伊藤テクライト事務所

コラム

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No.400 便利さとわかりやすさ

皆さんは、パソコンでファイルをコピーするとき、「マウスで右クリックし、コピーする」か「Ctrl+C」を押すか、どちらの操作をするでしょうか。日経パソコン(2008.10.13号)のアンケート結果によると前者が74.4%、後者が25.6%。マウス派が圧倒的に多いのです。

これは示唆に富む結果といえます。スピードからいえばキーボードでCtrl+Cを押したほうが早くて便利です。しかし、ユーザーは不便な方法を選んでいる。これはマウスで右クリックするほうが、表示されるメニューを目で確認して選択できるし、Ctrl+Cというキーの組み合わせを覚えなくてもよいからでしょう(右クリックのほうは、コピー以外にも、貼り付け、削除などいろいろな機能があるので、コピー専用の操作として覚える必要はない)。要するに、わかりやすいということ。特に、初心者の方には便利さよりも、わかりやすさのほうが価値があることと思います。

マニュアルでも、たとえば、小さい文字で情報を詰め込めば、ページ数は少なくなり持ち運びには便利になるでしょうが、わかりやすさという点ではマイナスになりかねません。便利さも大切ですが、わかりやすさを犠牲にしないよう気をつける必要があるそうです。

ところで、ファイルのコピーの方法ですが、私はマウスで右クリックしてドラッグすることが多いのです。ドラッグ後、マウスのボタンを離すと、「ここにコピー」「ここに移動」などのメニューが表示されるので、そこから「ここにコピー」を選択します。この方法が、上記のアンケートで「マウスで右クリックし、コピーする」に含まれるのかどうか、記事からはわかりません。ただ、いえることは、この方法はCtrl+Cよりもかなり不便なのです。ドラッグするということは、コピー元とコピー先の両方のフォルダが見えるようフォルダの位置を配置しなければなりませんから、その手間がかかります。それに、ドラッグの途中でマウスのボタンを離してしまうと、別のフォルダにファイルが入ってしまったりすることもあります。それでも、物を手で移動するかのようなドラッグによる方法が、私にはわかりやすく安心感があるのです。不便であっても。(2008.10.11)

No.399 テクニカルライターの歌

YouTubeを探索していたら"Technical Writer Song"という歌が出てきました。ビートルズの「ペーパーバックライター」の替え歌で、歌詞はテクニカルライターの仕事をちょっと皮肉っぽく表現したもののようです。それをこうして歌にして映像まで作ってしまうのですから、すごいものですね。

 (2008.9.21)

No.398 「コンピュータ」から「コンピューター」へ

マイクロソフトがカタカナ用語の表記のルールを変更するというニュースが話題になっています。カタカナの末尾の長音表記を「1991年6月28日の内閣告示第二号をベースにしたルールへ原則準拠する」というのです。具体的には「英語由来のカタカナ用語において、言語の末尾が–er、-or、-ar などで終わる場合に長音表記を付ける」というもの。これまでであれば「コンピュータ」と表記していたものが「コンピューター」となるのです。以下にいくつか例を挙げましょう(左が従来の表記で右が今後の表記)。

 アダプタ → アダプター

 フォルダ → フォルダー

 プリンタ → プリンター

 ライタ → ライター

多くの人にとって、新しい表記のほうが自然に感じられるのではないでしょうか。一企業の社内ルールの変更に過ぎないと言われればそのとおりなのですが、コンピューターの分野で圧倒的な影響力を持つ会社ですから、その影響は広範に及ぶことでしょう。自然な表記に変更されることを歓迎したいと思います。(2008.7.26)

No.397 仕事は休み休みしろ

パソコン用モニターのメーカーとして有名なナナオが、モニターを使った作業の疲れ目対策を公開しています。結論は、次の3つ。
(1)画面を適度な明るさにする(購入時の設定では明るすぎる場合もあるそうです)
(2)モニターの高さは、視線が正面か少し下向きになる位置にする
(3)1時間ごとに10分から15分の休憩をとる

これらの対策により、目の疲労を防げるばかりでなく、作業効率もアップできるそうですから、ぜひ実施したいものですね。「馬鹿も休み休みいえ」という表現がありますが、仕事のほうも「休み休み」がよいようです。(2008.7.19)

No.396 MY(マニュアル読まない)

日経パソコンに2号続けてマニュアルに関する興味深い記事が載っていましたので一部をご紹介しましょう。まず、2008年5月12日号。「そこが知りたいアンケート」によると、ネットユーザーのトラブルの解決方法は、

1.メーカーのサポートに電話して解決した

2.インターネットで質問したり、検索して解決したマニュアルを見て解決した

3.パソコンに詳しい知人に手伝ってもらって解決した

4.販売店に問い合わせて解決した(以下略)

という順番に多いのだそうです。マニュアルは3番目ということになります。1番目でないのは残念ですが、それなりの存在感は示していると言ってよいのではないでしょうか。

続く2008年5月26日号の「そこが知りたいアンケート」には、ネットユーザーに対する「マニュアルは読む? 読まない?」というアンケートのこんな結果が載っています。

1.マニュアルは読まない

2.難しくて理解できなかった

3.十分な内容ではなかった

4.一度は読むが、その後は使わない

5.日常的に活用している(以下略)

 1が多いのはとても残念なことです。上のアンケートの結果からもわかるように、「マニュアルを見て解決」できる場合も少なくないのですから、ぜひ活用してもらいたいものです。

さて、マニュアル制作者としては、これらの結果をどう受け止めるべきでしょうか。まず、1の「マニュアルは読まない」ですが、とりあえずここではMYと表記しましょうか(KY=空気読めない、の伝なり)。

MYならマニュアル制作者としてはもうどうしようもない、ということではないでしょう。表紙やタイトル、中身のページデザインなどの工夫により、それまでマニュアルを読まなかったユーザーに読んでみようという気を起こさせることもできるかもしれません。また、2や3を経験した結果としてMYになったという人も多いはず。マニュアルがよくなれば、MYも減っていくのではないでしょうか。

ですから、大切なのはマニュアルを手に取ったユーザーに「難しくて理解できなかった」「十分な内容ではなかった」という経験をさせないことでしょう。そうすることによってMYが減り、「日常的に活用している」というユーザーを増やすことができるはずです。マニュアル制作者として努力を続けていきたいものですね。(2008.5.31)

No.395 パソコンマニュアルの最近の傾向

日経パソコン2008年4月14日号の「パソコンサポート最前線」という特集をご覧になりましたか? マニュアル、ウェブサイト、電話相談、修理という4つにジャンルについて、大手パソコンメーカーのサポート内容やその特徴を取り上げた記事です。

それによると、多くのメーカーが他のジャンルの強化や効率化と合わせマニュアルも強化・拡充を図っているようです。

「2007年初頭モデルからマニュアルを強化。ユーザーからの要望が多かったメモリー、HDDなどの交換手順を解説した冊子を添付した。」(ゲートウェイ)

「(液晶テレビと組み合わせて使うユーザーの要望に応えるため*)マニュアルにはリモコンの詳細な解説も付けた。」(シャープ) *筆者注

「マニュアルはWindows Vistaモデルから2部構成とした。パソコン本体のマニュアルに加え、Vistaの操作マニュアルを添付している。」(マウスコンピューター)

「マニュアルはWebページの表示方法、LAN接続ツールの解説など、ネットワーク関連の内容を拡充している。」(松下電器産業)

いずれも、やみくもにマニュアルを増やすのではなく、ユーザーが求める部分を手厚くサポートするという方針のようです。コスト効果の最も高い方法といえるでしょう。

当コラムで何度か取り上げているオフショアについてですが、デルと日本HPの2社が、コールセンターの一部または全部を中国の大連に置いているということでした。思ったほど多くないという印象です。パソコンのユーザーサポートは問い合わせのバリエーションが多いでしょうから、それに対応できる日本語とパソコンのスキルを身に付けた人材を集めるのは簡単ではないのかもしれません。(2008.4.13)

No.394 テクニカルライターが主人公の小説

「ぼくの目下の課題は、この夏中に売り出されるあるメーカーのパソコンのオンラインマニュアルを書くことだ。全体の統合は仕事仲間が担当し、ぼくは割り振られた項目を片っ端から書いていく。マウスの使い方。クリックとは。右クリックと左クリック。ホイールの使い方、等々。完全な初心者が読むことを前提に、平易な表現を心がけなければならず、これがなかなか難しい。」 ―― いかがでしょう、完全にテクニカルライターの言葉ですね。これは川端裕人著の『てのひらの中の宇宙』(角川書店)という小説の一節なのです。

この小説は、フリーランスのテクニカルライターである「ぼく」の視点で、闘病中の妻、幼い二人の子供の4人家族を描いています。大きな出来事はなく、入院中の妻の代わりに子供たちの世話をしながら、「ぼく」は生命のことや宇宙のことを子供たちに話して聞かせ、子供たちは幼いなりにその話を受け止めてゆっくりと成長していく、そんな内容です。

それにしても、テクニカルライターが主人公の小説があるなんて思わなかったなあ。(2008.3.29)

No.393 オフショアに備える

前回に引き続き、コモディティ化とオフショアについて考えてみます。

テクニカルコミュニケーション(TC)の分野のある部分がコモディティ化し、オフショアになることは避けられないことと思われます。実際、コールセンター業務や翻訳業務、一部のマニュアル制作業務は海外の企業の委託されるようになっています。

では、どういう部分がオフショアになるのか。雑誌intercomの2008年1月号の"Don’t Let Your Work Become a Commodity"という記事に、オフショア化する仕事の特徴として次の5つが挙げられています(意訳です)。
・繰り返しが多い
・管理しやすい小さいタスクに分割できる
・タスクの過程は予測可能である(予想外のことは起きない)
・タスクは定型化しやすい
・顧客の近くにいなくても問題ない
すべてとはいいませんがコールセンター業務はよく当てはまるのではないでしょうか。TC関連業務全般でみても、該当するものはほかにもありそうです。また、上記のリストに当てはまらない業務であっても、製品開発拠点そのものがオフショアとなった場合は、関連するTC業務もオフショアとならざるを得ない場合もあるでしょう。開発現場のそばでなければできないものもあるからです。

逆に、オフショアにならない業務はどういうものか。これは上記のリストを反転させたものがその特徴となることでしょう。繰り返しがなく、小タスクに分割しにくく、定義が難しく、定型化しにくく、顧客のそばにいる必要がある、そういった業務です。

これらのことを踏まえて考えると、私たちの進むべき道がぼんやりとながら見えてくるように思います。その内容は置かれているポジションや志向によって異なるでしょうが、言えることは、私たちが関わる業務のうち、オフショアになりやすい部分よりも、そうでない部分のスキルを磨いていくということが大切でしょう。(2008.3.23)

No.392 コモディティ化とオフショア

このコラムでオフショアについて書いたのは2006年のことでした。ライティングの仕事が中国へ流れた、という話です。

オフショアに関連するのですが、最近、「コモディティ」という言葉をよく聞きます。これは、工業製品について、誰が作っても一定の品質が得られるようになり、価格だけが競われるようになった場合に言われる言葉です。要するに日用品化した製品です。コモディティ化すると、あとは価格競争ですから、その製造は安く作れる土地、労働者のところへと流れます。つまり、コモディティ化の結果がオフショアということになります。

このコモディティ化が、最近では工業製品だけでなく、ソフトウェア開発やサービスについても進んでいます。昨年の9月にNHKスペシャルで「人事も経理も中国へ」という番組が放映されたのですが、そこで紹介されていたのは日本企業の人事、経理、総務といった業務の中国企業への委託です。これもコモディティ化であり、オフショアであるといえるでしょう。

さて、我々のテクニカルコミュニケーションという仕事は、どうなのでしょうか。コールセンターでの顧客への対応なども広い意味でのテクニカルコミュニケーションですが、それは中国へのオフショアが進んでいます。翻訳なども、海外の単価の安い企業へのオフショアの事例があるようです。

ただ、このままテクニカルコミュニケーションの全領域がコモディティ化してオフショア化するかというと、そうではないと思います。また、そうならないための方策というのもありそうです。これについては、また次の機会に考えてみたいと思います。(2008.2.10)

No.391 専用と汎用

年末に家人に年賀状を印刷してもらったのですが、そのためにインターネットから宛名印刷ソフトをダウンロード購入しました。最初はワープロソフトを使ってやろうとしていたのですが、使い勝手がよくなく、専用のものを買うことになったのでした。専用ソフトでは、年賀状の印刷は簡単にできました。

改めていうほどのことではありませんが、一つのことをするだけなら、その目的のために作られた良質な専用ソフトは非常に使い勝手がよく、汎用的ソフトはかなわないものですね。

私も、専門家として仕事を請け負っているのですから、「さすが専門家だ、役に立つ」とお客様に思っていただけるよう努力を怠らないようにしたいものです。(2008.1.15)

No.390 今年もよろしくお願いいたします

年末年始に『デッドライン仕事術』(吉越浩一郎著、翔伝社)という本を読んだのですが、考えさせられる内容でした。タイトルからわかるとおりビジネス書なのですが、ベースにはどのように人生を送るのかという視点があるのです。ワークライフバランス(仕事と私生活のバランス)がワークの側に偏りがちな私たち日本人の仕事観・労働観を根本の部分から批判する内容となっています。

ここで述べられている「仕事術」の基本は、残業をやめるということと、仕事にはすべて期限を設定するということの2つ。なぜそれが重要か、それを実行するためにはどうすればよいか、といったことが詳しく解説されています。それは大いに納得できるものでした。私としては、本書の内容を一つの指針にしつつ今年1年をやっていってみたいと考えています。

ともあれ、一日一日を大切に過ごし、終わってみれば良い1年だった、そんな年にしたいものですね。

どうぞ今年もよろしくお願いいたします。(2008.1.4)

No.389 1年間、ありがとうございました

もうすぐ2007年も終わりですね。皆さんのおかげで、今年も1年間無事に仕事をしてこれました。ありがとうございます。

今年は例年の仕事に加え、マニュアルのユーザビリティテストの企画・実施、研修用テキスト作成、講習会講師といった新しい仕事も経験し、仕事の幅を広げることができました。反省すべき点も少なくありませんが、充実したなかなかの1年だったと思います。皆さんにとってはどんな1年だったでしょうか。

来年も、仕事の分野や内容に関わらず意欲的に堅実に仕事をしていきたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。では、よいお年をおむかえください!(2007.12.22)

No.388 望遠鏡としての索引

前回のコラムでは、「目次」は情報のジャングルで迷子にならないための地図だと書きました。マニュアルには膨大な情報が詰め込まれていて、そのなかで迷子にならないために目次という地図が必要なのだという話です。

では、そんな情報ジャングルで「索引」はどういう役割を果たすのでしょう。私は望遠鏡のようなものではないかと思います。望遠鏡は、遠くから目的の場所を探し出すのに役立ちます。同じように索引は、目的の情報を見つけ出すときに便利なものです。

そう考えると、やはり索引も重要なものといえます。ページ数の多いマニュアルなどでは誰も最初から最後までくまなく読んだりはしません。どれだけ重要なことが書かれていても、それを見つける「望遠鏡」がなければ、その情報はユーザーの目に触れないままで終わってしまうかもしれないのです。

情報ジャングルが大きければ大きいほど、地図(目次)と望遠鏡(索引)の存在意義も大きいといってよいでしょう。(2007.11.25)

No.387 目次の重要性

『すぐに役立つ 取扱説明書作成テクニック』(宮田紀世夫著、日刊工業新聞社刊)によると、目次の機能は次の3つ。

・読みたい内容が何ページに書かれているかという検索の機能
・全体に何を書いているか内容を一覧する機能
・内容をどのように組み立てているかという本文の構成を表す機能

この考えに私も賛成です。膨大な情報が盛り込まれたマニュアルは、情報のジャングルです。その中で迷子にならないためには、全体を把握する手がかり、どこに何があるかがわかるもの、すなわち<地図>が必要です。マニュアルの中に入っていくユーザーを助ける<地図>、それが目次といってよいでしょう。

では、目次の中身はどうでしょうか。前掲書は次のように主張します。「読む人がある目的を達成したいという意図をもっているとき、その目的が目次に書かれていること」。目次があっても、そこに並んでいる見出しが、ユーザーのしたいこととマッチしていなければ、ユーザーは目的の情報を見つけられないということです。

たとえば、自転車の変速ギアのことを、その機能を知らないユーザーに説明するとき、「変速ギアの機構」という見出しは適切でしょうか。ユーザーのしたいことにマッチさせるなら「速く走行するには」「坂道を登るときには」といった見出しのほうがよいでしょう。

ほかにも、どの程度まで詳しくすればよいか、どういうレイアウトにすればよいかなど、よい目次にするために考えなければならないことはいろいろあります。おまけのように思われがちな目次ですが、マニュアルを使いやすく役立つものにするうえで非常に重要な役割を担っており、けしておろそかにはできない存在といってよいでしょう。(2007.11.4)

No.386 不思議なマニュアルに思う

出張用に購入したキャスター付きのバッグに、ダイヤル式錠前が付属していました。そのマニュアルがちょっと不思議なものでした。解錠番号の変更手順を説明する内容なのですが、使われている漢字が字形が日本のものと違うのです。おそらく中国のフォントでしょうが、たとえば「変更手順」という文字が

 

字形の異なる「変更手順」

のようになっているのです。「参考してください」といったちょっと変な表現もありました。

自分の作ったマニュアルがこんな具合であれば、青ざめてしまうところです。しかし、こうしてユーザーとして接する限りでは、むしろこのようなものが生まれた過程が目に浮かぶようで、ほほえましいような気さえするのです。そんな気持ちになれるのは、変なところはあっても内容が十分わかり、解錠番号の変更が問題なくおこなえたからでしょう。内容がわからないほど変だったら、不愉快になったはずです。

常々思うのことなのですが、マニュアルで一番大切なのは、ユーザーが読んで内容がちゃんとわかり、わかることで製品を安全に正しく使えるようになる、ということでしょう。体裁や見栄えなどは、そのあとの話。一方で、一番難しいのも、ちゃんとわかるように作るという部分かもしれません。解錠番号の変更手順くらいなら単純なことですが、ふだん私たちに依頼が来るのはもっと複雑なものです。一番大切なことから逃げない覚悟が必要です。

