っているというような意味だ。
 他社製品に魅力的なマニュアルが少ないのは、もしかするとアートディレクターがアップルのマニュアル制作部署にはいて、他の会社にはいない、というようなことが背景にあるのかもしれない(想像だが)。少なくとも私がマニュアル制作で関わったメーカーでは、そういう存在はいなかった。
 皆さんはどう思われるだろうか。(2000.9.2)

No.070 iMacを買う

 iMacを買ってしまった。それまで使っていたマックが突然起動しなくなってしまったからだ。内蔵電池やハードディスクを交換してみたがダメだった。仕事に必要なので修理に出している時間もない。やむなく、近くの店で在庫のあった機種を買ったのだった。
 そんないきさつによるものではあったが、やはり新しい機種を買うというのは心が躍る。すぐに使えることを謳っている機種だけに、設置と接続は簡単だった。その作業のためのマニュアルがあるのだが、写真で手順を示しているだけで、文章による説明はまったくなかった。マニュアルはもう一冊ついているのだが、これもごく薄いものだ。
 PCとそのマニュアルのあり方について、一歩半くらい先の姿を見せられたような気がした。(2000.8.26)

No.069 『ノンデザイナーズ・デザインブック』を読む

『ノンデザイナーズ・デザインブック』(ロビン・ウィリアムズ著、吉川典秀訳、毎日コミュニケーションズ刊)を読むのは楽しい体験だった。デザイナーではないがデザインの要諦を押さえておきたいという人のための本だ。豊富な実例を示しながらの説明はわかりやすく、説得力があり、ナルホド!と納得することの喜びを何度も感じた。語りかけるような調子でしかも比喩に富んだいきいきとした文章も、大変魅力的だった(これは訳者の功績も大きいはず)。製品マニュアルが利用者にとってこのように楽しい存在であれたらすばらしいことだ。それはけして容易なことではないが、それを目指す姿勢は常に持っていたいものである。(2000.8.19)

No.068 猫のメッセージ

 家族が田舎へ帰省し、仕事のある私は家に残り、二匹の猫とともに一週間を過ごしました。猫を飼ったことのない人はご存知でないかもしれませんが、猫はそれが必要なときには自分から人間に対して意思表示をしてきます。その手段はいろいろで、じっとこちらを見つめたり、鳴いたり、体をこすりつけてきたり、足に軽く噛みついたり、猫によってやり方は微妙に異なるようです。彼らが伝えたいメッセージはたいがい”何か食べさせろ”です。
 えさの皿にはまだキャットフードが残っていることがわかっているので、私は彼らの意思表示を無視します。しかし彼らはあきらめない。やがて彼らの執拗な意思表示に根負けして立ち上がると、ささっと1、2メートルほど前に出てこちらを振り向き、”早くきてよ”という感じでニャアと鳴きます。待ちきれないといった風情です。にもかかわらず、私が新たにえさ皿に入れてやったキャットフードが気に入らないと、”興味ないね”とでもいうように顔をそむけ、口もつけずにどこかに行ってしまったりします。そんなことをしているうちに一週間が過ぎてしまったような気もします。 (2000.8.12)

No.067 デジタル・ディバイド

 「デジタル・ディバイド(情報格差)」という言葉を耳にすることが増えてきました。今年の通信白書には「情報通信手段に対するアクセス機会及び情報通信技術を習得する機会を持つ者と持たざる者との格差、いわゆるデジタル・ディバイドの拡大が懸念されている」とあります。経済的な理由、年齢、住んでいる地域などにより、インターネットを利用する機会の格差が大きくなってきているのです。最初は米国の国内問題を指していたように思いますが、先進国にはどこも程度の差こそあれ同様の問題があるといえるでしょう。さらに、先進国と発展途上国の格差も問題になっています(米国・カナダのインターネット普及率が50%近いのに対し、アフリカ大陸のそれは0.3%に過ぎません)。先の沖縄サミットでも、デジタル・ディバイド問題は話し合われ、沖縄憲章にその解消の必要性が盛り込まれました。
 しかし、デジタル・ディバイドを解決すればそれですべてOKなのかというとそうではありません。この格差が生まれた最大の原因は、それ以前から存在している貧富の格差です。それがデジタル分野においても継承され、さらには拡大されたのがデジタル・ディバイドであると考えることができます。ならば解消すべきなのは、貧富の格差全体でしょう。デジタル・ディバイドはその一部分にすぎません。このことを忘れてはいけないと思います。 (2000.8.3)

No.066 他山の石として

 「他山(たざん)の石とする」という言葉があります。広辞苑によれば「他山の石以て玉を攻(おさ)むべし」という詩経(中国最古の詩集)に由来する言葉で、その意味は「 (よその山から出た粗悪な石でも、自分の宝石を磨く役には立つという意から) 自分より劣っている人の言行も自分の知徳を磨く助けとすることができる」とのこと。ちなみに詩経は孔子が編纂したとされているそうです。
 新聞を開けば、さまざまな犯罪、不祥事、醜聞が世に満ちあふれていることがわかりますが、最近の傾向として目立つのは、企業や警察など、組織の不祥事であり、それを隠そうとする組織の体質です。そういったニュースを目にするたびに思うのは、「はたして自分がその組織の一員だったとして、ノーと言える勇気があるだろうか」ということです。誰しも何かしら組織や集団に所属しています。そのなかで、正しくないと思ったことに対してノーと言えるか。
 おそらくマスコミで報じられる組織の犯罪にかかわっている個々の人々はごく普通の人でしょう。そして、犯罪という意識をあまりもたずに罪を犯してしまった。そうであるなら、もしかしたら自分がそういう立場にあれば同じように振舞っていたかもしれない。いや、あるいはすでに自分はそういう領域に足を踏み入れているかもしれない。そのように自分の言動を点検しなくてはならないと思います。他山の石として。 (2000.7.29)

No.065 新大久保で語り合う

 友人たちに誘われて行った新大久保。JR新大久保駅周辺は歩いていると日本語よりも外国語のほうが多く聞こえました。古めかしい神社があるかと思えば、ハングル文字の看板が目立つエリアもある。道行く男を呼び止める女たちの国籍も多様なようでした。そんな街の中華料理店で豚の一部分であったものをかじり、赤い酒を飲みながら、”IT革命”とやらの内実や互いの健康のことを語り合う。忙しい日々の中にたまたま挟み込まれたはそんな時間がとても貴重なものに思えたのでした。 (2000.7.22)

No.064 GAPに思う

 仕事の帰りに原宿にあるGAPという衣料ブランドの販売店に寄ってみました。地階が子供服、1階が男性用、2階が女性用という具合にフロアごとに取り扱う服の種類が異なるのですが、それを表した案内板が気に入りました。どういうものかというと、人間の顔の写真を使っているのです。子供服の階なら子供の顔、男性用の服の階なら大人の男性の顔、という具合です。背景が白という点も含め、まるでアップルコンピュータあたりがアイコンとして使いそうな感じのデザインです。若者たちの行き交うフロアに立ち止まり、写真のいきいきとした表情を見ながら、「やるもんだな」とひそかに感心したのでした。 (2000.7.15)

No.063 価値観

 人は成長期に身に付けた価値観を簡単には捨てることができません。しかしかつて正しかった価値観が、時代の変化とともに間違ったものになってしまうことは珍しくありません。極端な例としては、日本の戦前の価値観から戦後の価値観への180度の転回が挙げられると思います。しかも、いまもなお戦前の価値観を引きずっている人が大勢いるのです。
 「価値観」といった大きなレベルのこと以外でも、ちょっとした知識や常識のレベルにおいて、同様のことが言えます。野球の投手が肩をアイシングするのは、かつては考えられない暴挙でした。たっぷり日焼けすることは健康によいとされていましたが、いまは紫外線による発ガンの危険性が指摘されています(フロンによるオゾン層破壊の影響が出始めているオーストラリアでは皮膚ガンが増えているそうです)。そんなことがたくさんあるのだと思います。かつて正しかったからといって今も正しいとは限らない。このことを忘れてはいけないでしょう。-2000.7.8-