不思議なマニュアルを手に、そんなことを考えました。(2007.10.27)

No.385 マニュアルの満足度

日経パソコン8月27日号に「パソコン満足度調査」という特集記事がありました。ユーザーにアンケートを取り、どのメーカーのパソコンがユーザーの満足度が高いかを調べたもののです。そのなかに「マニュアルの満足度」についての結果もあり、第1位はエプソンダイレクトでした。しかも、群を抜いて満足度が高いのです。アンケートの個別の質問項目である、読みやすさ/分かりやすさ、情報の見つけやすさ、情報量が適切かどうか、これらすべてにおいてエプソンダイレクトが一番高い評価を得ています。

記事では、「エプソンダイレクトのマニュアルは基本的に1冊のみ。困ったときにはそれだけを読めばよい。同社のユーザーは中上級者の比率が高いが、そうしたユーザーのニーズに合致しており、高い評価につながったと考えられる」と分析しています。

エプソンダイレクトのウェブサイトからパソコンのマニュアルをダウンロードし、中身を見てみると、特別変わったことや凝ったことをしているわけではないようです。製品のユーザー層をしっかりと把握し、そのユーザーに向けて奇をてらわずにきちんと作った結果の高評価ということでしょう。

マニュアル作りでは、読者(ユーザー)はどういう人かをまず考えろと言われます。その大切さを改めて思い知らされる調査結果でした。(2007.9.1)

No.384 生煮えの状態で

私は、ある書店の一画で開いた「大江健三郎書店」コーナーの、手書きポップにはこう書きました。「知的修練/文学修業のどちらにも、ブログの文章をエラボレイトしよう」。ブログに自分で書いたものをプリントアウトして、何度も書き直しを重ねていくのが自分をきたえるのに有効だと思いますよ。私に関連する読者のブログも読んで面白い発見はありましたが、ブログという形式の欠点は、まだ生煮えの状態でインターネットに乗せられてしまう、という点じゃないでしょうか。」(新潮社刊『大江健三郎 作家自身を語る』より)

これはインタビューで若者の文体について問われた大江健三郎氏が語った内容です。「エラボレイト」(elaborate)は大江氏がよく使う言葉で、いったん作り上げた作品を繰り返し直してよいものへと仕上げていくことを意味します。

「生煮えの状態で」というのは、ブログに限らず自分自身が書く文章全体についてなんとなく感じていたことですので、ズバリ痛いところを指摘されたという気がしました。エラボレイトすることを心がけたいと思います。(2007.8.12)

No.383 高齢化

「高齢化・少子化」ということがマスコミで問題にされるが、「高齢化」は政治が追及すべき目的でこそあれ、問題視されるべきことではないと、経済同友会終身幹事の品川正治氏が述べています。確かに、国民が長生きできるというのはよいことですし、その結果、人口構成が高齢にシフトするのは当然のことでしょう(際限なく若年人口が増え続けるのでない限り)。統計上の労働力といった観点からは高齢化は問題かもしれませんが、国民一人一人の観点からはむしろ望ましいことなわけです。
ところで、その高齢者の生活に、私たちの仕事に関わりの深い携帯電話、パソコン、インターネットといったIT製品・サービスが深く浸透しつつあります。高齢者が携帯電話を使用するのは日常的な光景となりました。インターネットについては、平成18年には65〜69歳では48%、70〜79歳では32.3%が利用するようになっています(平成19年度情報通信白書)。
このような状況を考えると、IT関連製品やサービスのマニュアルを制作する場合に、利用者の中に高齢者も想定すべき時代となっているといってよいのではないでしょうか。私たちは、わかりやすいマニュアルを作るべく努力しているわけですが、高齢者にとっても 住みやすい社会にするために、「高齢者にもわかりやすいものを」という視点を忘れないようにしたいものです。(2007.7.9)

No.382 ユーザビリティテスト

先日、ある製品と取扱説明書を使ってユーザビリティテストを行いました。こちらで用意したタスク(作業)を被験者にやってもらったのですが、被験者の行動はこちらの予想とは異なるものでした。まったく想定していない箇所で被験者が操作につまづいてしまうということもありました。

想像しているだけではわからないことがわかったわけですから、テストとしては成功だったのですが、自分の想像力の貧困さも自覚させられる結果でした。想像するだけではわからないことがたくさんあるものですね。(2007.6.9)

No.381 パケット代トラブルとTC

「100万円を超えるパケット代が請求される理由」と題された記事が日経パソコン4月23日号に掲載されていました。国民生活センターによると、電話会社から高額なパケット代を請求されたという携帯電話利用者からの相談が増えているというのです。2006年度の相談の請求金額は平均で約16万円。公開されている事例には、こんな恐ろしいケースも。

就職活動に利用するために、パソコンと携帯電話を繋いでネットに接続し、情報のやり取りを頻繁に行っていたところ、電話会社からパケット料金が120万と高額になっていると連絡が入った。半年前にパケット定額制の料金プランに変更していたので、パケット通信は使い放題だと思い利用してしまった。(20歳代 女性 学生)

2006年度の携帯電話サービスの相談は4757件で、そのうちパケット通信に関するものは754件。相談するのは一部の人と考えられるので、実際にトラブルに遭遇した人の数はその何倍もいることでしょう。

原因としてユーザー側の不注意はもちろんあるわけですが、これだけトラブルが発生していることを考えると、サービスを提供する側の責任も問われてくるのではないでしょうか。サービス提供者は、広告、販売時の説明、ユーザーインターフェースそのものなど、さまざまな場面でユーザーに注意を喚起すべきだと思います。

そのなかにマニュアルが含まれるのはいうまでもありません。頻発しているトラブルに関しては、単に注意文を記載するのではなく、その注意がきちんと機能するような場所、表現方法を工夫する必要があります。テクニカルコミュニケーション技術の発揮のしどころではないでしょうか。(2007.4.22)

No.380 ファックス

ファックスとスキャナの機能も備えるプリンタ複合機を仕事で使っているのですが、考えてみるとファックス機能についてはしばらく使っていません。最後に仕事でファックスを使ったのは、2年くらい前ではないでしょうか。もっと以前なら、資料を送ってもらったりこちらから原稿を送ったりするのにファックスは欠かせない通信手段でしたから、隔世の感があります。
ファックスの担っていた役割をいま果たしているのはメールとFTPです。資料はPDFやWordファイルなどで送られてきますし、こちらも校正紙に赤字を書き込むような場合はタブレットでPDF上に直接指示を書き込みます。入ってくる情報も出ていく情報も、どちらも電子化されているので、メールやFTPでのやり取りが可能です。
10年前なら私たちの仕事にファックスは必須の道具でしたが、いまはもしかしたらファックスなしでも問題ないかもしれません。どうしても必要な場合はコンビニのファックスを使うという手もあります。名刺にファックスの番号はもはや不要かもしれません。10年でこの様変わりですから、10年後はどうなっているのでしょうね。(とはいうものの、これは私たちの業界だけの話で、世間一般ではまだまだファックスは活躍しているものと思います。)(2007.3.18)

No.379 メールで失敗しないために

メールは、私たちの仕事に欠かせないコミュニケーション手段ですが、気をつけなければ思わぬ失敗を招いてしまうこともあります。私自身、いろいろな失敗をしてきましたが、その反省に基づいて次のようなことに気をつけるようになりました。

 

<重要なメールには返信を出す>

返信を求められているメールでなくても、重要な内容のメールであれば返信を出します。送信者は、出したメールは読まれているものと思い込みがちですが、現実には、メールは読まれずに放置されているかもしれず、あるいは迷惑メールとして削除されてしまっているかもしれず、また、届いてすらいないかもしれないのです(稀にそういうこともあります)。ですから、出す側についていうなら、重要なことはメールではなく会って話すか電話で話すべきだということになりますが、メールの受け手としてすべきなのは「メールは読みました」と相手に伝えることになります。相手に安心感を与えますし、ふだんからそうしておくことで、相手は返事がないときはメールが読まれていない・届いていない可能性があるということを知ることができます。

 

<用件のわかる件名をつける>

内容がわかるような件名(題名)をつけろ、というのはよく言われることですが、現実にやり取りされているメールでは必ずしもそうなっていません。よくあるのが、ある用件のメールに別の用件のことを「ついでに」書き加えてしまうことです。2つの用件がつながりの深いものであるなら別ですが、そうでないと、ついでに書き加えた内容のほうがメールの山に埋もれてしまいかねません。違う用件は別のメールに書くほうが安全です。

件名を変えずにメールのやり取りを続けるうちに、内容が件名とは関係ないものになってしまうというケースもよくあります。趣味の話をしているのなら問題ありませんが、仕事でのやり取りであれば、件名をつけなおすなどして、件名と内容が対応するようにしておいたほうがよいでしょう。

 

<引用は見やすく、必要最小限に>

まず、引用と自分の書いた部分とが明確に区別できるようにするのが基本です。一般的には、引用部分は「>」などの引用記号が使われます。メールソフトによってはHTMLの書式で引用を区分するものもありますが、相手のメールソフトによってはテキストに変換され書式は消えてしまうので、あまりよい方法ではありません。

不要な部分まで残して長々と相手のメールを引用し、そのあとにちょこんと自分の文章を書く、というのもあまりよいやり方ではありません。そこに文章が書かれているということが相手に見つけてもらえない可能性もあります。

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仕事では、効率よく確実に内容を伝えることが重要ですから、メールもそのことを念頭において書くべきだと思います。そのためには、メールの受け手のことを考える必要があります。想像力を働かせて、メールが読まれる場面をイメージすれば、上記のようなことは自然となされるのではないでしょうか。(2007.2.10)

No.378 マニュアルのユニバーサルデザイン

年齢や障害の有無などにかかわらずできるだけ多くの人が利用できるようデザインすることをユニバーサルデザインといい、多くの製品がそのようなデザインを採用するようになっています。

マニュアルの場合も、できるだけ多くの人に利用してもらえたほうがよいわけですから、ユニバーサルデザインの考え方は有効です。例えば、視力の低い人は11ポイントの文字は読めても8ポイントだと読めないかもしれない。視覚障害のある人は、画面内の赤い囲みがよく見えないかもしれない。これらの問題は、マニュアルの作り次第で解決できることです。ユニバーサルデザインの知見は、私たちにその手がかりを提供してくれるはずです。

出版のユニバーサルデザインを考える』(出版UD研究会編、読書工房刊)という本を読んだのですが、出版物を利用するえで妨げになる障害としてどのようなものがあるか、どうすれば出版物が利用しやすくなるか、といった情報が詰まっていました。マニュアルのユニバーサルデザインを検討するうえで参考になる本です。(2007.2.2)

No.377 コミュニケーションリテラシー

前回のコラムでは、雑誌で知った「アクティブリスニング」 という言葉を紹介するとともに、コミュニケーションに対してアクティブであることが仕事をするうえで大切だということを書きました。今回もそのコミュニケーションに関連するお話です。

前回書いたのは、コミュニケーションの不全によって起こるトラブルが多いから積極的にコミュニケーションを図るべきだということなのですが、考えてみると、積極的な気持ちを持っていたとしても、どういうときに誰とどういう方法でのどういう内容のコミュニケーションが必要かという判断には、経験や技術も必要のように思われます。たとえば、ある情報の伝達の必要があったとき、メールを送る、電話する、会って話すなどいくつかのやり方がありますが、どれを選べばよいかは、内容や状況によって判断しなければなりません。ある人はメールで十分と思うかもしれませんが、会って話さなければならないケースもあります。そういういった判断を正しく行うのに、経験と技術が必要ではないでしょうか。

言ってみればそれはコミュニケーションのリテラシー(素養)ということでしょう。社会人としてコンピューターやインターネットなどを使いこなす能力が必要だという意味で、情報リテラシー、メディアリテラシーなどという言葉がよく言われますが、それ以上に、人とのコミュニケーションを上手に行うリテラシーが重要であるように思います。その力を養うには、広い意味での教育(学校教育ばかりでなく、企業の新人研修やOJTなども含む)が必要でしょうし、社会経験の積み重ねも大切だろうと思います。

最近、コミュニケーションについてそんなことを考えます。(2007.1.21)

No.376 アクティブ・リスニング

最近「アクティブ・リスニング ( active listening )」という言葉を知りました。日経コンピュータ2007年1月8日号の「ITマネジャが知っておくべきコミュニケーション術」(田中淳子氏)で紹介されていました。意味は、「意識して積極的に相手の話に耳を傾けること」だそうです。これが聞き上手になるうえで必要な態度ということです。記事では、(1)「聞く」態度を明確に示す(2)最後まで割り込まずに聞く(3)相手の話をまず受け入れる、という3つの原則を示し、具体的なノウハウについても紹介しています。

私たちの仕事は、製品のユーザーあるいは読者とのコミュニケーションに関わるものですが、その仕事の過程でもコミュニケーションが重要であることは言をまちません。コミュニケーションなしには成り立たないといってもよいでしょう。

そのことを多くの方がわかっていながら、現実にはさまざまなトラブルがこのコミュニケーションの不全により起こっているのではないでしょうか。私たちは、コミュニケーションに対して、意識的であり積極的であるよう務めるべきかもしれません。その一助として、アクティブ・リスニングを心がけるのは有効であろうと思います。

アクティブ・リスニングは聞くときの態度ですが、むろん話すほうも大切です。さしずめ、アクティブ・スピーキングということになりますでしょうか。話すときにも、必要な事柄を積極的に伝えていくことや、中身がきちんと相手に伝わるよう意識的であることが大切だと思います。

アクティブ・リスニングとアクティブ・スピーキング、ともに心がけたいものです。(2007.1.10)

No.375 謹賀新年

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

さて、新年早々、マニュアルのお世話になる機会がありました。クローゼットの組み立てです。子ども用にクローゼットを購入したのですが、それは安価な代わり、組み立ては自分で、という方式のもの。開き戸や引き出しもあるタイプなので、部品や金具の数も多く、組み立て作業はけっこう複雑そうでした。そういうわけで、添付の組み立て手順書に頼りながらの作業となりました。

うまくいくか最初は少し不安でしたが、作り始めると順調に作業は進みました。マニュアは3枚ほどの紙の表裏にイラストと文章による説明が示されたシンプルなもので、なかなかわかりやすいものでした。うまくいかず考え込んでしまう場面が1、2度あったのですが、それはマニュアルどおりにやっていなかったため。ちゃんとマニュアルどおりにやっていれば避けられたことでした。クローゼットのユーザーとなる息子の協力を得ながら1時間ほどかけて完成させることができました。

説明どおりに作業し説明どおりの結果が得られるというのはどこか気持ちのよいものです。マニュアルがきちんと役割を果たすことで、読者に喜びを提供することができうるわけですね。仕事ではマニュアルを作る側ですが、こうして使う側に回ることで、マニュアルの価値を改めて感じることができます。マニュアルはユーザーに頼りにされる存在であること、喜びを提供することすらできること、そのことを忘れないでいたいものです。

新年の作業から、そんなことを思いました。(2007.1.2)

No.374 Windows Vista

すでに企業向けの出荷の始まっているWindows Vista。来年1月30日には店頭販売も始まります。セキュリティ強化やユーザーインターフェースの変更など、現行OSであるWindows XPとはさまざまな点で異なるWindows Vistaですが、言葉を扱う私たちは漢字コードの変更についても留意したほうがよさそうです。

Windows XPで採用されていたJIS90と比較すると、Windows Vistaで採用された規格であるJIS2004(正式にはJIS X0213:2004)では一部の漢字の字形が変更になり、また、「新たに906の漢字、約200の記号や発音記号」が追加されているのです(日経コンピュータ12月25日号)。字形変更はよいとして、問題なのは追加された文字です。追加された文字をWindows Vistaで入力し、それをWindows XPで表示しようとすると、文字化けしてしまう場合があるのです。

具体的にいうと、「叱る」の「叱」、「剥脱」の「剥」などが該当します。ただし、従来の文字はそのままに、字形の多少異なる文字が新たに追加されたかっこうなので、従来の文字を使っていれば問題ありません。「しかる」をWindows Vistaのインプットメソッドで変換すれば、従来の漢字も新しい漢字も変換候補に現れますが、新しい漢字のほうには「環境依存文字(unicode)」と表示され、他のOS環境では正しく表示されないことがわかるようになっています。

多かれ少なかれOSの移行期にはこういった問題は起きるもの。どういうことが起こりうるか事前に調べ、上手に移行したいものですね。(2006.12.23)

No.373 IT業界は新3K?

「IT業界は今、“キツイ、帰れない、給与が低い”の3K職場の代名詞」――日経コンピュータ12/11号に掲載されている「30代が最も低い仕事の“やりがい”」という記事にこんなくだりがありました。いわれてみれば、「キツイ」「帰れない」の2Kについては確かによく話を聞きます。それに加えて「給与が低い」ですか。IT業界といえば、時代の先端を行く華やかな世界で、給与も悪くないというイメージがかつてはありましたが、いまや必ずしもそうとはいえないのが実情なのかもしれません。

新3Kであっても、仕事に対するやりがいがあれば人間はがんばれるものですが、同記事によると「ITエンジニアのおよそ4人に1人(25.3%)が」仕事にやりがいを感じていないというのです。しかも、「リーダー役としての活躍が期待される30代後半の士気が、最も下がっている」。記事では、従業員満足度に詳しいコンサルタントの意見として、30代の士気低下が顕著なのはIT業界だけで、「このままでは業界全体の活力が失われる」という声を紹介しています。業界全体にとって深刻な事態といってよいのではないでしょうか。

新3Kを脱却し、労働者がやりがいを感じられるようにするにはどうすればよいのか。これは簡単に解決できることではないでしょうが、業界全体、個々の企業、そして働く個々人のそれぞれのレベルでの対応が必要でしょう。また、その土台には、働く個人に対する敬意が欠かせないとも思います。個人を道具やロボットのように考えていたのでは、永遠に解決しないことでしょう。(2006.12.12)

No.372 職業について畏れを持つ

作家の大江健三郎氏が毎日新聞のインタビューで次のように語っています。

「畏怖(いふ)する、という言葉があるでしょう。僕は、あらゆる職業の人間が、その自分の職業についてね、基本的な人間として畏(おそ)れをもたなければならないと思っています。」

これは政治家の姿勢を問う文脈で述べられている言葉ですが、大江氏のいうとおり「あらゆる職業の人間」に当てはまることだと思います。

職業というのは、誰かが自分を信頼してくれたからこそ与えられるものですから、職業に就く者はその信頼に応える義務があります。そしてまた職業というのは、社会を構成する仕組みの一端を担うものですから、社会に対する責任も伴います(極端なケースを言えば、取扱説明書のミスが人命に関わることもあるのですから)。

そういったことを考えるなら、職業についての畏れの気持ちは自然と起きてくるものではないでしょうか。自分の職業について畏れをもつべきだという大江氏の言葉を忘れないようにしたいものです。(2006.12.5)

No.371 「予想外」について

「想定外」という言葉が流行したのは昨年のことでしたが、テレビCMの影響で最近は「予想外」という言葉を聞くことが増えてきました。だから、というわけではありませんが、たまたま仕事で予想外の出来事が続き、ひとつ思うことがありました。

何にしろ対価の生じる仕事というのは、多かれ少なかれ困難があって、それを乗り越えることによって成し遂げられるものだということです。困難であるからこそ、その達成に対して対価が支払われるわけです。困難なく楽しく達成できることであれば、お金をもらえなくてもやる人がいることでしょう。やっかいだから人にお願いする、そこで仕事が成立するのです。

その困難さの中には、予想外の事態が生じて物事が予定どおりに進まない、ということも含まれるでしょう。特に私たちの仕事は、ドキュメントというものを作り上げていく一種の「ものづくり」です。けしてシンプルな作業ではありませんから、その過程ではさまざまなことが起こり得ます。つまり、さまざまな事態によって仕事が予定どおりに進まないことをある程度は予想し、覚悟しなければならない。そして、実際にそのような事態に遭遇した場合は、より建設的に前向きに、すなわち顧客の満足とキャリアの発展に繋げるべく対応していく。

仕事に対するスタンスとしてそれが大切だと思う今日この頃です。(2006.11.25)

No.370 「長押し」について

携帯電話などでボタンを長く押す操作のことを「長押し(ながおし)」といいます。多くの方がご存知のことでしょう。携帯電話は少ないボタンでさまざまな機能を行わなければならないので、通常の押し方(押してすぐ離す)に加え、長押しという操作が用いられるようになったものと思われます。

さて、「長押し」はかつては存在しなかった言葉のはずです。少なくとも私は携帯電話が登場する以前には聞いたことがありません。おそらく、区別の必要に迫られて生まれた一種の技術用語・専門用語でしょう。それが携帯電話の普及にともなって(おそらくはマニュアルなどで使用されるようになったこともあって)、一般にも使われるようになってきたのではないでしょうか。

そんな造語でありながら「長押し」という言葉は日本語のなかで妙にしっくりときます。「ながおし」という語感からは、なんだか平安時代あたりからある言葉のような落ち着きが感じられるのです。「長雨」「長居」「長生き」「長丁場」など「長(なが)」で始まる言葉が日本語にはたくさんあって、その系列の最後尾に「長押し」という言葉が自然に収まるからなのでしょう。

技術用語のようなものでも、必要性があり、馴染みやすい言葉であれば、自然と普及していくものなのかもしれませんね。(2006.11.22)

No.369 日経コンピュータ

お試し購読ということで、雑誌「日経コンピュータ」が届きました。日経パソコンとどう違うのか、というのが日経パソコンの読者としてまず知りたかったことです。それは読んでみてすぐにわかりました。

日経パソコンは、初級や中級の個人が家庭でパソコンを使いこなすうえで参考になる情報を提供する雑誌です。WordやExcelなどの使いかた、インターネットの新しい個人向けサービス、パソコンや周辺機器の売れ筋紹介や比較、そんな記事で構成されています。それに対し日経コンピュータは、企業のなかで基幹業務にコンピュータを使っている人やそういう製品を開発する人が対象のようです。記事のほとんどは企業レベルの事柄についてでした。

日経BP社には、日経パソコンや日経コンピュータのほかにも、日経PC21、日経PCビギナーズ、日経ベストPC+デジタル、日経WinPCなどのPC関連雑誌があるようです。休刊となってしまいましたが、日経バイト、日経Windowsプロという雑誌も以前ありました。各誌にどのような違いがあるのか、名前だけからではよくわかりませんね。「名は体を表す」という言葉がありますが、雑誌の場合は当てはまらないようです。(2006.11.4)

No.368 DVDメディアの寿命

日経パソコン9月25日号の「DVDは百年もつか」は興味深い記事でした。私たちがデータの保存に使うDVD-R、DVD-RW、DVD-RAMといったメディアには寿命があり、短いものでは9年しかもたないというのです。しかも、粗悪品では、新品であっても発生エラー頻度はもう基準オーバーとなっている場合もあるとのこと。

アナログ時代の記録メディア、たとえばカセットテープなどは、大切な音源は高いテープに録音するというように、値段と品質が比例するという感覚で利用していましたが、デジタルの場合は値段は無関係で安いものでも問題なしと思いがちではないでしょうか。どうやらそうではないのです。

日経パソコンの調査によると、メーカーによる差は大きいものの国産品ならばいずれも最低限の基準はクリアしているが、短いものでは寿命は9年。海外製品にはそれすらクリアできていないものもあり、一見データは保存できたようでも、正しくデータを読み出すことができないこともありえるのです。

取引先とのデータのやり取りや納品データのバックアップなどに使われるDVDですが、大切なデータや長期間保存したいデータの場合は、国産品を使うことを心がけたほうがよさそうです。それと、ドライブメーカーの指定するブランドのメディアを使うことも重要なようです。こういったことを気にせず使えるメディアであってほしいものではありますが。(2006.9.24)

No.367 サポートランキング

日経パソコン8月28日号に「サポートランキング2006」が掲載されました。これはパソコンメーカーのサポートの良し悪しをユーザーアンケートによってランク付けするというもので、今回で8回目となります。評価の対象は、Web、電話、修理、マニュアル、メールという5分野からなっているのですが、私たちテクニカルライターとしてはもちろん「マニュアル」の項目が見逃せません。

今回、この企画に参加している企業は11社。その企業のランク如何に関わらず、この企画に参加した企業には大いに敬意を払うべきだろうと思います。彼らはリングに上がって白黒をつける勇気があるわけですから。また、このアンケートの結果を見るにあたっては、アンケートに答えたユーザー層に偏りもあるということを知っておく必要があります。アンケートに回答する人はそれだけサポートについて意識の高いユーザーと考えられます。回答者の平均年齢が44.6歳、パソコン利用歴11.3年、男女比が4:1といったデータを見ても、今回の調査結果が、例えば初めてパソコンを使うというユーザーには必ずしも当てはまらないということがわかると思います。

といったことを踏まえつつ調査結果に目をやると、マニュアル分野でのランキングは、1位シャープ、2位NEC、3位エプソンダイレクト、4位富士通、5位レノボ・ジャパン。シャープは昨年の4位からのランクアップ。すばらしいです。大変な努力があったものと思います。NECは昨年の1位から2位へ、エプソンダイレクトは2位から3位へそれぞれランクダウンですが、ベストスリーを維持しているのは立派です。

大変手間のかかる記事だとは思いますが、サポートランキングはサポートの質向上のうえで価値はとても大きいといえるでしょう。日経パソコンには今後もぜひ続けてほしいものです。(2006.8.27)

No.366 オフショアリング

継続して受注していたライティングの仕事が、制作も含めて中国に発注されることになりそう…。そんな話を知り合いのライターから聞きました。理由はもちろん低コスト。水の低きに流れるがごとく、コストの低いほうに発注が流れるのは自然なことかもしれません。
仕事がインドや中国など外国に発注され、国内で仕事が減ってしまう――そういう現象のことを米国ではオフショアリングというそうです。ソフトウェア開発の分野で始まったことですが、マニュアル制作関係でも印刷や他言語翻訳が海外に発注されることはすでに珍しいことではありません。日本企業のコールセンターが中国の大連に置かれるというケースも増えているようです。しかし、日本語のライティングまでも海外委託されてしまう状況には少々驚きを感じます。
もちろん、日本語のテクニカルライティング業務が一気に海外へと流れることは考えにくい。対象製品の種類にもよりますが、多くの場合、この仕事では顔を突き合わせての打合せや製品を前にしての取材が欠かせないからです。ただし、テレビ電話会議の普及などによって状況が変わる可能性もあります。いつ発注者が海外委託を検討するかもしれない。そういう時代にいるということを忘れず、海外委託では得られない付加価値やサービスを提供するにはどうすればよいかを考え続ける必要がありそうです。(2006.7.15)

No.365 ADDIEモデルをマニュアル制作に当てはめてみる

教育活動の効果・効率などを考える研究分野としてID(インストラクショナル・デザイン)というものがありますが、その成果の一つとしてADDIEモデルがあります。教授方法を開発するための手法です。

Analysis:問題の所在の分析
Design:教育の設計
Development:開発
Implementation:実施
Evaluation:評価・改善

それぞれの頭文字を取ればADDIEとなります。

さて、マニュアルというのはユーザーが製品の使いかたを学習するためのテキストと考えることもできますから、マニュアルの制作にADDIEモデルを当てはめてみることもできそうです。

Analysis:製品とユーザーの分析
Design:マニュアルの設計
Development:マニュアルの執筆・制作
Implementation:ユーザビリティテスト
Evaluation:評価・改善

といった具合でしょうか。うまく当てはまっているという感じがしませんか? Implementationは製品リリース後の実際のユーザーによるマニュアルの利用とし、Evaluationを改版や別の製品のマニュアル制作に向けたもの、と考えてもよさそうです。

ところで、Authorwareを開発したマイケル・アレンは、ADDIEモデルのプロセスを3回繰り返して製品を開発していく「3段階連続接近法」というのを提唱しているそうです。製品が完成してから評価するのではなく、途中段階でプロトタイプを作り、それでもってユーザーによる評価を行うのです。それを3回繰り返して製品を完成へともっていくわけですから、これはかなり効果的な手法だと思います。

ここまで書いてきて思うのは、マニュアル制作ではコストも時間も限られていて、ADDIEモデルを適用するようなことはなかなか難しいだろうなということ。ましてや、3段階連続接近法は…。とはいえ、コストも時間も限られているのはどの分野も同じ。そのなかでも工夫してやっていく努力が必要なのかもしれません。完全な実施は無理でも、分析→設計という工程や評価・改善という工程の存在をきちんと意識し、可能な範囲で実施していくだけでも、マニュアルの改善に資するところはあるのではないでしょうか。(2006.6.3)

No.364 SPコードについて

最近、「SPコード」というものを知りました。これは一言でいうと、文字情報(約800文字まで)を縦横18mmのサイズで二次元コード化したものです。二次元コードというのは、白と黒の点の配置によって情報を表現するしくみで、携帯電話でよく利用されているQRコード を思い浮かべていただくと早いでしょう。SPコードの場合、それによって800文字までの文字情報をコード化します。SPコードは、専用の装置に読み取らせて読み上げさせることができます。例えば印刷物の隅に、そこに書かれている文字情報を収めたSPコードが印刷されていれば、目の不自由な方でも読み取り装置を使ってそれを「読む」ことができるようになります。

目の不自由な方向けの文字情報の表現方法としては点字もありますが、点字は点の位置を示す凸部が必要ですしスペースもそれなりに取りますから、簡単に印刷物に載せることはできません。それに対し、SPコードは紙に簡単にプリントでき、しかも切手ほどの狭いスペースに800文字もの情報を収められるのです。

SPコードは、公式サイトで無料で配布されているソフトウェアで簡単に生成できます。これはWord上で動作 します。ボタンをクリックするだけでWord上の文字情報がSPコード化され、グラフィックデータとしてページ上に貼り付けられます。このグラフィックデータはDTPソフトなどにコピーすることもできるので、各種の印刷物に載せるのも容易です。公式サイトによれば、すでに銀行のパンフレットなどでSPコードは使われ始めているとのことです。 薬剤師をしている私の知人の場合は、薬の情報をSPコードにして薬袋に貼り、目の不自由なお客様に渡しているそうです。

さて、さまざまな用途が考えられるSPコードですが、マニュアルにも利用できそうです。 マニュアルの場合はイラストが多用されているなどの事情があるので、そのまま全ページをSPコード化するのは難しいかもしれませんが、重要な情報(使用上の注意など)のページだけでもSPコード化しておくのは有意義と思われます。ユニバーサルデザインやバリアフリーを意識した製品 のマニュアルを制作されるという方は、SPコードの使用を検討されてみてはいかがでしょうか。(2006.5.14)

No.363 無線LAN

私はマンション住まいなのですが、無線LANを使い始めてから、アクセスポイントの電波が他の家庭からも届いていることに気づきました。無線LANの設定画面をパソコンで開くと、我が家に設置してあるアクセスポイントのほかに、2つか3つくらいアクセスポイントの名称が表示されるのです。両隣の家庭や上下の家庭のアクセスポイントなのでしょう。1つは我が家のアクセスポイントよりも電波が強いことすらあります。無線LANの電波はマンションの壁など通り抜けてしまうようです。
さて、そういう電波状況の我が家ですが、先日、こんなことがありました。高校生の息子がアルバイトを始め、そのバイト代でPSP(プレイステーション・ポータブル)を買ってきました。これは無線LANの機能が内蔵されているのですが、その設定の様子を見ていたら、隣の家庭のものと思われるアクセスポイントに接続するよう設定していたのです。あわてて、我が家のアクセスポイントはそれではないことを教え、設定を変更させました。隣家のアクセスポイントを利用したからといって、たぶん隣家の通信料金が増えるということはないでしょうが、隣家でのインターネットの通信速度を遅くしてしまう可能性はありそうですから、やはりそれは避けるべきことと思われます。
言われなければ息子は隣家のアクセスポイントを使っていたでしょう。もしかしたら、そんなふうに気づかないうちに別の家庭のアクセスポイントを使ってしまっているというケースは、けっこうあるのかもしれません。マニュアルにもそういう事態についての注意書きはなさそうです。皆さんのところでは大丈夫でしょうか?(2006.4.22)
 

No.362 ブラポル

外国語への翻訳が関係する仕事の打ち合わせで、 翻訳のコーディネーターが「ブラポル」という言葉を使っていました。「ブラポル?」と尋ねたら、「ブラジルのポルトガル語」ということでした。対して、ポルトガルのポルトガル語は「イベポル」(イベリアのポルトガル)と呼んでいるそうです。

ポルトガル語は、ポルトガルで使われているものとブラジルで使われているものとでは違うのですね。知らなかった。単に発音やイントネーションが違うといったレベルではなく、翻訳する場合に区別が必要なくらいには違っているということらしい。想像ですが、日本語の標準語と関西弁くらいの違いかもしれませんね。(2006.4.15)

No.361 路上のカクテルパーティ

若い頃のことです。彼女との待ち合わせ場所に着いたとたん、人ごみの中から現れた彼女から声をかけられ、「あなたって目立つわ。すぐにわかった」と言われたことがあります。自分は目立つタイプではありませんし、特別目立つ服装をしていたわけでもないので、そう言われたことが少し不思議な気がしたものでした。

それからしばらくしてのこと。今度は自分が雑踏のなかで人を待っているときに、他のカップルが同じようなことを話しているのを聞きました。あとからやってきた男性に対し、そのガールフレンドと思われる女性が、「あなたは目立つからすぐ見つけられた」と言っていたのです。しかし、見るとその男性は私に負けず劣らず地味な風貌で、とても目立つタイプとはいえないのです。

「はは〜ん」とそのとき私は思ったものでした。目立つタイプだから人ごみのなかから容易に見つけ出せるのではなく、好きな人だから見つけ出せるのだな、と。大事な人の姿は、人ごみのなかからでも浮き上がってくるように目に入ってくるものなのだな、と。

認知科学や心理学の用語で「カクテルパーティ効果」というのがあります。あちこちで会話が飛び交っているパーティの喧騒のなかでも、私たちは自分が話を聞こうと思った人の言っていることはちゃんと聞き取れるし(その代わりほかの人の話は耳に入らない)、自分の名前を呼ばれればちゃんと気づく。これがカクテルパーティ効果。専門的には「選択的注意」というようですが、要するに多くの雑多な情報のなかから特定の情報をより分ける能力が私たちにはあるのです。

雑踏のなかで恋人を見つけ出すこと――これは路上で起きたカクテルパーティ効果といってよいのではないでしょうか。もし誰かが、あなたが地味な格好をしているのにも関わらず人ごみのなかで容易にあなたを発見したのなら、その人の気持ちは強くあなたへ向けられているといってよいかもしれません。 (2006.4.7)

No.360 「マニュアルを読むなんて、うんざり」

レノボの広告

最近、レノボのパソコンの広告に「マニュアルを読むなんて、うんざり」というコピーを使ったものがありました。マニュアル制作に携わる皆さんは、「うんざり」と言われてどう思われますか?