No.062 後半戦

 早いもので2000年ももう後半に突入です。前半を反省しつつも、20世紀最後の半年間を楽しく生きていきたいものです。(2000.7.3)

No.061 声の取扱説明書

 ソニーがウェブサイトで「声の取扱説明書」を提供しています。視覚障害のある方や高齢の方のための、「読む」のではなく「聴く」取扱説明書です。ウェブサイト上でリアルオーディオを使って聴くことができるほか、テキストデータも提供されています。依頼すれば無料でカセットテープを送ってくれるそうです。現在提供されているのは、ラジカセ、ビデオデッキ、電話機など17種類35機種分です。試しにその一部を聞いてみましたが、紙のマニュアルを朗読しているのではなく、音声だけで説明がわかるようにいろいろと工夫が凝らされていることに感心させられました。
 パソコン、携帯電話、携帯情報端末など、各種のハイテク機器は、その便利さや機能の高さに注目が集まりがちですが、障害のある方の生活の道具としてもとても役立つという側面もあります。例えばパソコンとソフトを組み合わせれば、テキストデータをパソコンに朗読させることができます。点字がなくても、人に朗読を頼まなくても、文章が読めるわけです。こういった側面を考えるなら、ハイテク機器がバリアフリーになるようにメーカーが努力するのは正しい方向だと言えるでしょう。ソニーの試みを応援したいものです。 (2000.6.24)

No.060 だめ連

 ある仕事用に購入したライフスタイルに関する数冊の本の中に『だめ連の「働かないで生きるには?!」』(神長恒一・ぺぺ長谷川著、筑摩書房)というのがあります。マスコミでも何度か取り上げられている「だめ連」についてはご存知の方も多いでしょう。効率一辺倒の社会から脱落すると「だめなやつ」と言われてしまう世の中にあって、だめだっていいじゃないかと開き直って生活を楽しむ、そういう考えのグループです。前掲書を読んでみて、これはけっして主流にはなり得ない思想だなあという感想を持ちましたが(もちろん彼らも主流を目指しているわけではないのですが)、そういう生き方もあるということを知っておくのは悪いことではないとも思いました。端的な言い方をするなら、過労死するくらいなら「だめな奴」になったほうがいいだろうと思うのです。そういう選択肢だってあるということを働きすぎの人は頭の片隅に置いておいてはいかがでしょうか。 (2000.6.17)

No.059 Yahoo!のネオンサインに思う

 JR新宿駅の南口近くでYahoo!の大きなネオンサインを見かけました。梅雨の小雨の降る夜、それは鮮やかな色を放っていました。あのおなじみのロゴをそのままネオンで再現したそれからは、時代の先端に位置するものの自負が感じられるような気もしましたが、考えすぎでしょうか。ちょっと有名というだけの一検索サービスだったサイトが、数年の間に莫大な資産を持つ企業に成長したことに、あらためて感慨を覚えずにはいられません。その短い歴史を振り返れば、山間の小川が急流を経て大河になるようなダイナミックなものでしょう。そんな時代の中に自分もいるのだということを忘れずにいたいと思います。 (2000.6.10)

No.058 世界を前に進める方法

 今月25日に総選挙が行われることになりました。選挙で思うことは、投票率の低さ。国政選挙でもだいたい50パーセントくらい、という状況がずっと続いています。選挙は政治に参加する最大のチャンスですし、社会をよい方向に変えたいと思うなら選挙権という権利を行使すべきだと思うのですが、投票にいかない人が多いのはどうしたことでしょう。投票しない人は、投票しないことが結局、大勢に従うのと同じ意味になるということを知っているのでしょうか。現状維持でよいほど、この国はよい状況にあるのでしょうか。投票したいと思う政党・政治家がいないというのは言い訳になりません。ベストではなくても、よりマシな政党・人を選べばいいだけのことです。政党や政治家を自分の価値観で評価し、それを選挙で表現する。そういうことの繰り返しによって世の中はよりマシになっていくはずです。 (2000.6.4)

No.057 道具の寿命

 富士五湖の一つ山中湖へ行ってきました。キャンプのつもりでしたが、現地についた時点ですでに雨だったので、バンガローを借りました。それでも、自前の道具で飯を炊き、焼肉をし、お茶をいれ、寝袋で寝て、家族でアウトドア気分を少しばかり楽しみました。自分の寝袋、ガスコンロ、ナイフなどいくつかの道具は学生時代に使っていたもので、それがかつてと同様にちゃんと機能したことが少し嬉しくもありました。十数年前のものだというのに。ふだん接している道具であるパソコンの製品寿命の短命なことを思うと、その差に感慨を覚えます。もちろんパソコンが十数年後も平気で使えるようなものなのであれば、これほどまでに急速にパソコンは発展も普及もしなかったことでしょう。私たちの仕事もだいぶ少なかったかもしれません。ただ、一ユーザーとしては、買ったパソコンにはできるだけ長い間現役を続けてもらいたいという気持ちがあります。十年でも二十年でも。 (2000.5.28)

No.056 ドーキンス

 読書は刺激的なものです。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(紀伊国屋書店、ISBN4-314-00556-4)は、私がこれまでに読んだ中でも屈指の刺激的な本でした。1976年の本です。そのドーキンスが90年代に書いた『遺伝子の川』(草思社、ISBN4-7942-0672-0)という本をいま読み始めています。これまた、刺激的。こういう面白い本に出会うと、幸せな気分になります。皆さんのお奨めは、どんな本でしょうか。 (2000.5.20)

No.055 小渕氏の死に思う

 小渕前首相が14日に亡くなりました。62歳という年齢での逝去に「まだ若いのに」という声が多く聞かれます。子供のころはそういう言葉に不思議な思いがしたものでした。「そんな歳なのに、若い?」 しかし、いまはまったく違和感は覚えません。60代ならまだまだいろいろなことができるということが分かっているからでしょう。70代80代でも現役というのがそれほど珍しくない政治の世界ならなおさらのことです。政治的に支持していたわけではありませんが、マスコミを通じて顔をよく見知った小渕氏の死に悲しみを感じます。それと同時に、このようにして唐突に幕を降ろすこともある人間の生について無常感を覚えました。 (2000.5.16)

No.054 ゴールデンウィークの終わりに

 結局、今年のゴールデンウィークは一日も休むことなく終わりそうです。その代わりいずれたっぷり休ませてもらうぞと思ってはいるのですが、どうなることやら。皆さんは十分な休養を取れましたか? (2000.5.6)

No.053 デジカメ写真の取り込み

 デジカメで撮影した画像データをパソコンに取り込むために、スマートメディア用のPCカードアダプタを購入しました。デジカメに入っているスマートメディアをこのアダプタに入れると、PCカードとしてパソコンのPCカードスロットに装着できます。以前はデジカメとパソコンをケーブルで接続し、転送用のソフトを起動して、転送するファイルを指定して、転送を実行。転送には数分ほどかかっていました。ところがPCカードアダプタを使うと、パソコンにカードを装着するやいなや、画像データのファイルアイコンが画面に表示されます。それをデスクトップにドラッグしてやると一瞬で転送は完了。圧倒的な簡単さに、技術の恩恵というものをひさびさ感じました。 (2000.4.29)

No.052 フリー半年

 会社を辞めてから半年が経ちました。会社に所属していたときも在宅勤務だったので、生活のパターンは以前と変わりませんが、気持ちの面ではやはり違うものがあります。常に次の仕事を確保していかなくてはいけないという緊張感もありますし、外注した場合は資金繰りに気を使わなくてはなりません。おかげで体重が少し減った、となると説得力がありますが、実際には1、2キロ増えました。歳のせいでしょうかね。 (2000.4.22)

No.051 小さな冒険

 与えられたテーマに即したホームページを紹介する記事を書く仕事をしているのですが、その原稿を書くことは、自分には小さな冒険旅行のように感じられます。情報の海であるインターネットにパソコンでもって出帆し、紹介するにふさわしい輝きを放つ宝石(ホームページ)を探し出してくる。宝捜しに没入している間、自分の意識は仕事場のパソコンの前にではなく、情報の海を帆走しているかのようです。宝石を見つけ、それを文章の形にし、メールで原稿を送る。そのとき、自分は海から・旅から仕事場へと引き上げてきたような高揚感と充実感を覚えるのです。たかだか数百文字の原稿に大げさな話ではありますが。 (2000.4.16)