広告に登場するような美女から「あなたにはウンザリだわ」と言われたら…、いや美女からでなくてもそのように言われたらショックではありますが、「マニュアルを読むなんて、うんざり」ということであれば、自分も読む側の立場では同感です。「いや、まったくそうだよね」と同意せざるを得ません。

すべてのマニュアルがそうだというわけではありません。たとえば、ほしくてほしくてしかたがなく、やっと手に入れた、そういう製品なら、マニュアルにも愛着を感じ、わくわくしながらページをめくるかもしれません。しかし、それは例外。多くの人にとってマニュアルのほとんどは、やはり「読むなんて、うんざり」という存在でしょう。

そのことは作る側もわかっているのです。限られた予算と時間のなかで、必要な情報をなんとかまとめてマニュアルにする――それがいまのマニュアル制作の現実です。ベストセラー本のように読者を惹きつけるマニュアルを作ることなどできないと考えた方がよいでしょう。

しかし、「うんざり」をなくすことはできなくても、減らすことならできそうです。それから、「うんざり」を我慢して読んだとき、きちんと役に立つ、そういうものを作る努力もできることでしょう。役に立てば、次からはそれほど「うんざり」しないで読んでくれるかもしれません。「うんざり」を認めることは終わりではなく、出発点なのです。この広告を見てそのように感じたのでした。(2006.4.1)

No.359 地名探しゲーム

中学生のころだったと思うのですが、地図帳を使って友達とよくこんなゲームをしていました。地名の多く出ているページ(例えば関東平野やヨーロッパ)を開き、一人がそのページにある地名を一つ選び出して読み上げ、もう一人がその地名の場所を探すのです。見つけたら交代。これを繰り返すだけのゲームです。
出題する側は、できるだけ見つけにくい地名を探そうと努力します。どういうのが見つけにくいかというと、まず小さな文字の地名が見つけにくいことはいうまでもありません。地名が密集しているところや視線が届きにくいページの隅っこなどだといっそう難度が高くなります。それから、トリッキーな攻め手として、平野名や山脈名など大きい文字の地名も意外と見つけにくいものです。その手の地名は文字の間隔も広く、小さい文字に注意を集中しているときなどはなかなか目に入らないのです。
地図ではなく一般の本を読む場合にも、私はときどきそういうことがあります。本文ばかり見ていて見出しに目がいかなかった、というようなことです。最初から見出しを見ようと思っていればそんなことはないのですが、本文を追っていると、見出しを飛ばして本文から本文へと読み進んでしまうのです。そういう場合は、何かの情報が見出しにあって本文になければ、その情報を見落としてしまうことになります。
文字は大きいほうが目立つし、読者に情報が伝わりやすい――この命題は基本的には正しいはずですが、常にそうであるわけでもないということも言えるように思います。(2006.3.24)

No.358 『あの戦争は何だったのか』を読んで

テクニカルコミュニケーションとは直接関係ないのですが、『あの戦争は何だったのか』(保阪正康著、新潮新書)という本のことをご紹介したいと思います。これは太平洋戦争の始まりから終わりまでを書いたノンフィクションです。単に戦争の出来事を述べるのではなく、日本がなぜそうしたか、どうしてそうなったかを解明することに力点を置いてます。その目的のため、当時の軍隊や政治の組織がどのようなものだったもわかりやすく解説されています。たとえば、「軍部の暴走によって戦争に突入した」というようなことがよくいわれますが、その「軍部」とは、いったい誰を指すのか、組織のどの部分なのか、といったことがよくわかります。

さて、興味深い事柄はいろいろとあるのですが、最も驚かされるのは、当時の日本の指導者に太平洋戦争の明確な目的が持たれていなかったという点です。どこまでやれば終わり、どうなれば目的達成、というビジョンがなかったというのです。その結果、国がボロボロになるまで止め時を見つけることができなかったわけです。

それともう一つ、これは目的がなかったことと関係していると思いますが、陸軍と海軍が意地を張り合うようにして、大本営の陸軍報道部と海軍報道部が競い合って国民によい戦果(虚偽の戦果)を報告し、指導者すらも正しい戦況を把握できなくなってしまっていたということです。著者はこれを「台風が来て屋根が飛んでしまい、家の中に雨がザーザー降り込んできているのに、誰も何もいわない、雨漏りしているのに、わざと見ないようにして、一生懸命、玄関の鍵を閉めて戸締りなどに精をだしている」と喩えています。大局的な見方ができず、自分自身や、自分の属する組織のほうが大切になってしまっていた、と言い換えてもよいでしょう。

目的を見定めた明確なビジョンの欠如、大局的視点を欠いた保身や組織重視の態度、こういったことはともすれば現代に生きる私たちも陥りがちな問題のような気がします。歴史に対する興味から手に取った本ですが、意外にも自分自身にも関わってくる要素が含まれていたのでした。(2006.3.12)

No.357 “トリノの恋人”に学ぶ

日本人にとって今回のトリノオリンピックは荒川静香選手の姿によって象徴されるといってよいでしょう。それは金メダルを手にした微笑みか、背中を大きく反らせた荒川流のイナバウアーか。オリンピックでもっとも観客を魅了した女子選手を称して“○○の恋人”と呼ぶことがありますが、日本人にとって荒川選手はそういう存在となったのではないでしょうか。

それにしても、メダルを期待された他の競技でことごとく日本人選手はそれをなし得なかったことは、あらためてオリンピックで勝つことの難しさを思い知らせます。実力を出し切ることのできた選手とそれができなかった選手の違いはなんなのでしょう。荒川選手に関していうなら、どうやら彼女は勝つために滑ったというより、よい演技を観客たちに見てもらうこと、楽しんでもらうこと、それを目指していたようです。それが結果的にプレッシャーに押しつぶされる事態を避けることにつながり、金メダルへと結びついたのではないでしょうか。磨き上げられた技術に加え、無欲に徹した彼女の心のあり方によって実現したメダル獲得といってよいかもしれません。

私たちの仕事においても、ここぞという勝負のときがあるものです。仕事である以上、勝つことを目指すわけですが、迷いが生じたときには、自分が努力して実現しようとしていることの最終的な目的は何なのか、原点に立ち返って考えてみることが有効であるように思います。荒川選手の姿からそんなことが学べるのではないでしょうか。(2006.3.4)

No.356 『わかりやすさの本質』を読む

わかりやすさの本質』(野沢和弘著、NHK出版)という本を読みました。毎日新聞社の記者である著者が携わる知的障害者向けの新聞「ステージ」発行の取り組みについて紹介したものです。

本書のテーマは「わかりやすさ」です。「ステージ」発行の努力のなかで培われた、わかりやすくするための技術を紹介しています。ここでいう「わかりやすさ」は知的障害者にとってのものです。編集に参加している知的障害者の意見を聞いて記事を書き直す作業を繰り返し、その試行錯誤の中から「わかりやすさの技法」が得られたそうです。

一般紙の記事を「ステージ」ではどのように書いたか、いくつか例が取り上げられているのですが、「ステージ」の記事は私にとってわかりやすいだけでなく、一般紙の書き方では理解できていなかった基本的な部分がわかるのです。知的障害者にとっての「わかりやすさ」は、障害のない者にとっても役に立つものなのかもしれません。(2006.2.25)

No.355 小笠原の超ロングシュート

昨日、サッカー日本代表のフィンランド戦がありました。久保の先制点は、決定力のあるフォワードの復活ということで印象に残るものでしたが、2点目となった小笠原のロングシュートはその距離の長さという点でさらに印象深く、歴史に残るゴールといってよいかもしれません。それはキーパーの後ろを突く、いわゆるループシュートですが、なんと自陣からのキックで、約57メートルの距離を越えての超ロングシュートでした。

狙いどおりの場所へボール送り込む正確なキック力は無論素晴らしいものですが、それよりも光るのは冷静な状況判断です。通常ならば、もっと近い距離での対処を考えるところを、小笠原選手には相手ゴールの状況までも見えており、その冷静な判断に基づいて、ひと蹴りで状況を打開してしまったのです。報道によると、キーパーがよく前に出るから後ろが空くということは試合前にジーコ監督から話があったそうですが、それにしてもあの位置からシュートを試みるということは容易にできることではないでしょう。

ある混沌とした事態のなかで状況を冷静に見つめ、より広い視野から検討し、打開策を見つける――これは、サッカーに限らず、私たちの仕事にもおいても有効な姿勢のように思われます。仕事においてやっかいな事態に陥ったとき、冷静に考えることによって小笠原の超ロングシュートのような打開策が生まれてくるかもしれません。そのような刺激を与えてくれるあのシュートのことを記憶にとどめておこうと思います。(2006.2.19)

No.354 「IT新改革戦略」とテクニカルコミュニケーション

2006年1月19日に政府は「IT新改革戦略」を発表しました(概略全文)。これは2001年にスタートしたe-Japan戦略、2003年7月からのe-Japan戦略Uに続くもので、2006年からの5年間の国のIT政策を述べたものです。

e-Japan戦略とe-Japan戦略Uによって、例えばブロードバンド環境が安価に利用できるようになり、ウェブでのサービス提供が大幅に広がったことを考えると、功罪はともかくとして、こういった国家戦略が私たちの日常の生活に大きな影響を与えるものであることは明らかです。IT新改革戦略の場合も同じことが言えるでしょう。

IT新改革戦略の内容を見てみると、私たちテクニカルコミュニケーターにとっても関わりの深いものであることがわかります。なかでも、IT基盤の整備という重点項目のなかで掲げられている「デジタル・ディバイドのないIT社会の実現」は、テクニカルコミュニケーションの技術なくしては達成できないものと思われます。例えば、その「実現に向けた方策」として、「機器や端末等における表記、操作方法の統一等の高齢者・障害者を含むすべての人の使いやすさに配慮した指針づくりを進めるとともに、利用者が使いやすい製品を容易に選択できるような製品表示を促進する」と述べられているのです。これはまさにテクニカルコミュニケーションの技術が活かされる分野ではないでしょうか。

ちなみに、「IT新改革戦略」はPDFの形式で公開されているのですが、それは「しおり」も、目次から本文へのリンクも設定されていない使いずらいものです。まずこのあたりから「改革」を、などとも感じたしだいです。(2006.2.11)

No.353 ユニバーサルデザインとバリアフリー

TOTOがユニバーサルデザインの研究所を新設したというニュースを読み、同社のサイトを見たところ、ユニバーサルデザインとバリアフリーの関係がわかりやすく解説されていました。誰でも使えるユニバーサルデザイン、障害の有無に関係なく使えるバリアフリー、という具合に大雑把に理解していたこの二つの概念。では両者はどう違うのか、どういう関係にあるのかと聞かれたら、うまく答えることは私にはできなかったかもしれません。

TOTOのサイトには「ユニバーサルデザインはバリアフリーを含め、小さなお子様や成人、ご高齢の方、障害のある方など、すべての人に配慮することをめざす考えです。バリアフリーは、加齢による身体の機能低下が進んだ方や、介護の必要なご高齢の方、障害のある方などの、一人ひとりの衰えた機能を補うことを配慮する考えです。」とあります。

つまり、高齢者や障害者を対象に考えるバリアフリーの概念を含み、さらに幅広くすべての人を対象に考えるのがユニバーサルデザインということです。言い替えると、ユニバーサルデザインの部分集合がバリアフリーだということです。

マニュアル制作という一種のモノづくりに携わる人間としては、このユニバーサルデザインの考えはいつも頭のどこかに置いておくべきだろうと思います。ここ数年、小さい文字が見づらくなってきたことを考えると、自分自身もまたユニバーサルデザインやバリアフリーの恩恵に浴する側になりつつあるわけですから、なおのこと。(2006.2.4)

No.352 「担保する」

2、3年くらい前からだと思うのですが、「担保する」という表現を耳にすることが増えてきたような気がします。名詞としての「担保」はもちろん昔からある言葉ですが、「担保する」という動詞としての使い方は、以前は経済学者か法律家か、そういったごく一部の人しかしていなかったと思います。それがいまでは一般の人が使う表現となっています。
広辞苑を引いてみると、「担保」の意味は次のようになっています。
1.債務の履行を確保するため債権者に提供されるもの。抵当権や保証の類。
2.しちぐさ。抵当。ひきあて。
「しちぐさ」がいちばん卑近でわかりやすい説明だと思いますが、要するに「金を返せなかったときに代わりに譲るもの」のことでしょう。純然たる金融用語といってよいと思います。
しかし、現在の使われ方で多いのは「国の安全を担保するための仕組みが必要だ」といったようなもので、意味としては「確保する」とか「保障する」といったところでしょう。
なぜ、「担保する」が普及してきたのか。一つはそれが、まあちょっと知的な感じのするカッコイイ表現だからということがあるでしょう。ひとはいつも新しい言葉や表現を取り入れて、かっこうをつけるものですから。
それに加えて、もう一つこんな理由もあるかもしれません。それは、ここ数年、物事や世の中を経済の観点から見る傾向が国内で広まったということです。さまざまな規制緩和や自由化が進み、中小企業はもとより大企業の倒産も日常茶飯事となり、サラリーマンのリストラもごく当たり前のこととなりました。そのようななかで個人の自己責任ということが言われ、否応なしに私たちは世の中の経済に目を向けざるを得なくなってきています。そういう世相が、「担保する」という言葉を広めたのではないでしょうか。
「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉がありますが、「言葉」もまた、世につれて変化するものなのですね。私はどうも好きになれないので「担保する」という表現は使ったことがありませんが。(2006.1.28)

No.351 映画のローカライズに思う

『愛と喝采の日々』という映画をテレビで観ました。よい映画だったのですが、内容とは別にひとつ興味深いことがありました。原題が"THE TURNING POINT"(転換点)となっているのです。邦題は原題からかけ離れたものなのですね。
映画の題名には『愛と追憶の日々』『愛と青春の旅だち』『愛と悲しみのボレロ』など、「愛と●●の■■」というパターンのものがけっこうあります。このパターンの邦題の映画がヒットしたことで、配給会社がそれにあやかろうとした結果でしょう。やはり原題のほうはまったく異なります。
愛と追憶の日々←TERMS OF ENDEARMENT(愛称)
愛と青春の旅だち←AN OFFICER AND A GENTLEMAN(士官と紳士)
愛と哀しみのボレロ←LES UNS ET LES AUTRES BOLERO(ありとあらゆるボレロ)
こうして見ていくと、邦題というのが原題とは別物であることに加え、もう一つ感じさせられることがあります。邦題が大仰だということです。大仰、大げさ、装飾過剰、という感じ。日本人は大仰な表現に慣れてしまっていて、シンプルな題名では物足りなくなってしまっているのかもしれません。あるいは文化の違いでしょうか。
映画の題名を仕向け地に合わせて変えるというのは、私たちの仕事でいうところの「ローカライズ」です。映画のやり方で取扱説明書のローカライズを行うとするなら、タイトルは『愛と喜びのユーザーズマニュアル』とか『愛と葛藤のメンテナンスマニュアル』などになるかもしれませんね。(2006.1.21)

No.350 STCのシニアメンバーになって

STCシニアメンバー証書

先日、STCから手紙が届きました。中身はシニアメンバーの認定書でした。

シニアメンバーというのは、STC在籍5年で与えられる資格です。なったからといって何か特権が得られるわけではなく、要するに「5年間ありがとう」および「これからもよろしくね」という意味のものと個人的には理解しています。

それにしても5年などはあっという間ですね。実際には、いったん退会したのちに再入会しているので、STCに関わっている期間は5年よりももっと長いのですが、それでもこうして5年経ったことを知らされると多少の感慨はあります。

5年間でどれだけ成長できただろうかと考えると、いろいろと努力はしてきたものの、まだ不十分という感じは否めません。次の5年間は、どうなるか。どうするか。いずれにしても、5年後には自分で自分を褒めてあげられるくらいのものが達成できているよう頑張りたいものです。(2006.1.14)

No.349 1968年のマウス

放送大学大学院の「情報化社会研究」という講義を受講しているのですが、その第11回は「誰もが使えるコンピュータ」というタイトルで、デスクトップメタファを備えたパーソナルコンピュータの誕生までの経緯を概観するものでした。

ダグラス・エンゲルバート(情報化社会研究第11回放送より)

そのなかで、1968年12月9日にスタンフォード研究所のダグラス・エンゲルバートが学会で行った発表の映像が紹介されました。これは彼の研究チームの開発したNLS(オンラインシステム:oN Line System)のデモンストレーションで、そこにはマウスやキーボードによる入力、ディスプレイへの出力、マルチウィンドウ、ハイパーテキストといった、現在のユーザーインターフェースの原型が含まれていました。入力はテレタイプ、出力はロール紙というのが当たり前だった時代に、その発表はコンピュータ関係者に大変なインパクトを与えたと言われています。

マウス(情報化社会研究第11回放送より)

私たちがふだん使っているマウスも、このデモで発表されたものです。放送では、マウスの動きに合わせて黒いマウスポインタが動く様子が示されていました。写真だと少し見づらいのですが、手のひらの右下からコードが延びており、このデモの時点ではマウスのコードが現在とは逆の側にあったことがわかります。

1968年というと、いまから38年前。コンピュータは時代の先端を体現する存在の一つで、いつも「新しい」というイメージを身にまとっていますが、実際には何十年という歴史のなかでさまざまな人たちが創意工夫を重ねて作り上げられてきたものなのですね。この放送を見て、改めてそのことを認識したしだいです。(2006.1.7)

No.348 一年を振り返って

毎年感じることですが、一年無事にやってこれてよかったというのが最初に出てくる思いです。仕事が途切れることもなく、また、怪我も大きな病気もなく仕事をしてこれたことが嬉しいです。
仕事周辺では今年はいくつか新しい経験をしました。例えば、TCストリートの別館という形でmixiにTCストリートカフェというコミュニティを開設し、交流を楽しんだりネットワークを広げることができました。趣味のレベルの話になりますが、ライター仲間でバンドを結成し、練習を始めたのも個人的には重要な経験です。仕事で使っているパソコンが故障し、データを失ってしまったのは、ショッキングな出来事でした。結果としてパソコンを買い換え、データのバックアップの体制もしっかりと整えることになりました。
来年はどういう一年になるでしょうか。どういう年になるにせよ、仕事に励みつつ、一年を精一杯楽しみたいと思います。来年もまたよろしくお願いいたします。(2005.12.31)

No.347 クリスマスの映画

クリスマスを描いた映画は数多くありますが、私がこの時期に思い出す映画の一つに『ジョニーは戦場へ行った』という作品があります。戦争で手足、目、耳、口を失ったものの奇跡的に一命を取り止めた兵士ジョーの話です。彼は話すことも聞くことも書くこともできず、病院のベッドに横たわって過ごすのですが、あるとき看護婦が彼の胸をはだけ、そこに指でアルファベットを書くことで彼に言葉を伝えるのです。書かれた「MERRY」の文字に、ジョーはクリスマスの到来を知るのです。そして、彼はある方法によって自分の意思を周りに伝えることにも成功します。
この映画は戦争の悲惨さを表現していますが、それと同時に、コミュニケーション(意思や情報の伝達)が人間にとっていかに重要かということも伝えているように思います。(2005.12.24)