No.050 花見

 皆さん花見はお済みでしょうか。花は桜と昔から日本では桜を愛してきたようです。私の場合も、桜がいっせいに咲いているのを見ると心が浮き立ちます。浮き立つのを通り越して、なにやら不安というか怖さのようなものもわずかに感じるようです。景色が一変してしまったことからくるのか、その桜花に満たされた景色が長くは続かないことを予感してのことなのか、自分でもよくわかりません。ほかの人もそのような感じ方をしているのだとしたら、花見をしながら宴会を開く私たちの習慣は、不安を解消するという儀式も兼ねているのかもしれませんね。 (2000.4.8)

No.049 ほどほどに働く

 小渕首相が突然の脳梗塞で倒れ、意識不明の状態が続いているそうです。政治的なことはさておき、同じ人間としては同情の念を禁じ得ません。小渕さんが一日も早く快復されることを望みます。
 マスコミ報道を見ると、首相という立場に伴う激務と、政治情勢からくる精神的ストレスが大きな原因ではないかという見方が強いようです。政治情勢の面はいたしかたないにしても、激務の面はどうにかすべきことではないでしょうか。働く人という点では、私たちも首相も同じわけで、一般労働者に過労死があってはならないのと同じく、首相にもそれはあってはならないことだと思います。
 死ぬほど働くこと。ともすれば私たちの国ではそれが美化されますが、それは間違ったことです。死ぬホド働くのではなく、ホドホドに働くこと、これが正しい。働いたら遊ぶ、それが人間にとって自然なあり方だと思います。特に、徹夜して夜明けを迎えようとしているいまの私は、強くそのように思うのでありました。 (2000.4.5)

No.048 天下の回りもの

 フリーランサーとして仕事をしていると、「いつ入金があるか」ということが非常に重要な問題となってきます。たとえば何百ページもあるようなマニュアルを書くとすると、準備期間も含め数ヶ月の間、仕事が続くわけです。その支払条件が、「マニュアル完成後の翌々月末、3ヶ月手形払い」だったとしましょう。そうすると、仕事に着手してから数えて1年近く経ってからやっと現金が手に入るわけです。もしそれまで干からびずに生きていることができれば、の話です。
 結局、お金というのは流動的な資産であり、自分のところにあるお金は川の流れのちょっとゆるくなったトロ場の水のようなものなのかもしれません。入ってくるそばからどんどん流れ出ていく。入ってから出て行くまでの時間が長ければ、少しお金がたまったような気がしますが、それにしてもいずれは出て行ってしまう。昔の人が言った言葉「金は天下の回り もの」というのは、こういうことを指しているのでしょうか。(2000.3.25)

No.047 『トイストーリー2』を観る

 『トイストーリー2』を観てきました。マスメディアの映画評でも高い評価を得ている映画ですが、期待どおりのウェルメイドな出来ばえでした。子供がいると、子供に観せるという口実で良質な子供向け映画を観られます。
 トイストーリーの前作は、すべてCGで作られているということで話題になりました。今回もそのことは多少話題になりましたが、子供たちにとってはそんなことは関係ないようです。彼らの口から出るのはウッディーやバズといったキャラクターの名前、「無限のかなたへ、さあ行くぞ!」といったセリフなどです。面白いかどうか、それが重要なのです。
 トイストーリーシリーズが成功したのは、CGだったからではなく、面白い映画だったからだということを、トイストーリー2を観て感じたのでした。(2000.3.19)

No.046 11台目のパソコン

 先日、通算11台目となるパソコンを購入しました。その数に驚かれる方もいらっしゃるかもしれませんが、最初に購入したのは学生時代のことで、それから十数年をかけて買ってきた結果ですし、仕事の道具となった10年ほど前からはある程度パソコンの進歩を追いかけていく必要もありましたから、11台という数字はけっして異常なものではないと思います。
 いま家にそのすべてが残っているわけではありませんが、仮にその11台を性能の順に並べたとしたら、きれいに購入順に並ぶことになります。もちろん新しいものほど性能が高いのです。たぶん一番新しいものの性能は、一番古いものの数十倍に達することでしょう。ところが、これらを値段順で並べると、購入順とはまったく関係ない順序になります。その高いものと安いものの違いも2、3倍ほどしかありません。つまり似たような値段で11台を買ってきたが、性能のほうは幾何級数的に向上してきたということになります。
 ではパソコンの便利さも幾何級数的に向上してきたかというと、必ずしもそうではないというのが私の意見です。たとえばいまワープロで原稿を書いているのと同じように、10年前にもワープロで原稿を書くことはできました。もちろんワープロの表現力は増しましたし、かな漢字変換システムはより賢くなりました。プリンタでの印刷も速くなりました。しかし以前の何十倍も”便利になった”という感じはしません。せいぜい2倍くらいではないでしょうか。
 新しいパソコンを前に、そんなことを考えました。(2000.3.11)

No.045 秋葉原に思う

 昨日の夜、用事で秋葉原の電気街に行ったのですが、いくつかの店の前に大勢の若者が集まっているのを見かけました。その場には緊張感も感じられたので、何か事件でもあったのかと思いましたが、どうやら明日発売されるゲーム機を購入するために並んでいるということのようでした。彼らにとってはそれは”事件”なのかもしれません。
 しかし徹夜までしていち早く入手したいというその情熱には驚かされます。イベントとして楽しんでいるのでしょうか? 『博士の異常な愛情』という映画がありましたが、さながらゲームへの”若者の異常な愛情”といった観があります。
 などといっている私も、かつてはゲームセンターに入り浸った日々を送り、ついにはゲーム制作会社へ就職した、という過去があります。かつては理解できた感情が、いまは理解できなくなっている。人間は経験によって変わるものだということを改めて思い知らされます。 (2000.3.4)

No.044 『ジャーナリズム論』を読む

 風邪で寝込んで週末を潰してしまい、更新も遅れました。一人暮らしの場合は、病気で寝込まざるを得ないときは大変不安なものですが、幸いなことにいまは家族がいるので助かりました。困ったときの、家族や友人の手助けほどありがたいものはありません。話は変わりますが、本多勝一氏の『ジャーナリズム論』(すずさわ書店)をいま読んでいます。私たちにとっては『日本語の作文技術』でおなじみの本多氏による、ジャーナリズムをめぐるエッセイ・コラム集です。毀誉褒貶のある人でもありますが、文章を書くことに取り組む彼の姿勢には襟を正すような気持ちにさせられます。 (2000.2.28)

No.043 テクニカルライターの生きる道

 テクニカルライターの主な活躍の場としては、パソコン雑誌などのマスメディア、市販の書籍、マニュアル、この三つの分野があります。経験してみるとわかるのですが、それぞれの分野で求められる資質やライティング技術は、かなり異なってきます。例えばパソコン雑誌のライターは、最新情報を伝えるのが雑誌の大きな役割ですから、常にパソコン業界や関連技術の動向に目を配っていなくてはなりませんが、マニュアルを書くライターにとってはそれはあまり重要なことではありません(不要だとは思いませんが)。となると、どういう分野で仕事をしていくかによって、磨くべき自分の技術も違ってくるということになります。これが最近、仕事をしながら実感することです。 (2000.2.20)

No.042 ユーザーサポート

 2月12日の朝日新聞夕刊に「パソコンサポート商売再起動」と題した記事が掲載されていました。パソコントラブルを解決するサポート専門の会社が急増していることや、メーカーのサポートの有料化の動きなどを紹介したものです。サポート態勢が問題になる背景には、パソコンブームで初心者ユーザーが大量に増えていることがあるようです。多くのユーザーがサポートを重視し、メーカーにとってサポートコストが増大しつつある状況は、マニュアルが重視されるきっかけになるはずです。マニュアル制作に携わるものとしては、これを好機と捉えたいところです。 (2000.2.13)

No.041クイックブックスを使う

 会計業務用にクイックブックスプロというソフトを購入しました。「どんぶり勘定どんぶり勘定」と歌うCMをご記憶の方もいらっしゃるかと思います。このソフトの特徴は、見積り書、請求書などをそのソフト上で作成することにより自動的に帳簿が作られていくという簡便さなのですが、実際にはそれなりの会計の知識が必要だということが使い始めての実感です。どんなに優れたソフトでも、魔法のようにすべてやってくれるというわけにはいかないようです。 (2000.2.5)

No.040 税務署のサービス

 源泉徴収のことで税務署に行きました。自分が人に仕事(例えばページデザインなど)を外注する可能性も出てきたので、その報酬の支払いの際に発生する源泉徴収の方法について聞くためです。税務署の若い美男子の担当者は、こちらの質問に丁寧にわかりやすく答えてくれました。僕は気持ちよく帰りかけたのですが、支払い調書の用紙が自由に持ち帰りできるように机の上に置いてあったのを見かけたのでした。支払い調書は、仕事をした年の暮れか翌年の始めに、発注側から送られてくるもので、自分も毎年各社からいただいてきました。それを見て、「自分が外注した場合は、支払い調書も各外注者宛てに発行する必要があるのではないか」と思ったわけです。そのことを先ほどの担当者に尋ねたところ、別の窓口へ案内してくれて、そこで別の担当者(若い美女)から説明を受けさせてくれました。思ったとおり、支払い調書に関する書類作成の必要があったのでした(支払い調書の用紙をくれました)。自分が気が付かなければ、用紙をもらいに再び税務署にこなくてはならなかったでしょう。そういうことについては最初の担当者が、一言いってくれたらもっとよかったのになあと思ったしだい。 (2000.1.29)

No.039 ”珍妙な注意書き”

 今日の朝日新聞に「"傑作"注意書き続々」という見出しの記事がありました。「身につけたままの衣類にこのアイロンをあてないで」とか「このマントは飛行には使えません」など、米国で売られている商品に「珍妙な注意書きが目立って増えてきた」そうです。商品に関する訴訟が増え、メーカーが巨額の賠償金を支払うケースが増えているためだとか。ユーザー保護のための注意書きはもちろん大切ですが、言わずもがなのことまで注意書きにしていったのでは、本当に注意すべきことがその注意書きの山に埋もれてしまい、ユーザーにとってかえって不利益をもたらすような気がします。過ぎたるはなお及ばざるが如しの言葉を思い出しました。 (2000.1.22)

No.038 二人のCEO

 ビル・ゲイツ氏はマイクロソフトのCEOを辞任し、CSAに就任するそうです。CEOって何だっけ? CSAって何? とい思われる方も多いのではないでしょうか。10年前にはほとんど聞かれることのなかった言葉が、当たり前のように使われるようになっています。CEOというのはChief Executive Officerの略で最高経営責任者のことです。CSAのほうは、僕も初めて聞きましたがChief Software Architectの略だそうです。これはマイクロソフト独自の役職名かもしれません。どう訳すのかは知りませんが、ソフトウェア開発の最高責任者ということでしょう。

 一方、長らく暫定CEOだったアップルのスティーブ・ジョブズ氏は、暫定ではない本当のCEOに就任しました。パーソナルコンピュータの時代を代表する二人の人物が時を同じくして、かたやCEOを降り、かたやCEOに就任するということになったわけです。マイクロソフトが明白に敗北を喫してビル・ゲイツ氏の辞任というわけではありませんから、これを「明暗を分けた」と表現するのは妥当ではありませんが、象徴的な出来事のように感じるのは僕だけではないでしょう。数年後に振り返ったとき、これがどういう意味をもっているのか、より明確になっているに違いありません。 (2000.1.15)

No.037 マジックナンバー7

 天才チンパンジーと呼ばれるアイちゃん。平面に散らばって配置された数字の位置と順序を覚える実験で、大人の人間なみの能力を示したというニュースが先日ありました。その記事のなかでマジックナンバー7という言葉が出てきました。たまたま読みかけの本『考える技術・書く技術』(バーバラ・ミント著、ダイヤモンド社)の中で、その概念が説明されています。それによると「人間の頭が短時間で一度に記憶しておける事柄は、せいぜい7つまで」だそうです。どうしてこの話が『考える技術・書く技術』に出てくるかというと、マジックナンバー7の制限は文章で物事を説明する場合にも関わってくるからです。7つも8つもある要素を並列しても相手に伝わらない、整理分類して、例えば3つのグループに分けてやることで、物事は把握しやすくなるのです。「サルにもわかる」という言葉がひところはやりましたが、今回は大切なことをサルに思い出させてもらった、といったところでしょうか。 (2000.1.9)

No.036 新年がなぜおめでたいか

 明けましておめでとうございます。子供のころは、年の明けることのどこがおめでたいのかなどと思ったりもしましたが、大人になってみれば、一年を無事に生き、新しい年を迎えることができたということは確かにめでたいことだということがよくわかります。我が事務所についていうなら、死ななかった、殺されなかった、火事に遭わなかった、盗まれなかった、大きい病気にならなかった、などなど多くのマイナスの出来事が起こらなかった。それが、どうしてめでたくないでしょうか。そういった出来事は世の中にあふれているというのに。今年もそういう平和な一年であることを願いたいものです。多くの人にとって。
 新年早々不吉な言葉を連発して申し訳なったのですが、「おめでとう」という言葉からそういうことを考えました。南アルプスから昇る日の出を長野の帰省先でながめつつ。 (2000.1.1)

No.035 電子グリーティングの普及

 クリスマスカードを何人かの方からいただきました。紙製のカードもあれば、電子グリーティングカードもありました。カードというと紙製のものを郵送なり手渡しなりするのがオーソドックスなスタイルですが、最近はインターネットを利用した電子グリーティングカードが普及しつつあります。
 電子グリーティングカードのサービスを提供するウェブサイトはいくつもあります。そういったサイトで、カードの絵柄を選択し、メッセージを入力し、送り先を指定する。すると、そのサイトから、誰それからのメールが届いてますよという通知がいく。それを受け取った人が、メールに指定されたアドレスをブラウザで表示すると、カードとメッセージが表示されるというわけです。すぐに送れるので、クリスマスならクリスマスの当日に送信しても間に合いますし、切手代もかからない(電話代はかかりますが)。
 インターネットの普及にともなって、このような電子グリーティングカードはさらに普及していくように思います。技術の発展が風俗をも変えていくことの一例でしょう。生活の中のさまざまな局面で、このような変化が起きているに違いありません。いずれにしても、それが人間の生活を、広い意味で、豊かにするものであってほしいと思います。 (1999.12.25)

No.034 言葉の明解さ

 ジョン・レノンの作った歌は、その歌詞の明解で力強いことが特徴だと思います。彼の歌を聴くたびに、明解な言葉の持ちうる力に感銘を受けます。いまの時期なら、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが作ったHappy Xmas(War Is Over)がテレビやラジオから流れることもあるでしょう。この歌のラストに、直訳するなら「あなたが望めば戦争は終わる」という歌詞が出てきます。物事の本質をつかみ単純な言葉でそれを表現した見事な一例ではないでしょうか。
 テクニカルライティングは、音楽や詩の世界とは直接関係はありませんが、言葉の明解さが価値をもつという意味では共通点もありそうです。少なくとも私は、ジョン・レノンのように言葉を使った人がいたという事実に、多少の励ましを感じないではいられません。 (1999.12.18)

No.033 インターネットワールドに思う

 一昨日、幕張で開催されているインターネットワールドを見に行きました。EC(エレクトリックコマース:電子商取引)関連のシステムの展示が目立ち、オンラインショッピングが普及しつつあることを感じさせました。一般消費者向けの展示は、インターネットを絡めた英会話スクール、プロバイダー、株のオンライントレードなど。しかしこういったインターネットビジネスは、まだ緒についたばかりといってもよいでしょう。現在の国内のインターネット利用者数は1千万人台と言われているので、人口の1割程度です。パイの大きさがこの程度では、ECも本格的な普及というレベルからはまだ遠い。誰もが気軽にインターネットでショッピングを楽しむようになるには、あと2、3年はかかるのではないでしょうか。とはいえ、企業側では本格的普及を待っているわけにはいきません。その前に主導権を握らなくては、たちまち負け組みの烙印が押されます。生き残りを目指して熾烈な戦いが始まっているということなのでしょう。 (1999.12.11)