No.346 古いカセットテープに思うこと

ライター仲間とバンドを組んでときどきスタジオで練習をしているのですが、先日、その演奏を小さいカセットテープレコーダーで録音してみました。最高の音質とはいえませんが、それなりにちゃんと録音できていたので感心させられました。
感心したのは、一見おもちゃのようにも見えるシンプルで小型のカセットテープレコーダーがしっかり機能したということに加え、使ったカセットテープが非常に古いものだったからです。そのカセットテープのラベルには、私が若い頃によく聴いていたローリングストーンズのアルバムのタイトルが汚い字で書き込んであります。学生時代にレコード(CDではありません)から録音したときのものでしょう。だとすれば、おそらくは20年以上も前のカセットテープということになります。
変化の早いITの世界では、数年前の製品が骨董品のように見えてしまうものですが、IT以前に活躍していた電子機器であるカセットテープレコーダーやカセットテープという記録メディアは、10年や20年は平気で持つものなのかもしれません。大昔といっていいような古い時代のカセットテープがいまも役に立つというのは、ちょっと楽しいものです。ちなみに、カセットテープの内容は、ダイレクトエンコード機能を備えたMP3プレイヤーでMP3データに変換し、パソコンに取り込んだ上でインターネット経由でバンドメンバーに配布しました。(2005.12.18)

No.345 オフラインの夜に

これまでインターネットへの接続は、ケーブルテレビ会社の提供する接続サービスを利用していたのですが、先日、NTT東日本のBフレッツに切り替えました。この切り替えに際しては、若干の問題がありました。
うちはマンションなのですが、ケーブルテレビのインターネットもBフレッツもマンション構内は電話回線を使用して信号を流すVDSL方式になるため、両者同時には使用できません。そのため、切り替えの際はまずケーブルテレビのインターネットを解除し、それからBフレッツの工事を行う必要があります。ケーブルテレビ会社とNTT東日本はまったく別の会社ですから、工事は別々に依頼しなければなりません。ケーブルテレビの工事のあと、Bフレッツの工事が行われるまでの間は、インターネットが使えないわけですから、それができるだけ短くなるようそれぞれの工事日程を調整したのですが、約20時間近くインターネットが使えない時間が生じることになりました。
ケーブルテレビのインターネットが解除されたのが木曜日の午後。翌日、NTTの工事が行われ、インターネットに再び接続できたわけですが、それまではなんだか世間から切り離されて島流しにあったかのような頼りない感じがしたものでした。仕事の面でも趣味の面でも、自分がインターネットに大きく依存しているということを認識させる経験となりました。(2005.12.10)

No.344 銀行の名前

私は東京三菱銀行に口座を開設しているのですが、この銀行は来年の1月に「三菱東京UFJ銀行」という名前に変わるそうです。UFJと一緒になるから名前に「UFJ」がくっつくのはわかりますが、どうして「東京」と「三菱」の順序が変わるのか、いろいろと勘ぐりたくなります。
それにしても、このように銀行名がころころ変わる時代がやってくるとは、以前なら到底想像できなかったことです。東京銀行と三菱銀行がいっしょになって東京三菱銀行になったのが1996年。その10年後に今度は三菱東京UFJ銀行に。この長い名前は、10年持つのでしょうか。
1996年に三菱銀行と合併した東京銀行は、1946年までは横浜正金(よこはましょうきん)銀行という名前だったそうです。文学好きの方なら、この名前に覚えがあるのではないでしょうか。作家の永井荷風が銀行のニューヨーク支店やリヨン支店に勤務し、その経験を元に『あめりか物語』『ふらんす物語』を書いたわけですが、その銀行が横浜正金銀行です。横浜正金銀行は戦時中は国策のための銀行と化し、戦後に連合軍の指導により東京銀行に改組されたという歴史があります。
三菱銀行のほうはと調べてみると、1943年に第百銀行と合併、戦後の1948年には千代田銀行と改称、1953年に元の名前に戻った、などという過去があります。
前言を翻すようですが、案外、銀行というのは名前を変えていくものなのかもしれませんね。(2005.12.3)

No.343 2冊のナショナルジオグラフィック

ナショナルジオグラフィック誌を購読しているのですが、その11月号が届いたあと、しばらくしてからもう1冊同じ号が届いたのでした。単なる配本ミスと思い、あとからきたほうは放置してあったのですが、封を開けてみたら、「お詫び」という題名の手紙が入っていました。

1冊目のほうは2ページある目次のページが入れ替わって逆になっていたというのです。それで、正しい順序に直したものを新たに配本したわけです。手紙には、「印刷所の手違いで」とありました。

印刷業と隣接した業界にいる者としては、このミスをめぐる人間模様が目に浮かぶようで、ひとごとではないなあと冷や汗が出るような気がしました。ページが入れ替わっていた程度のことは、読者としてはどうということのないもので、実際それに私は気づきませんでしたし、気づいたとしても「ご愛嬌」と受け止めたものと思います。しかし、品質の高さを誇る伝統ある、(世界に冠たる、といってもいいかもしれません)ナショナルジオグラフィックにとっては許されざることなのでしょう。同誌の品質へのこだわりを感じさせるとともに、仕事の世界の厳しさを改めて思い知らされた気がします。(2005.11.26)

No.342 『レイアウトの法則』を読む

生態心理学者でアフォーダンスに関する著書でも知られる佐々木正人氏の『レイアウトの法則』を読みました。氏のエッセイ、評論、対談などで構成された本で、面白く読めましたが、正直にいうと「読みました」と胸を張れるほど中身をしっかり理解できたという実感はありません。
「レイアウト」という言葉を含む題名から、ページデザイン上のレイアウトについてアフォーダンスの観点から考察するような本かと私は思っていたのです。そういう内容も含まれてはいます。グラフィックデザイナの鈴木一誌氏との対談などはページデザインの話が中心テーマの一つです。しかし本全体としてはもっと学術的(哲学的にも見えました)で、芸術論や視覚論といった内容も含まれます。本書により、アフォーダンスというものが「使いやすさ」という観点でイメージされるものよりもずっと幅広いこと、動物の行動を周囲の環境との関係で理解しようとする生態心理学のことなどを知ることができました。
「こういう内容だろう」という予想を超える部分、はみ出す部分との出会い、これもまた読書の喜びでもあり、価値でもあると思います。そんな読後感を与える読書体験でした。(2005.11.19)

No.341 ガウディのカレンダー

ガウディのカレンダー(表紙)

先日、腕ほどの長さがある大きな筒が郵便で届きました。中から出てきたのは、B2判という大サイズのカレンダー。業界での先輩であるKさんからの贈りものでした。

Kさんは建築家ガウディの大ファンで、スペインでガウディの作品を数多く写真に収めています。このカレンダーは、その写真を使ったもの。B2判で見る写真は実に迫力があり、また豊かな味わいがあります。

Kさんの活躍の幅の広さ、奥行きの深さにはいつも目をみはらされます。自分は到底及ばないのですが、大いに刺激を与えてくる存在です。このような先輩(かつ友人)と出会えたことは幸運なことです。

ちなみに、このカレンダーはアマゾンなどのオンライン書店や大手書店・文具店でも販売しているとのこと。数に限りがあるようなので、入手をお考えの方はお早めにどうぞ。(2005.11.12)

No.340 進化する首都圏電車網

先日、初めて「湘南新宿ライン」の列車に乗りました。これまでは、それが私鉄なのかJRなのか、どこからどこまで行く線なのか、よく知りませんでしたが、JR東の運営する列車で、横浜近辺から都内に出るの便利な線であることが今回わかりました。ただ、湘南新宿ラインは1時間に2本しか走っていないため、利用するにはうまく時間を合わせて行く必要がありそうです。

首都圏では今年、つくばエクスプレスが開業しましたが、2007年には池袋と渋谷を結び東京地下鉄13号線の開業、2012年には東京地下鉄13号線と東急東横線との相互乗り入れと、今後も電車網の進化は続くようです。

A点からB点への移動ルートは、算数ならば直線を引けば済むことですが、首都圏の電車網の場合は正解は一つではなく、しかも解の出し方は複雑になっていく一方かもしれません。駅探などの乗り換え案内サービスの未来はバラ色かも(競争は激化していくでしょうが)。(2005.11.5)

No.339 見出しの著作権

日経パソコン10月24日号に弁護士山口勝之氏による「ネット新聞見出し訴訟でドンデン返し」という記事が載っていました。Yahoo!のウェブサイトに掲載されているニュースの見出しをコピーして自サイトにリンク付きで無断で載せていた企業(デジタルアライアンス)が、ニュース配信している新聞社(ヨミウリオンライン)から訴えられ、一審では勝訴したものの控訴審では敗訴したとのこと。デジタルアライアンスは上告しないことを決めています

この結末について、私はしごく当然のことと感じました。著作権は「思想または感情を創作的に表現したもの」を対象としており、事実のみを伝える短いニュース記事や見出しについては著作物に該当しないというのが一般的な考えです。しかし、ウェブ上のサービスとして「時事・芸能・スポーツ・ヒットチャート・お天気など幅広い情報の最新リンクを毎日配信!」(デジタルアライアンスのサイトより引用)という形で無断でニュースの見出しを多数もってきて、しかも毎日更新するというのは、容認しがたいことと思われます。ニュース配信元のサービスのタダ乗りといってよいでしょう。判決を下した知的財産高等裁判所に拍手を送りたいと思います。

ところで、取扱説明書の章や節の見出しは、著作物として認められるのでしょうか。本文も含めた取扱説明書の全体が「思想または感情を創作的に表現したもの」かどうかは意見の分かれるところかもしれませんが、作る側としては「あれは著作物だ」と主張したい気持ちです。見出しだけ、となるとちょっと考えてしまいますが、取扱説明書の場合は見出しの配列や用語の使い方に工夫が凝らされており、それは一種の「思想の創作的表現」であり、そこにはやはり著作権が生じるのではないかと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。(2005.10.29)

No.338 腰痛

先日、近くの整形外科医院で腰を診てもらいました。ちょっと腰に違和感があったのです。レントゲン写真なども撮って診断してもらったところ心配するような事態ではなくホッとしたのですが、日々の生活で腰を痛めないように気をつけることの必要性を感じました。
テクニカルライターの場合、どうしてもPCに向かってすわって仕事をする時間が長くなるものです。 それに加えて、すわってテレビを見たり本を読んだりしていては、一日の大半をすわったままで過ごすことになってしまいます(私のことです)。これでは腰を痛めるのも当然かもしれません。
皆さんもどうぞお気をつけください。(2005.10.22)

No.337 Office 12

日経パソコン10月10日号 が来年後半にリリースされる予定のMicrosoft Officeの次期バージョンを紹介していました。9月に開催されたMicrosoftの開発者向け会議で発表された内容に基づいたものです。

私はOfficeの新しいバージョンが登場するたびにアップグレードしてきましたが、2000、2002、2003というここ何年かのバージョンアップはどちらかというと小さな進歩で、例えば2000と2003を比べても、文書作成の作業効率に大きな違いはないという印象です。

ところが、記事で紹介された次期バージョン「Office 12」は、見た目も使い勝手も大きく変わるようです。ユーザーインターフェース上での一番の違いは、ツールバーが「リボン」と呼ばれる形式に変わることのようです。リボンは、タブで切り替える方式のツールバーといった感じのもの。Wordの場合なら、Write、Insert、PageLayoutなど、作業の種類に対応したタブが用意され、ツールアイコンはそれぞれ該当するタブシートに配置されます。

私の印象としては、これは現行バージョンより使いにくくなるのではないかという気がするのです。しかし、パソコンソフトのユーザーインターフェースの進化を主導してきたMicrosoftが従来より使いにくいものを出してくるとは思えないので、実際に使ってみれば現在の印象は覆されるものと期待もしています。まだ1年ありますが、1年などすぐですからね。リリースが楽しみです。(2005.10.15)

No.336 リモートサポート

日経パソコン9月26日号に「ブロードバンドで新しいサポートが誕生」という興味深い記事が掲載されていました。ユーザーのPCとサポート側のPCとで通信を行い、ユーザー側のPCの画面に直接指示を表示したり、場合によってサポート側でユーザーのPCを操作したりするという新しいサポート形態を紹介するものです。遠隔(リモート)からPCを操作して行うユーザーサポートということで、「リモートサポート」というそうです。電話やメールでのサポートに比べれば、サポートする側もされる側もぐっとストレスなくやり取りができるようになるはずです。記事によれば、年賀状ソフト「筆王」を発売するアイフォー、PCメーカーのNEC、東芝、ソニーなどがリモートサポートをすでに取り入れているとのこと。

IT関連企業のユーザーサポートというものに対して、皆さんはどういうイメージをお持ちでしょうか。個人的な意見ですが、的確な対応に感動することもないわけではありませんが、どちらかというとネガティブなイメージがあります。電話がなかなかつながらない、つながっても長いこと待たされる、やって担当者と話ができたと思ったら、ハードディスクをフォーマットしてOSをインストールしなおせみたいなことを指示される…。ユーザーサポートの難しさは重々承知しているつもりですが、実際にトラブルを抱えてしまったユーザーの側になると、メーカーの対応にはなかなか満足できないのです。きっと同じように感じている方もいることでしょう。

リモートサポートは、そんなユーザーサポートのイメージを大きく改善する可能性があるのではないかと思います。(2005.10.8)

No.335 IT機器のライフサイクル

先日、プリンタが壊れました。コピー、スキャナ、ファックスの機能も備えた複合機です。購入時の価格はたしか7万円ほどで、使用期間は4年ほどです。
私の金銭感覚でいうと、7万円で買った冷蔵庫や洗濯機なら10年は使いたいですし、それがテーブルやタンスだったら20年は使いたい。しかし、プリンタのようなIT機器なら「4年使えたのならまあいいか」という気持ちが自分にはあります。
IT機器の場合、3年も経てば、より性能のよいものがより安い値段で買えるようになっているというのが常です。しかもプリンタは仕事の道具ですから、例えば100枚プリントアウトするのに30分かかっていたものが10分で終わるようになるなら、買い替えの意義は大いにあります。仕事をするうえで時間の短縮は価値あることですから。
そんなわけで、さっそく新しい複合機を注文したのでした。本体の値段は25000円程度。LAN機能や両面印刷機能もあり、機能としてはこれまで使っていたものより上で、値段は3分の1。時の流れを感じさせられます。(2005.10.1)

No.334 使い勝手で勝負するGoogle

検索サービスのGoogleは、検索結果の品質の高さとシンプルな使い勝手ですっかりインターネット利用者の間で定着し、Googleで検索することを「ぐぐる」と呼ぶ言い方も普通に使われるようになっています。

最近の傾向としては、メールサービスのGmail、パソコン内の情報を検索するGoogleデスクトップ、衛星写真と地図とを統合したGoogleマップなど、提供するサービスの幅をどんどんと広げていますが、そのすべてに共通するのは、使い勝手のよさです。簡単に使えることはもちろん、使っていて気持ちよい・楽しい、そして利用者が求める機能をきちんと提供する、そのようなサービスになっているように思います。

ピカソのタイムラインGoogleが最近リリースした写真整理ソフトPicasaもまたそのような製品です。このソフトのユーザーインターフェースで特に面白く感じたのは、写真を時間軸にそって閲覧できるタイムラインという機能。時間軸で整理するというアイデアはすでに他社も以前から採用しているものですが、Picasaの場合、その見せ方がとても洗練されているのです。見た目が楽しく、美しく、スムーズな動きが気持ちいい、そんなユーザーインターフェースです。機能が同じでも、その見せ方やインターフェースの工夫によってまったく違う印象を与えられるものだなあと感心してしまいました。(2005.9.24)

No.333 パソコンの難しさ

以前使っていたパソコンに新しいハードディスクを入れ、家族共用として使うことにしました。そのために無線LAN経由でLANに接続したのですが、つながるまでには曲折がありました。
無線の電波が届いていることは付属のユーティリティで確認できているのに、何かがうまくいっていない。またか、という感じ。結局、無線LAN用PCカードのドライバをアップデートしたら、接続できるようになりましたが、パソコンのトラブルでは、この「何かがうまくいっていない」という状況がけっこうあるように思います。
問題は起きている、しかしどこに問題があるのかわからない――パソコンでそんな経験はないでしょうか。そういう問題の解決には、経験、試行錯誤、情報収集が必要です。誰でも解決できるというわけではないと思います。問題の発生がまれであればまだしも、パソコンではトラブルはよくあることですから、困ります。
じつは、くだんのパソコンではもう1つか2つくらい未解決の問題が残っています。本腰を入れて取り組めば解決するかもしれませんが、ハマってしまうと時間がかかりますし、場合によっては追加の出費も必要になりそうなので、いまのところは放置しています。
トラブルにでくわすたび、パソコンはまだまだ発展の余地ありと感じます。(2005.9.17)

No.332 ライターよ、歩け!

私たちの仕事はパソコンに向かって過ごす時間が長く、運動不足になりがちではないでしょうか。特に、自宅=職場となっているフリーランサーの場合は「通勤」がないため、意識的に運動を生活に組み入れなければ運動不足になるのが必然といってもよいでしょう。ちなみに「通勤」は、それが片道1時間以上に及ぶような場合はかなりの運動量となり、勤め人の体力維持への貢献度は大です。十数年前、通勤のない生活になって初めてそのことを思い知らされました。
いま私が運動不足解消のために生活に取り入れているのはウォーキングです。ま、簡単にいうならば、早足で毎日せっせと歩くということですね。たかがウォーキングとあなどるなかれ、これを1年続けたことで、体重は10キロ近く減り、ズボンのベルトは穴3つ分くらい奥まで移動しました。
それに加えて、今日は嬉しいニュースがありました。ここ数年来、健康診断のたびにHDLコレステロール(いわゆる善玉コレステロール)が少なく中性脂肪が多いという結果が出ていたのですが、今年の検査結果を病院で聞いてきたところ、どちらも正常範囲におさまっていたのでした。虚仮の一念岩をも通す、でしょうか。
そんなわけで「ライターよ、歩け」と声を大にしていいたい気分なのであります。(2005.9.10)

No.331 ビットを買う

最近、アップル社のiTunesというソフトを使い、音楽CDから取り込んだ音楽を聴いたりiTMSというネット上の店から音楽を買ったりしています。iTMSは以前から米国では販売を行っており、国内でのオープンが待たれていたのですが、この8月にオープンし、すでに多数の人が利用しているようです。
日本人は情報にはお金を出さない、ということはかつてよく言われたことですが、いつのまにか状況は変化していたようです。iTMSで買う音楽は、姿かたちのない情報そのもの。ニコラス・ネグロポンテの表現を借りるなら、CDという「アトム」を買うのではなく、音楽をデジタル化した「ビット」を買っているということになります。
実際に利用してみると、「ああ、これがあるべき姿だ」という印象を持ちました。すでにネット上で私たちはさまざま情報をやり取りしています。ですから、音楽をiTunesで検索し、ダウンロードして買うというのが、ごく自然なことと感じられたのです。わざわざCDショップに出向いて買うとか、アマゾンなどのオンラインショップからCDを買うということが、すごく手間のかかる無駄の多いことのように思えてきます。実際、アマゾンでCDを買うということは、梱包のダンボール箱を消費することや、運送用のトラックが家までやってきてガソリンを消費し排ガスを撒くということが伴うわけです。iTMSではそれがまったくない。
iTMSは、音楽の入手方法を変えるだけでなく、ビットを買うということに私たちを慣れさせ、それによってもっと深い部分で人間の価値観に影響を与えていくことになるかもしれません。(2005.9.3)

No.330 アンネの日記

『アンネの日記 増補新訂版』(アンネ・フランク著、深町眞理子訳、文春文庫)を読んでいます。恥ずかしながら、この有名な本を読むのはこれが初めてなのですが、とても面白い本ですね。
ナチスのユダヤ人迫害の犠牲となり若くして亡くなった女の子の日記、ということはもちろん知っていましたが、少し誤解もあったということに読み始めてすぐに気づきました。
誤解というのは、こういうことです。これは迫害を受ける側の当事者の日記ということで、歴史的な価値があるということ、そして、これを書いた若い女の子が収容所で亡くなるという悲劇へ至る過程を図らずも記したものだということ、そういう理由でこの本は広く読まれているのだと私は思っていたのです。もちろんそれらも大きな理由のはずですが、実際に読んでみると、背景的なことは抜きにしても、文章そのものもとても魅力だということに気づかされました。この魅力がなければ、これほどこの本は世界中に愛読者を持つことはできなかったのではないでしょうか。
アンネは、作家あるいはライターとしての力もなかなかのものであったんだなあと思いつつ、読みすすめているしだいです。(2005.8.28)

No.329 19インチ液晶モニタに思う

とても安かったのでパソコン用モニタを購入しました。これまで使っていたのは15インチというサイズのものですが、今回のは19インチです。モニタを購入するのは、5年ぶりくらいになるはずですが、それだけ間があくと、値段が安くなったこと、品質が上がっていることに驚かされます。最近、大型の液晶テレビがよく売れているようですから、パソコンの液晶モニタの低価格化の背景には、液晶テレビの普及による量産効果があるものと思われます。

ところで、テレビの場合とパソコンの場合とでは、モニタサイズが大きくなることの意味はまったく異なります。テレビが大きくなると映像の迫力が増すわけですが、パソコンのモニタの場合は、増すのは情報量です。例えば15インチモニタではページの3分の2しか表示されなかったウェブサイトが、19インチモニタではページ全体が表示されたりするわけです。画面内により多くのものが表示できるようになるのです。

そういうテレビとパソコンの違いがあるので、テレビの場合は大きくなったらそれだけ離れて見ることになるものがパソコンの場合はそうではない、という違いにもつながってきます。パソコンの場合、サイズが大きくなっても表示される文字が大きくなるわけではありませんから、離れてしまったのでは文字が見えなくなってしまいます。

この違い、ちょっと面白いですね。テレビの場合、たぶん、大きければ大きいほどよいでしょう。極端な場合、ミニシアターといったレベルまで行ってしまう人もいるようです。一方、パソコンの場合は目の前に映画のスクリーンのようなサイズの画面があってもしたかありませんから(全体を見渡すことができない)、大きさへの欲望はせいぜい21インチ程度で頭打ちになるのではないでしょうか。

19インチモニタで作業しつつ、そんなことを考えました。(2005.8.20)

No.328 パソコンでテレビ2

パソコンでテレビを見ることが増えたと以前書きましたが、いまもそれは続いています。録画した番組を再生しているときに再生ボタンをクリックすると再生スピードが1.5倍になることを最近発見し、一段と便利さを感じています。

この1.5倍速再生は、たんにスピードが1.5倍になるだけではなく、音声のほうは音程を変えず速度だけを速くするという処理がほどこされており、話す内容も聞き取れるのです。オーディオテープなどを早送りすると、録音されている音声がかん高くなり、まるで宇宙人のおしゃべりのような感じになりますが、そうはならないのです。この機能を使うと、たとえば60分の番組を40分で視聴することができます。

そんなせっかちになってどうするのと自分で思わないでもないですが、できるだけ短い時間で情報を得たいという場合も実際あるので、重宝しています。先日は、録りためた放送大学の授業をまとめて視聴するのに役立ちました。

技術がさらに進めば、もしかしたら60分番組を6分で視聴できるようになるかもしれませんね。1.5倍の場合でも視聴には集中を要するので、さらにスピードあげるには番組内容を自動的にダイジェストするような仕組みが必要になってくるかもしれませんが。(2005.8.13)

No.327 パソコンマニュアルのランキング

日経パソコンが毎年実施している「パソコンメーカー サポートランキング」の2005年版の結果が8月8日号に発表されていました。これはパソコンメーカー10社のユーザー各400人を対象に行ったアンケート調査をまとめたもので、規模の大きさや調査内容の詳細さなどの点で他に類を見ない貴重なデータです。このアンケート調査にはパソコンのマニュアルも評価項目として含まれており、マニュアル制作に関わる者として大いに興味をそそられる内容となっています。
マニュアルの満足度は、1位がNEC、2位がエプソンダイレクト、3位がレノボ・ジャパン(日本IBM)。総合ランキングでもこの3社がこの順番で3位までを占めており、3社のサポートへの取り組みの努力がうかがわれます。
ただし、こういったアンケート調査を見る場合、結果だけを見てしまうと本質を見誤るおそれがあります。例えば、マニュアルに対する満足度は、電話サポート、Webでのサポートなど他の分野と比べてかなり低く、ランキング上位のメーカーでもあってもユーザーが大満足しているわけではないのです。メーカーによるユーザー層の違い(上級ユーザーの多いメーカーもあれば、初級ユーザーの多いメーカーもある)の影響も考慮する必要があるでしょう。また、アンケートに参加してくれたユーザー層は、全ユーザーとは違う傾向を持っているかもしれません(マニュアルもよく見る学習意欲の高いユーザー層かもしれません)。そういったことを考慮したうえで、私たちマニュアル制作者はアンケート結果を受け止める必要があるでしょう。
ともあれ、価値ある資料ですので、ぜひ同記事をご覧ください。(2005.8.6)

No.326 パソコンが家電になる日

私が不運なだけかもしれませんが、最近、パソコンのトラブルが続いています。数年来使っていたパソコンがダメになって新しいのを買ったということはすでに書きましたが、その新入りが先日起動しなくなったのです。幸い、翌日にはなにごともなかったかのように起動してくれましたが、その翌日には再び同じ状態に。

メーカーに修理に出すことも考えましたが、そうすると何週間かパソコンが使えなくなります。それでは仕事になりませんので、自分でなんとかすることにしました。まあ、アレヤコレヤはあったのですが、結局、パソコン内部の部品交換と部品追加を行い、どうやら問題は解決したようす。

そういうアレヤコレヤの間に私が感じていたのは、「パソコンはまだまだ家電品とはいえないナァ」ということでした。たとえば冷蔵庫やテレビで誰がこんな苦労をすることでしょう。もちろんパソコンという製品の特殊性はあります。ユーザーの使用方法は千差万別で、故障にもさまざまなケースがありえますし、いったん使い始めればユーザーがインストールしたアプリケーションやユーザーの作ったデータがたっぷり入り、手軽に交換するわけにはいかなくなります。しかし、そういう特殊性があるから「しかたがない」とあきらめていたのでは、パソコンは誰でも気軽に使えるもの、すなわち家電品にはなれないように思います。

パソコンが故障する。メーカーに電話する。修理の人がやってくる。パソコンから小さい部品を取り外して新しいパソコンに取り付ける。修理の人が帰っていく。パソコンは、故障前と同じように使えるようになっている。そんなふうだったらとてもいいのですが。いつかそんな日がくるのでしょうか。(2005.7.30)

No.325 デスクトップ検索

最近流行のデスクトップ検索ユーティリティの一つ、MSN サーチ ツールバー with Windows デスクトップ サーチを使っています。パソコン上のファイルやファイルの中身を検索するものですが、これが仕事上とても役立っています。

私にとって嬉しいのは、まずOutlook内のメールやメモが検索できること。Outlook自体にも検索機能はありますが、とても動作が遅いのです。外部のユーティリティであるWindows デスクトップサーチのほうがなぜか高速。私の場合、Outlook内に蓄えているデータの量が多いので、これは大いに助かります。

もう一つ嬉しいのは、PDFの検索ができる点です。アドインソフトを入れる必要がありますが、それも無料ですし、インストールも簡単です。たまたま現在関わっている仕事で大量のPDFファイルが仕様書として提供されているのですが、そのなかから必要な情報を探すのにWindows デスクトップサーチが大いに役立っているのです。何百ページ分もありますから、プリントアウトしたもので探すよりもすばやく情報を見つけられます。

Windows デスクトップサーチは、いまや手放せないユーティティの一つとなりました。(2005.7.23)

No.324 パソコンでテレビ

最近、パソコンで録画したテレビ番組を見ることが増えてきました。パソコンを買い換えた際に、ついでにテレビキャプチャーボード(テレビ番組をパソコン上で視聴し、録画もできる)も購入したのですが、これによる視聴がじつに快適なのでです。
快適さの理由はいくつかありますが、まず、パソコン上で番組表を見られることがあげられます。新聞を広げずとも、最新の番組表(8日分)がパソコンの画面に表示できるので、とても便利です。新聞はテレビ欄しか見ない、という人ならば、もう新聞はいらなくなってしまいます。
その番組表を見て録画を予約するのもじつに簡単です。番組表上で、見たい番組をダブルクリックし、確認のボタンをクリックするだけで予約がセットされます。時間を設定する必要も、Gコードを入力する必要もありません。
録画で見ると、CMや興味のない場面・コーナーなどは早送りで飛ばせるというのも魅力です。例えば音楽番組で好きなアーチストの登場するところだけ見たいというような場合に、最初から最後まで番組に付き合う必要がなくなるわけです。時間が大いに節約できます。
録画してもテープがたまるわけではないので、気軽に予約しておけます。録画した映像はハードディスク内に保存されますが、見終わったら削除すればいいだけのことです。
そんなわけで、あまりテレビを見なくなっていた自分が、以前よりは見るようになってきたのです。面白そうであればとりあえず録画を予約しておき、時間のあるときに見るのです。テレビ放送のほうが何も変わっていなくても、見る側の道具が変わることで、こうしてテレビの見方が変わってくるものなのだなと、少し面白く感じています。(2005.7.16)

No.323 スパム業者?

2つのメーリングリストを運営しているのですが、参加してすぐに退会するという人がたまにいます。参加してみたものの期待していたメーリングリストではなかった、ということで退会する人もいることでしょう。しかし、どうもそれだけではない感じです。参加者全員のメールアドレスを取得するのが目的の人(プログラム?)もいるように思われます。スパム用にメールアドレスを収集するわけです。
それで、以前は自由に参加できる設定にしていたのを、現在は私のほうで承認手続きをとってはじめて参加できるという設定にしてあります。参加申し込みのメールがきたらこちらから確認のメールを送り、返事がきたら参加を承認するというダンドリです。
参加する人にも運営する側にとっても少し手間が増えてしまいましたが、まあしかたがありません。いつかネットはもっと安全で信頼できるものになる、と思いたいところです。(2005.7.9)

No.322 パソコンの故障

まるで私のパソコンの故障が呼び水になったかのように、知人の間でパソコンの不調が続発しています。6月の下旬になってから気温と湿度が急に高くなったのが関係しているのでしょうか。
気温や湿度の変化とパソコンの故障の発生率の関係を統計的に調べてみると、強い相関が見られるかもしれません。パソコンメーカーはハードディスクメーカーはとっくにそういう調査を行っているかもしれませんね。
私はといえば、先日の故障以来、データの収められたフォルダ全体を1週間ごと、そして進行中のプロジェクトのフォルダについてはほぼ毎日、という頻度でバックアップを取るようにしています。
これからますます暑くなってくるでしょうから、皆さんもぜひパソコンのデータのバックアップをお忘れなく。(2005.7.2)

No.321 天災は忘れたころに…

先日の日曜日、それまで使っていたパソコンが起動しなくなり、データ消失の憂き目に遭いました。進行中の仕事もあるので、すぐに新しいパソコンを購入。作業環境を一から構築しなおしたわけですが、あれやこれやの作業で結局二日間くらいそれに費やしました。
今回は、ハードディスクの故障でした。万物流転、諸行無常、形あるものはいつかは滅びる。ハードディスクもまたいつか必ずクラッシュするときがくる。それがわかっていながら、こまめにバックアップを取っていなかったため、約10ページ分の原稿を再入力するはめとなったのでした。
万が一のときのための備えは重要ですね。まるで保険の勧誘みたいですが…。これからはこまめにバックアップを取ろうと決意したしだいです。(2005.6.25)

No.320 ローン・ライター

STCの月刊誌インターコムの6月号はローン・ライターの特集でした。原稿料を分割払いでもらうライター、のことではありません。Lone(一人の、孤独の)ライターです。つまり、組織のなかで唯一のライターとして仕事をしている人のこと。組織内にライターが2、3人しかいない場合や、フリーランスとして1人でやっているライターも含めてもよいかもしれません。

ローン・ライターには、1人で仕事をすることに由来する課題が存在します。まず、1人でいろいろなことをしなければなりません。例えば、組織内で1人だとすれば、原稿を作るだけでなく、DTP作業、イラストの発注、印刷の発注などもしなければならないかもしれません。フリーランスなら、1人で営業や経理もこなさなければなりません。組織内では、自分のしている仕事の価値をどうやって他の部署、会社の上層に理解してもらうかというのも大きな課題でしょう。「マニュアルごときになんでそんなに時間がかかるんだ」「もっと安く作れないのか」「マニュアルなんかいらないだろう」などという声をはねのけなければならないわけです。インターコムの特集は、こういったさまざまな課題へのアドバイスとなっています。

今回の特集には、STCのLone Writer SIGの協力があったようです。STCのなかには、メンバーの関心事に応じたいくつかの分科会のようなグループがあり、それをSIG( Special Interest Group )と呼んでいるのですが、その1つとしてローン・ライターのSIGがあるのです。じつは私もこのSIGに参加しており、メーリングリストも購読しているのですが、やり取りはじつに活発です。

日本国内においても、ローン・ライターと呼べる人はかなりいるのではないでしょうか。大きいメーカーや制作会社なら、何人もテクニカルライターを擁していて、孤立した環境で仕事をするケースはないものと思いますが、中小の企業ではむしろ1人もしくは2、3人でマニュアル制作業務をすべてこなしている場合が多いと想像されます。該当される方は、STCのLone Writer SIGに参加されてはいかがでしょうか。(2005.6.18)

No.319 クール・ビズ実践

先日、打ち合わせがあったのですが、思い切って「クール・ビズ」でいくことにしました。半そでのボタンダウンシャツにノーネクタイというスタイルです。幸い、訪問先のお客様もクール・ビズを実施しており、あまり居心地の悪い思いはしませんでした。

今朝のテレビ番組で、大企業100社にアンケートをとったところクール・ビズを実施しているのは45%だったということを紹介していました。半数近いとはいえ、まだ多数派とはなっていないのですね。

官庁や政府が音頭をとっており、しかも地球温暖化防止という大義名分もあり、おそらくは軽装化により仕事の効率アップにも多少は貢献すると思われるので、これからどんどんクール・ビズが広まってほしいものです。そのためにも、可能な限り私もクール・ビズでいこうと思います。ま、ふだん家ではTシャツと半ズボンでこの季節は仕事をしているわけですが。(2005.6.11)

No.318 軽装の定着を願う

6月から「クール・ビズ」が始まりました。弱めの冷房でも涼しく効率的に働くことができる軽装で行こうという運動です。旗振り役は環境省。地球温暖化防止のためのキャンペーンの一環として行われているものです。以前から夏場のネクタイ、スーツ姿に大いに疑問を感じていた身としては、この動きに心の底から賛同の意を表したいと思います。

しかし、現実的に考えると、公の場での服装の正統がスーツ姿であるという価値観をそのままに、夏場だけ軽装にしようというのは無理があるように思います。スーツが本来の仕事着という意識がある間は、クール・ビズに対する照れ、恥ずかしさ、相手に失礼かもしれない、といったような気持ちが付きまとうことでしょう。クール・ビズは永田町、霞ヶ関では6月から9月まで行われるようですが、ある程度慣れてきたとしても、秋冬を経てその慣れはリセットされてしまい、来年の6月にはまた同じように照れや恥ずかしさを感じるのではないでしょうか。そのうち、気が付いたら元通りになってしまっているということになりかねません。かつての省エネルックがそうであったように。

夏場の軽装を定着させるためには、季節に関係なく、「公の場にはスーツ」という意識そのものを変える必要があると思います。ホリエモン氏がマスコミを賑わしていたとき、彼のTシャツ姿を云々する向きもありましたが、ああいう意識があるうちはクール・ビズの定着はままならないと思うのは私だけでしょうか。