No.032 マニュアル化

 フランチャイズ店を各地に展開している大手古本店チェーン。違う場所にある何軒かを利用したことがあるのですが、店員の丁寧な応対がどの店も同じでした。接客がマニュアル化されていることが見てとれます。ただ、その丁寧さはすこしゆき過ぎのような感じも受けました。接客業において礼儀は過剰なぐらいがよいという考えもあるかもしれません。いずれにせよ、マニュアルが、大勢の人の行動を規定するという端的な事例をここに見るように思います。マニュアルとは、そのようなものにもなりうるということを心しておきたいものです。 (1999.12.4)

No.031 組織とマニュアル

 この二ヶ月ほどで「マニュアル」という言葉の印象はずいぶんと悪くなったような気がします。臨界事故を起こしたJCOの裏マニュアル、神奈川県警の不祥事隠蔽マニュアル、日栄の取り立てマニュアル。こんな時勢の中、「マニュアルを作っています」などと自己紹介したら、どんなふうに受け取られることやら…。
 しかし「マニュアル」という言葉のイメージダウンなどは、瑣末な問題です。上記の事件・不祥事に共通しているのは、組織の中でモラルを見失った人間の姿ではないでしょうか。それこそが大問題です。しかも、それはけっして他人事ではない、自分の立っている場所と地続きの問題であるように感じます。人は多かれ少なかれさまざまな組織と関わって働くもの。常に自らを省みる態度を忘れれば、裏マニュアルの罠に絡め捕られてしまう可能性があるのではないでしょうか。 (1999.11.27)

No.030 マネーを使う

 Microsoft Money2000が届きました。以前のバージョンから、オンラインバンキングや経理の補助を目的として使っていましたが、新バージョンに触れてみて改めて感じたことがありました。それは、「製品には、メーカーや開発者の思想や価値観が反映されている」ということです。製品の良し悪しとは別に、その思想や価値観を触れることに、ちょっとした面白さを感じます。端的な例は「マネー」という製品名でしょう。日本語にすれば「お金」という意味の言葉ですが、それを製品名に使うのはやはり米国的な思想、価値観のあらわれだと思います。このソフトはもちろん日本語化され、仕様的にも日本向けにローカライズされていますが、製品全体に米国的な考え方が満ち溢れているように私は思うのです。ですから、極端な言い方をすると、この製品に慣れていく過程というのは、あたかも米国を旅するような異文化体験であると言えるかもしれません。さすがにそれは大げさですかね。 (1999.11.21)

No.029 言葉の性質

 同じ言葉が、文脈によって異なる意味になったり、受け取る人によって違う印象を与えたりということがあります。その例として「人間的」という言葉があると思います。「彼は人間的な男だ」といった場合、多くの人は「人間的」を「情を解する」とか「感情豊か」という意味に解釈するでしょう。一方、酒やドラッグにおぼれる生活を送る人が「もっと人間的な生活がしたい」とつぶやいたとしたら、人はそれを「理性的」「欲望に流されない」というような意味に受け取るのではないでしょうか。先の例とはかなり違う意味合いになるわけです。言葉にはこういう性質があるということを忘れてはいけないと思います。特にテクニカルコミュニケーターにおいては。 (1999.11.13)

No.028 電話機

 私が使っているPHSでは、PメールDXというメールサービスが利用できます。これは文字メールの一種ですが、1000文字まで書け、インターネットの電子メールとやり取りも可能です。つまりPHSをメール端末として使えるわけです。それを利用して、メールマガジン(メールで配信される雑誌)をいくつか講読しはじめました。
 講読してみると、電車の中でも、信号待ちのちょっとした時間でも、片手でさっと操作して読めるというのはなかなか楽しいです。ノートパソコンや携帯情報端末でメールにアクセスするのに比べて、格段に楽です。もちろんメールを書くとなると、立場は逆転しますが、単にメールを読むだけならこれに勝るものはないように思います。
 お薦めはiモード用やPメールDX用に作られているメールマガジンです。そういうのはiモードやPHSの小さい液晶モニターで読みやすいようにレイアウトされていますので、快適に読めます。まぐまぐでiモードやPメールDXをキーワードに検索すると、そういうメールマガジンが見つかりますので、お試しを。
 このPHSでメールを読む便利さを知ると、携帯情報端末は携帯電話やPHSの発展形のものが一番普及するのではないかという気がします。例えば私の使うPHSは電卓機能、登録した予定時間になると知らせてくれるアラーム機能などを備えています。現状では使いやすいとは言えませんが、音声認識などユーザーインタフェースの発展によって、使えるものになっていく可能性は高いのではないでしょうか。 (1999.11.6)

No.027 進歩は何のため

 週末ではありませんが、気分転換に更新します。先日、元テクニカルライター小田嶋隆氏の「パソコンは猿仕事」(小学館文庫)を読みました。書き下ろしだそうですが、氏がよく書いているコラム的な文章で構成されていて、いつもながらとても面白いのでお薦めします。
 冒頭の「パソコンはビジネスを猿仕事にしてしまった」という一本は、なんだかとても考えさせられる内容でした。「パソコンのおかげで、給与計算の処理時間が半分になったとして、それじゃあ、経理部の社員は、午前中で退社できるかというと絶対にそんなことにはならない。(中略)パソコンが効率化しようとしているのは、業務ではなく、ほかならぬ我々人間なのだ。」(P.10-11) パソコンで仕事は早く終わるようになったが、その分だけ別の仕事をさせられるのだから、人間は全然楽にならないというわけです。
 パソコンのおかげで、自分で年賀ハガキをプリントしたり、インターネットにつないで遠方の人と交流したりといった、それまでできなかったことができるようになったなどのプラス面ももちろんありますが、小田嶋氏の言うこともまた事実です。この背景には、この世の中が競争社会であるということがあるでしょう。他社がパソコンで業務を効率化するなら、自分のところも効率化しないと競争に勝てない。だから、パソコン導入で仕事の速さが倍になったら、勤務時間を半分にするのではなく、同じ勤務時間で倍の仕事をしなくてはならない。
 先日亡くなったソニーの盛田氏が、日本の会社は、欧米に比べ、社員の給与は安いし、余暇は少ないし、サービス残業はある。そんなふうにして安くてよい製品を世界に送り出しても、それはフェアではない、という意味のことを言っていました。その意見に私は大いに共感を覚えました。上記のコラムを読んで私はそれを思い出したのでした。
 パソコンで仕事が早く終わるようになったのなら、そして、もしそれまで残業が日常化していたのだったら、パソコンで仕事が効率化した分だけ残業を減らし、プライベートの時間を増やす、そんなふうにできたらいいですね。パソコンも含め、いろいろな技術の進歩が、人間の生活を豊かにするものであってほしいと思います。そのためには、単に技術を進歩させるだけではなく、技術の成果をどう使うかという知恵が重要になってくるのかもしれません。 (1999.11.3)

No.026 フリーランサーになってみて

 シューティングゲームはステージの終盤になると、四方八方から飛んでくる弾をよけながら敵を攻撃したりアイテムを拾ったりする局面があるのが一般的です。同時並行にいくつものことをやらなくてはならない。そこでパニックに陥ると、たちまちゲームオーバーとなる。フリーランサーとしての生活をはじめてから、自分がそのような局面にあるような気がすることがありました。ジョブを進行させること、営業的な活動をすること、スキルアップのための努力、趣味的活動、健康維持、家庭生活といったもろもろを同時並行に進めていく必要があるからです(正確には、同時並行というより、時分割(タイムシェアリング)方式でいくわけですが)。
 シューティングゲームをやりこんだことのある人ならわかると思いますが、ステージ終盤の敵の猛攻を避けながら自分からも攻めていくのは到底人間業ではないように最初は思われても、何度かゲームを繰り返すうちにそれができるようになっていくものです。要は慣れの問題です。
 フリーランサーとして、この状況に慣れ、ステージをクリアできるようになること。これが、いまの自分の置かれた状況を俯瞰したときに見えてくるテーマのように思います。 (1999.10.30)