つまるところ、服装はこうあるべきだという固定観念を壊すことが必要なのだと思います。まずは公立中学・高校の制服を廃止するあたりから始めるのがよいかもしれません。(2005.6.4)

No.317 『不実な美女か 貞淑な醜女か』を読む

日露通訳の第一人者として活躍していた米原万里氏のエッセイ集『不実な美女か 貞淑な醜女か』(新潮文庫)を読みました。

印象的な題名は、訳文の美しさと原文への忠実度を比喩的に表現したものです。つまりこういうことです。

原文には忠実ではないが美しい文章となっている訳文→不実な美女
原文には忠実だが文章として美しくない訳文→貞淑な醜女

翻訳にしろ通訳にしろ、貞淑な美女(原文に忠実で、なおかつ美しい訳)が理想ですが、それは困難。逆に、不実な醜女(原文に忠実でもないし、美しくもない訳)ではプロとしてはやっていけない(お客さんからお声がかからない)。そんなわけで「世の中の通訳者は、圧倒的多数の場合において「不実な美女」か「貞淑な醜女」をしている」と米原氏は述べます。

楽しいエピソードがたくさん出てくる本ですが、私が一番心に残ったのは「どんな通訳者も発展途上通訳者である」という言葉です。これは米原氏が師事した徳永晴美氏が好んで言う戒めの一つだそうです。その心は、誰だって完璧じゃない、現場に飛び込んで学びながら成長するものだ、ということです。それはまた、勉強には頂点がない、生涯勉強なんだ、という意味も含まれています。

テクニカルライターも同じだ、と私は思ったわけです。「誰だって発展途上なんだ」と考えて新しい分野の仕事にも勇気を持って望むこと、そして自分は発展途上なのだからさらに発展するために学ぶことを怠らないこと、このことを忘れたくないと思ったわけです。(2005.5.28)

No.316 「品質」について

『ISO13407がわかる本』(黒須正明ほか著、オーム社)を読んでいたら「製品には利用品質(Quality in use)が必要である」という表現が出てきて違和感を覚えたのでした。私の言語感覚でいうと、利用品質というのは必要・不必要を言えるものではなく、良いか悪いかを言うべきものです。だから「製品には<良い>利用品質が必要である」というのであれば理解できるのですが、「製品には利用品質が必要である」といわれると、おや?と思ってしまいます。私だけでしょうか。

このことで思い出したのが、「クオリティ・ペーパー(quality paper)」という言葉。高級紙(一流新聞)のことを英語ではそのようにいうそうです。私は「クオリティ」=「品質」と理解しているので、直訳すると「クオリティ・ペーパー」=「品質紙」となってしまいます。品質紙じゃ意味がわかりません。

これらのことから考えると、「クオリティ」には単に「品質」という意味だけでなく、「高い品質」というニュアンスも含まれていそうです。そう考えれば「製品には Quality in use が必要である」という言い方にも納得がいきます。

それでは、「高い品質」というニュアンスを含むものとして日本語の「品質」という言葉を使うことはできるのでしょうか。それは話し手・書き手の判断によるとは思いますが、私の想像ではそういう表現には違和感を覚える人がまだ多そうです。例えば「この製品には品質がある」と言われたらどうでしょうか。変な感じがしないでしょうか。しかし、言葉は移り変わっていくものですから、いつかその違和感もなくなるかもしれません。(2005.5.21)

No.315 メトカーフの法則

パソコンのLAN規格として多くの人がその恩恵に浴しているイーサネットの開発者であり、スリーコム社の創設者でもあるボブ・メトカーフ氏がこのように言ったそうです。

「ネットワークの価値はノード数の二乗に比例する」――ノードはネットワークに接続されているコンピュータと考えてよいでしょう。このように紹介している例もあります。「ネットワークの価値はユーザー数の二乗に比例する」あるいは「通信ネットワークの価値はそれに接続された機器あるいはそこに接続する人々の数の二乗に比例する」とも。

とにかく、ネットワークは利用者が多ければ多いほど役に立つということです。これをメトカーフの法則と呼びます。『通信・ネットワーク用語ハンドブック』(日経BP社)によれば、経済学者ジョージ・ギルダー氏がメトカーフ氏のこの言葉を紹介したことで世間に知られるようになったそうな。電子メールや携帯電話の普及でどれだけ便利になったかを思えば、誰しもこの法則には納得がいくのではないでしょうか。さすがイーサネットの開発者。

ところが、メトカーフ氏は1995年に、インターネットは1996年に崩壊するという予言をしています。1996年にその崩壊も起こらず、2005年の現在にいたるまでインターネットは成長を続けているわけですから、氏の予言ははずれてしまいました。いかにすばらしい才能の持ち主でも未来を予想するということは容易なことではないようです。

メトカーフの法則に話を戻します。これを知って最初に思い浮かべたのは、今年の2月に始めた「TCストリートカフェ」のことでした。ソーシャルネットワーキングのmixi上に開設したコミュニティです。最初は参加者が少なかったので投稿もあまりなく、コミュニケーションや情報交換の場としての機能は果たしていなかったと思いますが、10人20人と参加者が増えてくるにしたがって面白くなってきました。「ネットワークの価値はユーザー数の二乗に比例する」ということが実感できたように思います。予言ははずれても、メトカーフの法則のほうは、いまもまだその輝きを失っていないようです。(2005.5.14)

No.314 日本科学未来館のテクニカルコミュニケーション

このゴールデンウィークに東京のお台場にある日本科学未来館に行ってきました。そして、2001年の7月に開館したこの施設は、従来の博物館・科学館とはちょっと異なる考えに基づいて運営されているということがわかりました。

一言でいうとそれは「理解させる」ことを主眼とした展示になっているということです。科学を理解させること、この世界を科学の視点で理解させること、それを目指しているように私には感じられました。

他の博物館・科学館は、どちらかというと「見せる」ことを主眼としているように思います。大きな恐竜の化石、風変わりな動物の剥製、美しい鉱物、そういうものを展示して楽しませてくれるのです。科学未来館にもそういう展示はありますが、見せて終わり、ではないのです。理解させようとさまざまな工夫を凝らしています。いわばテクニカルコミュニケーションのための工夫です。

理解させるために、どうしているか。一つは「インタープリター」と呼ばれる展示解説員が大勢配置されていて、展示の内容を解説してくれたり質問に答えてくれたりするのです。広い意味でインタープリターはテクニカルコミュニケーターといってよいでしょう。

展示そのものも理解を促す作りになっています。たとえば、インターネットのメールの仕組みを、ミニチュアのジェットコースターのような設備の上を移動するピンポン玉の動きで説明する展示がありました(残念ながらその日は稼動していませんでしたが、どうやらPOPサーバーやSMTPサーバーの働きも理解できるようになっているようでした)。DNAの働きを理解させるパズル、中に入って内部を体験できる宇宙ステーションの実物大模型、ロボットを動かすプログラミングのセミナー、バーチャルリアリティを体験できるスペース、貸与されたICカードでユビキタスコンピューティングを体験できるエリアなどもあります。

科学未来館のシンボルともいうべきジオコスモスも見ものです。吹き抜けの空間に吊り下げられた直径6.5メートルの球体なのですが、表面に計100万個の発光ダイオードが貼り付けられており、衛星から送られてきた地球の映像が表示されるようになっています。つまり、いま地球を宇宙から見たらどう見えるかがジオコスモスでわかるわけです。

科学未来館が素晴らしい施設であることは間違いありませんが、少々不満も残りました。「理解させる」工夫は大いになされていますが、正直なところ難しくて退屈な部分もありました(たとえばDNAの解説)。生物界にしろ宇宙にしろ、この世界には驚きが満ち溢れており、それに触れることができるというのが科学の最大の魅力だろうと思います。科学というのは本来、退屈なものではないはずです。動物行動学者のリチャード・ドーキンスは『虹の解体』のなかで「科学がもたらす自然への畏敬の気持ちは、人間が感得しうる至福の経験のひとつであるといってよい。それは美的な情熱の一形態であり、音楽や詩がわれわれにもたらすことのできる美と比肩しうるものである。」と述べています。この「至福の経験」を味わいながら科学を学ぶことができないものだろうか、と思うのです。

科学未来館にはまだまだ前進の余地があるはずですので、今後のさらなる発展に期待したいところです。(2005.5.7)

No.313 アシスタントAのこと

以前、当サイトをご覧になったことがある方のなかには、「誰がやっているの?」のページに2匹の猫が掲載されていたのをご存知の方もいらっしゃることと思います。当サイトを開設した際、一種のジョークとして我が家の猫たちもアシスタントA、Bとして写真付きで紹介していたのです。

猫たちをアシスタントとしたのは、しかしながらジョークだけでやったというわけでもないのです。仕事上、何か画像データが必要な際、よく彼らの写真を使っていましたし、それはその後もずっと続けていました。その結果、彼らの写真は、書籍、雑誌、新聞などに掲載されてきました。つまり、彼らは当事務所の専属モデルとして立派に仕事もしてきたわけです。

その2匹のうち、アシスタントAのほうは、高齢と病気により4月14日に往生を遂げました。13歳だったのですが、人間でいうと70歳を超える年齢になるようです。かつて「キャットイヤー」について当コラムで書いたこともありますが、改めてその早さを思い知らされましたかっこうです。ペットとして、というよりも家族の一員として私たちの心を慰め、そればかりでなく仕事のうえでも大いに役立ってくれたこの猫に対して、感謝の気持ちは尽きません。

これを機会に、猫をアシスタントとして紹介するという企画は終了することにしました。もちろんアシスタントBのほうはまだまだ元気です。ときおり寂しそうな様子は見せるものの元気にやっています。これからもモデルとして働いてもらうこともあるでしょう。(2005.4.30)

No.312 ドメインを取得する

このサイトのURLが http://www.itotechwrite.com/ になりました。いわゆる独自ドメインです。前々から独自ドメインを取得したいと思っていたのですが、使用しているWeb制作ツールFrontPageとプロバイダーの相性に小さな問題が出たことで背中を押されるかっこうとなりました。

ドメイン取得にともなって、仕事用のメールアドレスも kunio-i@ops.dti.ne.jp から kunio@itotechwrite.com に変えました。今後はこの新アドレスのほうにご連絡いただければと思います。旧アドレスもしばらくは残しておきますので、当面はどちらのメールアドレスにご連絡をいただいても問題ありません。

さくらインターネット」という業者を利用しましたが、取得の手続きは簡単なものでした。ネット上のフォームに必要事項を入力するだけ。代金は年間1800円。別途、ホームページを置かせてもらうためのレンタルホストの利用料金が年間1500円かかりますが、それでも合計で3300円です。単行本1冊分あるいは高めのディナー1回分といったところでしょうか。これでインターネット上の一戸建てともいうべき独自ドメインのホームページが開設できるのですから、安いものです。

あたらしいドメインとなったわけですが、今後も以前同様よろしくお願いいたします。(2005.4.23)

No.311 エジソンに学ぶ

先日、『快人エジソン』(浜田和幸著、日経ビジネス人文庫)という本を読みました。発明王エジソンは私の小学生時代のヒーローで、当時読むことのできた子供向けの伝記2冊を両方とも読み、彼のようになりたいという気持ちを募らせたものでした。『快人エジソン』は、エジソンの人となりを紹介する本ではありますが、かつて私の読んだ伝記とは異なり、エジソンの破天荒な部分やビジネスマンとしての才能などにスポットを当てたエピソード集のような感じです。
興味深いエピソードがたくさん登場するのですが、そのなかの一つをご紹介しましょう。彼の研究所が火事で焼け落ちた際のことです。その光景を前にして、エジソンはこう述べたというのです。「自分はまだ67歳でしかない。明日から早速、ゼロからやりなおす覚悟だ。そうすれば、今よりもっと大きく立派な研究所ができる。意気消沈などしているヒマはない」
その道のりはけっして楽なものではなかったようですが、実際にエジソンはその言葉どおり研究所を復活させるのです。
老人といってもよい年齢の人間が「自分はまだ67歳でしかない」と言い切り、「ゼロからやりなおす」と覚悟を決め、そしてそれを実行して実現するのです。その人がこれから何をすることができるか、その人間の可能性を決めるのは、年齢などではないということをエジソンは身をもって証明しているのではないでしょうか。
このことに感嘆するとともに、大いに励まされもしました。(2005.4.16)

No.310 速達の新記録

先日、ある用件で手紙を郵送しました。翌々日までに届いてもらう必要があったので、「間に合ってくれよ」という気持ちで速達で送ったところ、なんと投函から2、3時間後に「届きました」と相手から電話連絡があったのでした。
驚きました。投函したその日に、しかも、2、3時間後に手紙が届くなどということがあるのですね。もっとも、速達は郵便局に直接持っていき、しかも相手の住所はその郵便局の近くだったので、好条件がそろっていたわけでしょう。
うまくいって翌日、へたをすれば翌々日と思っていたので、嬉しい誤算でした。皆さんも郵便というと「遅い」というイメージをお持ちではないでしょうか。「電子メール」との対比で郵便の手紙を「原始メール」などと侮蔑的に呼ぶ例も以前は見受けられました。しかし、宅配便よりも安い料金で当日に到着したという結果だけをみるならば、「原始メール」などと呼んではいられないのではないでしょうか。
今回の快挙は、好条件が重なりに重なったうえでの僥倖であったのか、それとも公社化そして民営化へという流れのなかでの郵政の変化の表れなのか、いまのところはわかりませんが、私のなかでは郵便への注目度を大いに高める出来事でした。(2005.4.9)

No.309 効率アップに関する空想

やっとギアがトップに入ったと思ったら、もうツアーは終わりさ――以前、ローリングストーンズのギタリスト、キース・リチャーズがインタビューでこのように語っていたと思います。ローギアから1段ずつシフトアップしていき十分速度が上がったところでトップギアに入れるという車の加速方法にたとえて、もっとツアーを続けたいという気持ちをユーモラスに表現した言葉です。

ロックミュージシャンに限らず、仕事においてそのように「加速」する人は少なくないのではないでしょうか。テクニカルライターもそうではないだろうか、と私は思うのです。

そうだとするならば、いかに早くトップギアに到達するか、そしてトップスピードを維持するか、ということが仕事の効率を高めるうえで重要になりそうです。いかにトップスピードがすばらしくてもそこに到達するのに長い時間がかかってしまっては意味がありませんし、トップスピードが一瞬しか続かずすぐに失速してしまうというのでも困りるからです。

トップギアに到達するということは、何かしらの段階を踏んでそこへ到達するということです。どういう段階を踏んでいくのか、それは人それぞれでしょう。自分のパターンを見つけることができれば、上手に短い時間でトップギアに到達できるようになるかもしれません。また、いかにしてトップギアから失速していくかについても、パターンを見つけることができれば、それを回避することができるようになるかもしれません。

なんてことを、車を運転しながら考えていたしだいです。(2005.4.3)

No.308 勤勉ということ

少年老いやすく 学なりがたし――子どものころ、誰しも一度や二度はこの言葉を大人から言われたことがあるのではないでしょうか。調べてみると、これは中国の朱子の残した漢詩の「偶成」の冒頭部分「少年易老學難成」を日本語読みしたものだということです。

どうしてこんな古いものを引っ張り出してきたかといいますと、『ダーウィンの家族の絆』(ランドル ケインズ著、渡辺 政隆/松下 展子訳、白日社刊)を読んでいて、チャールズ・ダーウィンの勤勉さ、粘り強さに唸らされたからなのです。

「(進化論の)原稿に埃が積もるのを尻目に、チャールズは8年間をフジツボの標本に捧げた。1846年10月から1851年まで、アニーが毎日目にしていたのは、書斎の窓際に置かれた顕微鏡のレンズの下でフジツボを解剖し続ける父親の姿だった。」(p.245)

アニーというのはダーウィンの娘です。ダーウィンは陶器メーカー「ウェッジウッド」の創始者ジョサイア・ウェッジウッドの孫ですから、あくせく働かなくても食べていける富裕階級の人間です。そういう立場の人間が、8年もの間、毎日フジツボの解剖を続けていたというのですから驚かされます。もちろん学問的な興味を感じ、研究の喜びを感じながらの日々だったとは思いますが、彼はすでに進化論の構想を持っていて、それが社会にとって大きな意味を持つものだということもわかっていたのに、その発表をせず、大きく回り道をするかのようにフジツボの研究に取り組んでいるのです(進化論は1858年に発表された)。このフジツボの研究は、最終的には進化論を説明するのに役立ったわけですが。

「少年老いやすく 学なりがたし」に続けて朱子はこう歌います。「一寸の光陰 軽んずべからず」。光陰は「光陰矢のごとし」の言葉でも使われているように「時間」を意味しますから、少しの時間も無駄にせずに励めということでしょう。ダーウィンはもちろんこんな言葉は知らなかったことでしょうが、一寸の光陰を軽んずることなく、その努力によって学をなした、といってよいのではないでしょうか。(2005.3.26)

No.307 トラベルでトラブル

先日のこと、遠方から友人がやってくるので、楽天トラベルで横浜のホテルの空きを調べ、ロケーションのよいホテルを友人に推薦しました。友人がそのホテルを楽天トラベルで予約したということを確認し、当日を迎えました。

友人と落ち合って話を聞いたところ、予約確認のメールなどは受け取っていないとのことでした。予約が成立していればメールがくるはずです。友人に頼んでホテルに確認の電話をしてもらったところ、やはり予約は入っていませんでした。

友人の話によると、私の推薦したホテルを予約すべく「予約」ボタンをクリックしたところ、楽天トラベルの会員になるよう表示され、指示にしたがって会員になったとのこと。どうやら、入会手続きまでは済んだものの、予約の作業のほうは途中で終わってしまっているようです。入会後、あらためて予約の手続きをすべきだったわけです。

友人はパソコンユーザーではあるものの、どちらかというと初心者で、宿の予約も今回は初めてでした。私の想像では、今回のようなケースに陥ってしまう初心者は少なくないと思います。「予約」ボタンをクリックした以上、もう予約は成立していると考えるのが当たり前だからです。注意深く画面の表示を読んでいけば避けることのできたトラブルかもしれませんが、利用者の誘導方法にも不十分な点があったのではないかと思います。