No.025 PHSのマニュアル

 H"(エッジ)対応のPHSを購入しました。マニュアルを開くと、若い女性を対象とした製品であり、マニュアルであることが、挿絵の雰囲気などからうかがわれます。気になったのは本文の文字サイズが8ポイントほどの小ささであること。文庫本と同程度の文字サイズなので、目の悪い人には読みにくそうです。主なユーザーとして若い女性を想定した結果、多少文字が小さくても読んでもらえるだろうと判断したのかもしれませんが、小さい文字は目が疲れて読めない、読む気がしないという人は大勢います。それを考えると、この文字サイズはちょっと問題があるのではないかという気がします。ページを増やしたり判形を大きくしたりしてでも文字サイズを大きくするか、文字サイズを大きくした簡易マニュアルを別途用意するなどの対応が望ましい、というのが個人的意見です。 (1999.10.24)

No.024 ナンシー関

 古本を何冊か買い込みました。ナンシー関「なにをいまさら」(角川文庫)が面白かった。彼女の本は数冊読んでいますがどれも面白い。だいたいどの本も、テレビの視聴者としてテレビの世界を辛口に批評する内容なのですが、評論家的な高みからものをいうようなスタンスではなく、あくまで一視聴者としての視点から個々のタレントのあり方に対して深くするどいツッコミを入れるといった具合です。よくここまではっきりと批判(悪口?)が書けるなあと感心するくらいの辛口ぶりがすごい。で、文章の冒頭には消しゴムに彫ったそのタレントの似顔絵のスタンプが押されている。これが笑えるのですね。もっともその人らしい表情が的確にとらえられていて。テレビコラムと消しゴムスタンプという限定された土俵での活躍ではありますが、ものすごい才能を感じます。 (1999.10.21)

No.023 未来

 先日、世界の人口が60億を超えたという記事を新聞で読みました。自分が子供のころ(30年前)に習った世界の人口は確か32億人か36億人だったように思います。筒井康隆のSF小説で「48億の妄想」というのがあり、この48億という部分が未来を表していたものでした。それがいまでは60億ですか。
 子供のころ見たいと思っていた未来。60億という数字をきいて、その未来をいまは生きているのだという感慨を覚えます。パソコンやインターネットの普及など、子供のころには想像もしなかったことが現実となっている一方、日常の生活はあまり変わり映えしない、未来世界らしくないままできているような気もします。再来年には21世紀になるわけですが、自分はどんな生活を送っているのでしょうか。いまとあまり変わり映えしない日々、というのが一番ありそうなことですが、いまより少しでも良くなっているよう日々努めたいものです。 (1999.10.14)

No.022 弱者の視点で

 昨日は私が運営しているある文学系ホームページの仲間が集まって読書会+ホームパーティをやりました。初対面の方も多かったのですが、同じ趣味を持つもの同士、話はすぐに合います。こんな楽しみ方ができるのも、インターネットのおかげです。ビジネスの世界に限らず、趣味の世界においても、人と人とのつながりを広げてくれる、インターネットにはそういう側面があるようです。
 高齢者どうしの、地域を越えた交流においてもインターネットが有効であることが徐々に注目されつつあるようです。インターネットなら外を出歩かずとも自分と同じ趣味の人と知り合い、メール交換などで交流することができるからです。
 しかしパソコンの国内での世帯普及率は、確か3〜4割。パソコンに触れる機会のない方も大勢います。そういう人を「情報弱者」という立場に取り残してはいけないでしょう。図書館などの公共施設でインターネットを自由に使えるようにしたり、パソコンの高齢者割引制度を導入したり、高齢者にも使いやすいパソコンやマニュアルを作ったりと、国・地方自治体・メーカー全体の取り組みが必要ではないでしょうか。私たちマニュアルを制作する側にも、そういう視点が今後は求められるようになるに違いありません。 (1999.10.10)

No.021 インターネットに思う

 インターネットは刺激的です。主催しているメーリングリストで、「勉強会をやろう」と呼びかけたところ、10名ほどの方が賛同してくれ、実現に向けて動き出しています。呼びかけに応えてくれた方たちのほとんどは、私はお会いしたことがありません。それでもこうして賛同してくれ、動き出せるというところに、ネットワークの面白さがあるように思います。言い換えると、積極的に関わっていくことで、インターネットはいっそう面白く、有意義なものになるようです。ホームページを開くこと、掲示板を開設すること、メーリングリストを主催すること、オフ会を開くこと、そうやってインターネットの世界に足を踏み入れるごとに、自分は多くのものを学んできたように思います。いまよりも、もう一歩踏み込んでみること、これを多くのインターネット利用者にお勧めします。 (1999.10.9)

No.020 常識と非常識

 カナダギースが北へ帰るのが見えたとき、われわれはつぶやくだろう、「恐竜が季節移動をはじめた、春なのだなあ」と。−−−これは私が10年ほど前に読んで感銘を受けた本『恐竜異説』(ロバート・T・バッカー著、平凡社刊)の最後の一節です。この本の主張は、一言でいうと「恐竜は絶滅したのではない、鳥に進化したのだ」ということだったと思います。その解説の締めくくりとして前掲の一文が、感動とインパクトを伴って登場するのでした。
 本書の題名に「異説」とあるのは正当な理由があります。恐竜が鳥になったという説は、10年前にはまだ定説ではなく、まさに異説だったからです。しかしいまはどうか。この夏に私が家族と訪れた国立科学博物館では、恐竜と鳥のつながりを定説として紹介していたように見受けられました。
 かつての常識がいまの非常識に、かつての非常識がいまの常識になることがあるのです。みんながそうしているから(そう言っているから)というだけの理由で、それが正しいと信じてしまっていることがたぶんたくさんあるはずです。時代が変わることによって、その間違いが見つかることもあるでしょうし、時代が変わらなくても別の文化圏からみたらその間違いが明らかだということもあるでしょう。
 しかし実生活においては、そうそう常識の根拠を疑ってばかりはいられない。それが現実です。それでも、異説に対して、謙虚に耳を傾けてみるぐらいのことはできるような気がします。そうありたいものだと自分は思います。異説に耳を貸さない、異端を排除する、そんな世の中は住みにくいような気がするものですから。 (1999.10.8)

No.019 裏マニュアルの裏にあるもの

 東海村で臨界事故を起こしたJCOの裏マニュアルの存在を、民主党の鳩山代表が「日本の昨今のさまざまな事件の縮図」と評していました(10月7日付け朝日新聞)。私も同様に感じています。企業ぐるみ、組織ぐるみの犯罪や不祥事が多発しているからです。それはなぜでしょうか。企業・組織の体質や業界の土壌ということもあるでしょう。しかしそれ以上に、個人の道徳観の変化がその背景にあるような気がしてなりません。罪を犯した(あるいは不祥事を起こした)企業を非難すると同時に、自分自身のこともよく省みる必要性が、私たち一人一人にありはしないでしょうか。 (1999.10.7)

No.018 好きな作家

 私が好きな現役作家は大江健三郎、関川夏央、沢木耕太郎の三人ですが、昨日の朝日新聞の夕刊にはこのうち二人、大江健三郎と関川夏央の文章が並んで掲載されており、ミーハーな私としては大変嬉しく思いました。内容はシリアスなものなのですが。
 こうして両氏の文章を並べて読んでみると、それぞれの文体が性質を異にしながらも独自の魅力を放っているということに気づかされます。その魅力に、ファンとしてはウットリとさせられもします。大江氏の文体は、本多勝一氏の「日本語の作文技術」で悪文の例として取り上げられたこともあるくらいで、TC的な意味ではわかりやすい文章ではありません。しかし、複雑な構造をもつ、1センテンスの長いその文体は、独特の角度から情景・心情・状況を描写し、人を酔わせる魅力がある。一方の関川氏の文体は、平明でありながら格調高く、どこかユーモアも感じさせ、どこかハードボイルドな手触りもあり、やはり魅力的なのです。
 悲しい歌を歌っていても、その声が美しければ声に魅了されてしまうということもあるでしょう。同じように、シリアスな内容が書かれていても、その文体に魅了されてしまう、文体から喜びを感じてしまうということもあるように思います。二人の作家の文体を並べて、そんなことを感じた次第。 (1999.10.6)

No.017 ソニーとアップル

 矢野経済研究所によると、99年度のパソコンの国内出荷台数は944万台に達する見込みだそうです。これは前年度と比べて13.7%の増加。不況のなかにあってもパソコン市場は成長を続けているようです。特に個人向けの出荷が好調で、ソニーのVAIOや、アップルコンピュータのiMacがその牽引役となっているそうな。
 ソニーとアップルというと、縁浅からぬ関係です。マックの部品をソニーが製造していたこともありますし、ソニーがアップルを買収するという噂が流れたこともありました。日経の記事によると、資本提携の合意寸前までいったらしい。その両者がいまそれぞれオリジナリティのあるパソコンで個人市場を牽引しているというのは、なんだか楽しい感じがします。いや、ただ、それだけの話なのですが…。 (1999.10.5)

No.016 裏マニュアル

 昨日ほど新聞に「マニュアル」という言葉がたくさん出たことはなかったに違いありません。むろんそれは、東海村の臨界事故 の原因となった「裏マニュアル」のことです。作業時間を短縮する目的で、正規の工程とは違う工程を会社ぐるみで「裏マニュアル」として作り、それに従って数年にわたって業務を行っていたそうな。しかも今回の事故は、その「裏マニュアル」よりもさらに工程を省いたことが原因になっていたとか。マニュアルの存在意義を改めて考えさせられた事件でした。
 新聞記事で知ったことですが、原子力に関わる作業については、マニュアルどおりにやらないと却って手間がかかるように設備を設計するものなのだそうです。つまり、必然的にマニュアルどおりにやってしまわざるを得ないようにしておく。言い換えると、人間を信用しない、人間がマニュアルを読んでくれて、しかもそのとおりにやってくれるということを信じない、そういう前提でシステムを構築するということのようです。これまたマニュアルの存在意義について考えさせられる話だと思いました。 (1999.10.4)

No.015 『インターネットで創る 企画の技術』を読む

 『インターネットで創る 企画の技術』(久保田達也著、インプレス刊)という本を読みました。内容は、新鮮に感じられるノウハウもあれば、すでにインターネットに親しんでいるものにとっては当たり前に思えることもあります。しかし、この本に詰め込まれたノウハウのうちの1つでも「役に立つ」と思えれば、十分買った価値があったと言ってよいでしょう。自分にはそれがあったと思います。
 本の全体を通して感じことは、楽天的に、しかし熱意をもち、しかも誠実に、企画の実現へと向かう著者の姿勢です。これこそが著者の最大の武器のように思えました。天分なのでしょうか。それとも努力の賜物なのでしょうか。 (1999.10.3)

No.014 生死を左右するマニュアル

 東海村で起きた臨界事故について昨日このコーナーで書いたところ、朝日イブニングニュースから事故について意見を求められました。作業員のためのマニュアルが適切な作りになっているのかどうかが気になるということと、マニュアルにも限界はあるだろうから原子力に関わる人はその危険性に対する強い自覚が必要ではないかということなどをお話ししたしだい。
 新しい報道によると、事故原因は、決められた手順を飛ばして作業したことにあるようです。マニュアルに従わなかった、ということでしょうか。マニュアルというものは場合によって人間の生死にかかわるものだということを、今回の事故ははっきりと提示しています。マニュアルを作る側にとって、これは絶対に忘れるべきでない事実でしょう。 (1999.10.2)

No.013 危機管理のためのマニュアル

 昨日、茨城県東海村で大規模な原子力事故が発生しました。半径10キロの住民に屋内退避要請が出るなど、これまでで最悪の原子力事故です。事態は収束に向かっているようですが、改めて原子力の怖さを認識させられた思いがします。どれだけ安全性を確保しても、人間はミスをおかすものなのですから、絶対安全ということはありえないのだと思います。原子力だけではなく、遺伝子操作技術なども新しい細菌を生み出すなどの、危険と隣り合わせのはず。人間は間違うもの、ミスをおかすものという前提で科学・技術を考えなくてはいけないのではないでしょうか。
 マニュアル制作に携わるものにとっても、今回の事故は無関心ではいられません。事故原因は民間ウラン加工施設「ジェー・シー・オー」の作業員のミスの可能性が高いようですが、作業者は「業務マニュアル」または「作業マニュアル」などで作業を学習したはずです。臨界現象についての注意事項は、果たして適切に記載されていたのか。事故が発生したときの対応はマニュアル化されていなかったのか。そんなことが気になります。 (1999.10.1)

No.012 猫の生態

 猫がどういう姿勢で寝るかご存知でしょうか。丸くなって寝る? もちろんそうやって寝ることもあります。しかし実際には猫の寝る姿勢は、非常にバラエティに富んでいます。例えばアシスタントAは、あお向けになって寝ることが多い。大の字です。「猫が大の字になって寝る?」と驚かれる方は、まだまだ世間知らずですな (笑)。そうやって寝る猫はかなりいます。ただ、人間のようにあお向けになって手足を床にベタっとなるほど広げることはできませんから、猫の足は宙に浮いた状態になります。よくそんな格好で寝ることができるなあと感心させられます。
 アシスタントBのほうはまだ若いせいか、ネゾウが非常に悪い。姿勢もいろいろに変わります。丸くなることもありますが、丸くなるのとは逆に体をのけぞらせてスヤスヤと寝ていることもよくあります。後ろ足は右側、前足は左側という具合に体をヒネった状態の場合もあります。もっと小さかった頃は、よくうつぶせになっていました。ウルトラマンが空を飛ぶときのように、後ろ足はまっすぐ後ろ、前足はまっすぐ前にそれぞれ伸ばした状態でうつぶせて寝るのです。
 アニメ、漫画、イラストなどでは丸くなって眠る姿で描かれることの多い猫ですが、事実は必ずしもそうではないのです。たぶん、猫の寝る姿勢以外でも、そんなふうに私たちのもつイメージが事実とずれているということはたくさんあるのでしょうね。 (1999.9.30)

No.011 紙から電子へ

 昨日はちょっと蒸し暑かったのですが、今朝起きたときは寒くて体が冷えてました。それでも「今日の天気メール」によると、神奈川の今日の最高気温は27度という予報です。このメールサービスは、防災気象情報サービスが無料で提供しているもので、毎朝その日の天気予報をメールで知らせてくれるのです。明日の天気予報を夕方に送ってくれるサービスもあります。
 「今日の天気メール」を利用するようになってから、新聞やテレビの天気予報は見なくなってしまいました。一般のニュースやパソコン関係の新製品情報などもメールで受け取るのですが、インターネットで得られるニュースは、ニュースの概要のみだったり、写真がなかったりもしますので、より情報を求めて新聞やテレビを利用することはあります。しかし、もっとメールサービスが充実してくれば、いずれ新聞講読をやめるかもしれません。
 紙のメディアは、転換期にあると言ってもいいでしょう。大仰でしょうか? 実際、僕はすでにパソコン雑誌は買わなくなってしまいました(定期講読しているものはありますが)。たぶん、マニュアルもまた、この転換期のただなかにあるのでしょう。そう思いませんか? (1999.9.29)

No.010 手を使う

 博打でもよいから手を使え、という言葉を開高健の本で何度か目にしたことがあります。釈迦が(いや孔子だったか?)そう言ったとか言わなかったとか。頭で考えすぎ、現実を遊離したところへ考えが進んでしまうことへのイマシメの意味だと、開高健は解説していたと思います。さて振り返ってわが身のことを考えると、はたして自分は手を使っているか。こうしてパソコンのキーボードは毎日のように打ってますが、これはあまり手を使っていることにはならないような気がします。物をつかんだり、持ち上げたり、運んだり、振り回したり、投げたり、叩いたり、なでたり、とそういうのが手を使うことのような気がします。
 自分の仕事に当てはめて考えると、マニュアルを書くにあたってはその製品を自分で使ってみることが大切だということを、この言葉は教えてくれるように思います。実物に触れることができずに、仕様書を加工してマニュアルを作る、そんな仕事もなかにはあります。それではやはり十分気配りの効いたマニュアルにはならないでしょう。これは現実には、よくあることではありますが、それをよしとしてはいけない。実機がなければそれを経験や想像で補うのもまたプロとしての技術ではありますが、可能な限り実機に接するのが原則であることは忘れてはならないでしょう。 (1999.9.28)

No.009 MacとWin

 マックとウィンドウズマシンをつなぐユーティリティソフトWin Mounterを買いました。これをマックにインストールすると、イーサネットで接続されているウィンドウズマシンのハードディスクにアクセスできるのです。以前はCOPSTalkという、ウィンドウズ側にインストールするソフトを使っていたのですが、ウィンドウズ側のシステムをできるだけシンプルにしたくて、Win Mounterに切り替えたのでした。デモ版で動作は確認していたので、問題なく機能しています。便利です。
 また昔話になりますが、最初自分が原稿を書くのに使ったのはマッキントッシュプラスという初期のマックで、これで書いた原稿を納品するのは一苦労でした。フロッピーディスクのフォーマットはMS-DOSと互換性がなかったため、フロッピーディスクでの納品は不可。納品先はパソコン通信がつかえなかったので、メールでの納品も不可。しかたないので、原稿をパソコン通信で自分宛てに送信し、知人の事務所におじゃましてそこのDOSマシンで原稿をダウンロードし、DOSフォーマットのフロッピーディスクに保存して納品、などというアクロバティックなことをしていたのでした。当時と比べると、マックとウィンドウズ間でフロッピーディスクの互換性があり、ユーティリティでイーサネット経由のデータ交換も可能で、どの納品先へもメールで原稿が送れる、という今の状況は夢のようであります。慣れてしまうと、ありがたみも感じなくなりますが。
 と、よくあるパソコンオヤジ談義ではありました。(1999.9.27)

No.008 運動会

 昨日、二人の子供の通う小学校で運動会があり、見に行ってきました。妻がビデオカメラ担当、こちらがスチールカメラ担当と、親馬鹿をやってきたわけですが、グランドを見回すと液晶モニター付きのビデオを持っている親がけっこう目に付きました。デジタルビデオカメラなのでしょうか。時代の変化を感じます。
  かつて8ミリフィルムを趣味にしていたものとして、撮影した映像は編集までやることで面白さがぐっと増大するということを言っておきたいと思います。タイトルを付け、無駄な場面をカットし、BGMを付加する、これにより映像はぐっと魅力を増しますし、そういった編集作業自体もとても面白いものです。もっとも、そういう作業には時間もかかりますから、暇のある人でなければなかなかそこまではできないかもしれません。思い返すと、自分が8ミリカメラの中古を買い、知人達を撮影し、8ミリフィルムを切り貼りし、といったことに熱中していたのは、自分がフリーターをしていた頃のことではありました。 (1999.9.26)

No.007 USBマウス

 マウスやキーボードのように頻繁に使用するパーツの場合、ちょっとした違和感が気になってしまうということがあるようです。自分がノートパソコンにつないでいるUSBマウスは、ボタンのクリック感も気持ちよく、気に入っているのですが、サイズが少し小さいのが唯一気になっています。もう一台のパソコンにつないであるマイクロソフトのインテリマウスは、大きめのナスをヘタから尻にかけて真っ二つに切ったような形になっているのですが、その尻側のふくらみにちょうど手のひらが載るようになっています。それだと手が楽なのです。ところがうちのUSBマウスの場合は長さがだいぶ短く、手のひらはマウスに載りません。その結果、手のひらから先を宙に浮かした状態で、マウスを指でつまむような具合で掴み、操作することになります。それが、なんとなく手を疲れさせる気がするのです。たぶんそのうち慣れてしまうのでしょうけども。 (1999.9.25)

No.006 アシスタントたちの苦悩

 2週間ほど前に家のアシスタントB(メス猫)が発情し、数日でそれが収まったのですが、おとといあたりから再び発情が始まったようです。同居しているアシスタントA(オス猫)のほうは、Bの独特の声に誘われてBにのっかるのですが、いかんせん彼は去勢しているため、コトを行うことができません。前回の発情のときもそうでした。目的が達せられないものだから、アシスタントBのほうもこのように発情を繰り返すのでしょう。なんとかしないとなりません。しかしウェブサイトの冒頭に書く話題としては、ちょっと生々しいですねえ。ま、これは天声人語じゃありませんから、かまいませんね。(1999.9.24)

No.005 解説する伊丹十三

 伊丹十三氏は映画監督として名をなしましたが、著作においても才能を発揮しています。『ヨーロッパ退屈日記』は傑作として名高いですが、先日古本屋でたまたま見つけた『問いつめられたパパとママの本』(中公文庫)もなかなか楽しませてくれました。赤ちゃんはどこからくるの? 空はなぜ青いの? といった子供たちの質問に伊丹氏が答えます。答えに窮したパパとママは、これを読んで対処せよ、というわけです。この本がすごいのは、質問に対して真正面から、科学的に、しかも日常の言葉を使って答えているところです。これは一種の「テクニカルライティング」だと言ってよいのではないでしょうか。読んでいてフト思ったのですが、映画の世界において伊丹十三氏がやったことは、この本の延長線上にあります。ある専門的なことがら、あるいは世間一般には知られていないことがら(葬式の詳細、スーパー経営の裏側、税務調査官の世界、暴力団の世界など)を、精緻な調査に基づいて、わかりやすく娯楽の形で解説する、それが彼の映画だったと思います。彼のモチーフの源流に触れられたような気がして、この『問いつめられたパパとママの本』は収穫でした。 (1999.9.23)

No.004 パソコンの収支

 ノートパソコン用に買ってきたUSBマウスが動かず、ちょっと悔しい思いをしていました。他のパソコンに接続するとちゃんと動くのに、です。ところが、今日ふと思いついて雑誌の付録のCD-ROMに入っていたWin98サービスパック1をインストールしてみたところ、期待どおりUSBマウスは動くようになったのでした。動かそうとあれこれやった私の努力はいったい何だったのでしょうか。思えば、これまでのパソコンライフでこのようなことは何度となくあったような気がします。仕事の効率をアップさせるはずのパソコンですが、無駄な作業もたくさんさせてくれる機械でもあるようです。その収支はプラスでしょうか、マイナスでしょうか? (1999.9.22)

No.003 ジェリー・パーネル

 作家ジェリー・パーネル氏が日経バイトに連載している「混沌の館にて」は面白いです。10月号では「ここまで言うか」と思うほど辛らつにMicrosoftのマニュアルを批判していました。メーカー、制作会社を問わず、マニュアル制作に関わる人にはぜひ読んでいただきたい内容です。自分もマニュアルを作る側の人間として、襟を正さねばという気がしました。(1999.9.21)

No.002 『たったひとりのワールドカップ』

 『たったひとりのワールドカップ』(一志治夫著、幻冬舎文庫)という本を読みました。カズこと三浦和良選手のインタビューを中心にまとめたノンフィクションです。ブラジルでの不遇と成功、日本での活躍、ドーハの悲劇、セリエAへの移籍、ワールドカップ本戦直前の代表落ち、いくつもの困難にぶつかりながらも常に前進を続ける彼の姿が、インタビューから浮かび上がります。正直、励まされる思いがしました。(1999.9.21)

No.001 始まり

 9月も半ばを過ぎ、だんだんと秋らしくなってきましたね。1歳のアシスタントB(猫)の発情も収まり、事務所は静けさを取り戻しました。この時期、「実りの秋」の言葉どおり、大いに仕事を実らせたいものです。(1999.9.20)