日本でも有数の宿泊予約サイトでもこういうことがあり得るのだなあと意外な感じもし、初心者を迷わせずに誘導することの難しさも考えさせられる一件でありました。

ちなみに友人は、当日、横浜駅近くのビジネスホテルに空きを見つけ、無事に泊まることができたのでした。(2005.3.19)

No.306 斧を研ぐ

昨日、届いたSTCの会誌「インターコム」3月号に「フリーで成功するための七つの習慣(Seven Habits for Successful Freelancing)」という記事が載っていました。

人は未来を定めることはできないが、自分の習慣を定めることはできる。そして、未来は習慣によって定められる。では、フリーランスとして成功するためのよい習慣とは何か…。という内容です。

この記事のなかに面白い小話が出ていました。よい習慣の一つ「自分自身を訓練する(Train yourself)」の解説として示されたものです。こんな内容です。

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木こりたちがジャングルで働いていました。彼らは、自分で切り倒した木の数に応じた給料を毎晩もらいます。あるとき新しい仲間が入ってきて、彼はより多く稼ごうと昼飯の時間も木を切りました。しかし、一日に切り倒す木の数は、他の木こりとまったく変わりません。なぜか。他の木こりたちは昼飯のあと、お喋りをしながら斧を研いでいたのです。

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仕事するばかりでなく、自分の能力を高める努力も欠かせないよ、というわけです。大いに同感するしだいです。

皆さんは、自分の斧を研いでいますか?(2005.3.12)

No.305 ソーシャルネットワーキングサービス「ミクシー」

インターネットでソーシャルネットワーキングサービス(SNS)というサービスが昨年から徐々に広まっています。日記、掲示板、メンバー同士のメッセージ交換などが可能な、オンラインコミュニティです。もともとは米国で始まったものですが、国内にもSNSがいくつか存在しており、もっとも規模の大きいmixi(ミクシー)には現在40万人のメンバーがいます。

SNSの特徴は、参加メンバーから招待された人しか参加できないという点です。メンバーは必ず他のメンバーの知り合いであるわけで、インターネットの多くの掲示板のような「匿名の世界」ではありません。それゆえ、非常識な言動が抑制され、安心して活動できる雰囲気が醸成される傾向があるようです。

日記、掲示板、メンバー同士のメッセージ交換といった程度のことであれば、あえてSNSに参加するほどのこともないと思われる方も多いと思います。しかし、SNSの面白さは別の部分にあります。メンバー同士のつながりや、各メンバーの参加しているコミュニティ(グループ)が一覧できるようになっているのです。例えば下の画像は、私の知り合い(マイミクシィといいます)の一覧です。小さい四角の一つ一つが、私の知り合いを表しており、それをクリックするとその人のプロフィールが表示されます。私が参加しているコミュニティも、同様の形式で表示されます。

mixiスクリーンショット

mixiのなかでは、メンバーは「自分にどういう知り合いがいるか」「自分が何に興味を持っているか(どういうコミュニティに参加しているか)」を掲げながら行動することになるわけです。そして、出会った相手の知り合いと自分も知り合いになったり、出会った相手の参加するコミュニティに自分も参加したり、といった具合に、自分の世界をどんどん広げていくことができるのです。ここにSNSの魅力、面白さがあると思います。

mixiをひと月ほど利用してきての、いまのところの感想です。

*私の知り合いの方でmixiをやってみたいという方がいらしたら、ご招待しますので、ご連絡を。(2005.3.5)

No.304 ヘルプファイルのライターにタマネギ賞

日経バイト表紙

「言うまでもなく、HELPはまったく役に立たない。ニンニクの束を添えたタマネギ賞をHELPファイルのライターたちに贈る」

日経バイトの3月号の「混沌の館にて」で作家ジェリー・パーネル氏は、マイクロソフトのWordのヘルプファイルを書いたテクニカルライターをけなしています。「タマネギ賞」と「賞」はついているものの、これはダメなものへ与えられる賞なのです。

皆さんはどうお感じでしょうか。私は、ヘルプが役に立ってくれなくて腹立たしい思いをしたこともありますから、パーネル氏の気持ちがわかります。ヘルプに限らず、マニュアル全般において、ほしい情報が見つからない、説明は見つけたものの意味がわからない、といったようなことはよくあるものです。ユーザーとしては、間違いなく腹立たしい状況です。

一方、さまざまな制約のなかでくだんのヘルプファイルを書いたであろうテクニカルライターの気持ちもわかるように思います。「あらゆる状況を想定してヘルプを用意することなどできないんだから、パーネルさんには申し訳ないがあなたはアンラッキーだったんだよ」などと言いたい気持ちかもしれません。

しかし、やはり私たちが目を向けなければならないのは、ユーザー側の気持ち・意見です。ヘルプやマニュアルを作る側が、ユーザーの要望に応えられなかったことについて、「時間がなかったから」「予算が少なかったから」「そんなのどだい無理な話だ」といった言い訳で片付けてしまっては進歩はないことでしょう。(2005.2.26)

No.303 壮大なる交換日記

2005年2月19日の雪景色ウェブサイトの一形態であるブログは、昨年から国内でも普及しだし、いまでは個人が運営するサイトの主流の形式となったように思われます。手軽に始められて日々の更新も簡単であることから、大勢のパソコン初心者の方々がブログを始めた、その結果でしょう。多くのポータルサイトが無料でブログのサービスを提供していることも流行を後押ししています。私が利用しているエキサイトブログだけでも、17万サイトが開設されています。パソコンの初心者でもすぐに世界へ向けての情報発信ができるのですから、今後もブログは増え続けるのではないでしょうか。

その個人のブログですが、見てみるとかなりの割合が日記的な内容になっています(デジカメで撮影した写真も手軽に載せられますから、絵日記的でもあります)。私自身が運営しているブログもそうです。そしてブログ仲間で、互いの日記にコメントを書き合うということも一般的に行われています。これは何かに似ていないでしょう。そう、これはまるで交換日記なのです。

もっぱらブログは「個人によるジャーナリズム」といった観点で語られることが多いと思いますが、それと比べると、ブログが交換日記であるなどというと言い方はずいぶんブログを矮小化してしまうことになりそうです。しかし、誰でも読むことができ、誰でも書き込むのことできる、世界に開かれた交換日記―そう考えると、なかなか壮大な感じもするのではないでしょうか。(2005.2.19)

*上の写真は今朝撮影したものです。ふだん雪の降らない土地で見る雪景色は、新鮮で心躍るものがありますね。

No.302 ミャウリンガル体験

ミャウリンガルどうしたわけか妻の実家からミャウリンガルタカラ)が送られてきました。「猫の気持ちを翻訳する」というのがキャッチフレーズの製品です。「犬の気持ちを翻訳する」というバウリンガルの猫版といったほうがわかりやすいでしょうか。いっけんオモチャのようですが、「日本における音声科学分野の第一人者である日本音響研究所の膨大な声紋データと声紋分析技術をもとに開発された”動物感情分析システム”」だそうです。価格も9240円と、単なるオモチャというにはかなり高価です。

主な機能は、ネコ語翻訳、しぐさ翻訳、健康チェック、ミャウ占い、ミャウ友チェックの五つ。取扱説明書もちゃんと付属しています。30ページもある、本格的なものです。ただ、文字が非常に小さいのが気になりました。タカラは、年配者のユーザーは想定していないのでしょうか。

我が家には猫が二匹おりますので、さっそく試してみました。翻訳のモードにして、ミャウリンガルをネコに向け、鳴くのを待つのです。しかしながらネコはこちらの都合よく鳴いてはくれません。鳴かそうと呼びかけると、その声をネコの鳴き声として翻訳されてしまうこともしばしば。しばらく放っておいて、ネコが鳴き出したときにミャウリンガルの電源を入れ、やっとのことで翻訳に成功しました。

翻訳の結果は、当たっていることもあれば外れていることもある、という感じ。そもそもうちのネコが鳴くのは腹がへったか喉がかわいたかのどちらかである場合がほとんど。小さいころから飼っている猫ですから、それくらいのことはわかります。鳴き声の翻訳については、ミャウリンガルに頼るまでもないという結論にいたりました。むしろ、ネコのしぐさの意味を調べられる「しぐさ翻訳」やネコの様子から健康かどうかを判断できる「健康チェック」のほうが役に立ちそうです。

ミャウリンガルより、最近めっきり無口になった息子たちの気持ちを翻訳してくれる装置でもあるとよいのですが…。(2005.2.12)

No.301 「説明書がいらないくらいカンタン」に思う

ツーカーSの街頭広告その日、新宿駅西口地下のロータリーは携帯電話ツーカーSのポスターだらけでした。小林桂樹の扮する頑固者風の老人が携帯電話を手に「なんだカンタンじゃないか」とほほ笑む、そういう広告で、「説明書がいらないくらいカンタン」がそのキャッチコピーです。

携帯電話といえば数百ページもあるマニュアルが付いてくるのが普通ですから、それが不要とはどういうことなのか。正確には「説明書がいらない」ではなく「説明書がいらないくらい」なので、実際は何かしら説明書が付いてくるはずですが、日常の操作については説明書なしで使える製品なのでしょう。

ツーカーのウェブサイトをみると、説明書のいらない理由は二つ挙げられそうです。一つは、機能を通話だけに絞っていること。固定電話と同じ機能しかないわけですから、説明しなければならない事柄自体があまりない。使う側も「何ができるか」とか「どういうときにどうすればいいか」とか、そんなことで悩む必要はありません。もう一つは、ボタンに複数の機能を持たせていないことです。一般の携帯電話は、たとえば電源のON/OFFと通話を切る操作を同じボタンで行いますが、ツーカーSは電源操作はスライド式のスイッチで行い、通話を切る操作は「切」ボタンを使うようです。これなら迷うことはないはず。

高齢者の増加と歩調を合わせるようにして、機能の豊富さよりも使いやすさに主眼を置いた製品は今後はさらに増えていくことでしょう。そういう傾向のなかでテクニカルコミュニケーターはどのような役割を果たせるか、私たちが考えていかなければならないテーマですね。(2005.2.5)

No.300 カモを敬う

片足で立って眠るカルガモいつもの散歩コースを歩いていたら、カルガモが片足で立って寝ていました。カモに限らず片足で寝る鳥は多いそうです。他の生き物に襲われたときにすぐに飛び立てるし、羽毛のない足を片方隠すことで体温の消失を減らせる、というのがその理由だとか。生き残るためなら、生き物はなんだってやるのですね。

カルガモは日本に棲みついている留鳥ですが、他のカモは冬だけやってくる、いわゆる冬鳥です。他の季節はどこにいるかというと、なんとシベリアだそうです。彼らにとって、日本は避寒地であり、シベリアが避暑地なわけです。地球規模の範囲で移動し、地上、空、水面を自由に行き来する――そう考えると、鳥というのは、生物としてもっとも成功したグループなのかもしれません。さすが恐竜の子孫であることだけのことはある、なんてことを片足でのんびり眠るカモの姿を見ながら思うのでした。(2005.1.28)

No.299 招き猫雑感

寝ころがった招き猫我が家の玄関には旅先で買った招き猫が置いてあります。ふつう招き猫というと白猫で、姿勢も体を立てて正面を向いていますが、我が家のは黒猫で、仰向けに寝ころがってニヤケタ顔をしているのです(よく仰向けで寝ている当事務所のアシスタントに似てなくもない…)。

広辞苑によれば「まねきねこ【招き猫】すわって片方の前足を挙げて人を招く姿をした猫の像。顧客・財宝を招くというので、縁起物として商家などで飾る。」ということですから、前足を挙げているのは「顧客・財宝を招く」という意味があるのですね。しかし、我が家の招き猫の場合、単に毛づくろいをしているか、せいぜい「よぉ」と軽く挨拶しているくらいにしか見えません。まあ、きちんと正面向いているよりもぐうたらしているほうが猫の実態に近いわけですが。

ところで、招き猫美術館というのも存在するようです。知らなかった…。日本は広いですね。(2005.1.22)

No.298 『ロスト・イン・トランスレーション』を観る

DVDで「ロスト・イン・トランスレーション」という映画を観ました。 フランシス・フォード・コッポラ監督の娘ソフィア・コッポラが監督した作品で、アカデミー賞オリジナル脚本賞などを受賞している佳作です。

東京に酒のコマーシャル撮影のためにやってきた往年の映画スター・ボブ(ビル・マレー)と、カメラマンの夫に伴われてきたものの夫に放置されて身をもてあましているシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)、この男女が出会い、しだいに打ちとけあっていく。そしてそれとともに、ボブも東京とのコミュニケーションの回路を開いていく…。

映画の題名にも表現されているように、この映画はコミュニケーションのギャップ(すき間)が一つのテーマになっています。それがもっとも端的に表現されているのが、コマーシャル撮影の場面です。そのコマーシャルの監督が、なかば怒鳴りながらボブに対して、テンションを上げて、感情を込めて!安い酒じゃないんだから、一番高い酒なんだから云々と日本語でまくしたてるのですが、それを通訳が気を利かせてということか、感情的表現は省いてごくごく短い言葉でボブに伝えます。しかし、ボブのほうは「それだけ? 監督はもっとたくさん言っていたじゃないか」と戸惑うのです。

ロスト・イン・トランスレーション(Lost In Translation)は、直訳するなら「翻訳における喪失」といったことでしょうか。ソフィア・コッポラは、単に翻訳や通訳を介したギャップだけを指してこのような題名をつけたのではないでしょう。異邦人としてやってきた者と土地の者、文化と文化、夫と妻、男と女、そういったさまざまな関係におけるコミュニケーションのギャップを含めているように私には思えます。そして映画全体からは、このギャップを私たちは完全にではないにしても埋め合わせることができる、その努力をする価値があるというというポジティブなメッセージも感じられました。

さて、このコミュニケーション、トランスレーションということは、まさに私たちの仕事に深く関係しているテーマでもあります。テクニカルコミュニケーションは、技術情報を分かりやすい形にトランスレーション(翻訳)することだと考えられるからです。実際、仕事のなかでさまざまな形の「ロスト・イン・トランスレーション」の発生に私たちはしばしば直面するのではないでしょうか。そんな目でこの映画を観てみると、いっそう興味深く楽しめるように思います。

なお、これから映画を観るという方には、ラストのクレジットのロールアップが始まったところでDVDを取り出すのではなく、BGMとちょっとした映像があるので最後の最後まで観ることをお勧めします。(2005.1.15)

No.297 カモを見る

今年になっても、まだカモの観察を続けています。観察というと大げさですね。散歩がてら、川にいるカモを眺めるという感じです。

ホシハジロ今年初めての散歩ではホシハジロというカモを見かけました。この鳥とは初対面です。これまで、マガモ、カルガモ、オナガガモ、ハシビロガモ、キンクロハジロ、コガモ、ヒドリガモ、アヒルと出会ってきましたが、そこにまた新しい種類が加わりました。カモの仲間以外も含めると、コサギ、カワウ、ハクセキレイ、ムクドリといった鳥たちも見てきました。

はからずも今年の干支にふさわしい趣味ができたわけで、しばらくはこの散歩がてらのバードウォッチングを続けようと思います。

ところで、今日、散歩していると、中年の夫婦がカモたちを見ながら「アヒルかしら」「いや、あれはカモじゃないか」という会話をしていました。とくに鳥に興味のない人にとっては、カモもカリもアヒルも似たようなもの、同じカテゴリーに分類されるものなのでしょう。私もつい最近までそうでした。

そういえば、一人暮らしを始めて自炊するようになるまで、私はレタスと白菜とキャベツの区別がつきませんでした。ぜんぶひとまとめに「大きな葉っぱのような野菜」と認識していたのです。特に注意を向けないかぎり、人間の認識というのはそのように大雑把なものなのでしょうね(私だけ?)。(2005.1.8)

No.296 年頭に思う

義理の母からマレットゴルフというスポーツの存在を教わりました。一言でいうと簡易ゴルフあるいは、ゲートボールっぽいゴルフのようなもののようです。義母も含め、年配の方々の間では大変なブームになっているそうです。

日本マレットゴルフ協会によると、このスポーツは昭和50年代に福井県と長野県で別々に考案され、統合されて他県へも広まり、現在の競技人口は50万人を超えるそうです。長野県だけでもマレットゴルフ場の数は200とも300とも言われています。空き地でやるゲートボールなどと違い、専用の競技場ですから、すごいものです。

自分の知らないところでこんなに普及しているスポーツがあったとは、と驚きを感じました。しかし、このように自分の知らない世界というのは、まだまだほかにもたくさんあることでしょう。というより、自分が知っている世界というのが、世界全体のなかのごくごく狭い領域にすぎないということなのでしょう。

そういえば、息子たちが小学生のころ、私の知らないさまざまな遊びを彼らは楽しんでいました。子供には子供の世界があるのだなと思ったものでした。川べりのウォーキングによって、何種類ものカモが身近にいるということに最近気づきましたが、そんなカモの多様性も、私の知らない世界でした。

世界は広い。広くて奥深い。そんなことを思う2005年の年頭であります。(2005.1.4)

No.295 今年を振り返って

もうすぐ2004年も終わりです。この一年間、病気らしい病気、怪我らしい怪我もなく、あるいは仕事がなくて干上がってしまうということもなく、なんとか仕事をしてこれたことを嬉しく思います。

仕事周辺について今年を振り返ってみると、いくつかの変化が感じられます。

○業務システム用マニュアルの台頭

今年請け負った仕事の内容を見ていくと、(1)パソコンソフトの活用本(書籍)、(2)パソコン本体のマニュアル、(3)業務用システムのマニュアル、(4)サービスマニュアル、この4種類にだいたい分けられます。パソコン用市販ソフトの製品マニュアルは、メーカーでの内製化が進んでいるのか、あまり話がこなくなりました。市販ソフトは定番化が進み、新規のマニュアルが書かれるということが少なくなってきたせいかもしれません。バージョンアップなら、外注するまでもない改訂で済むことが多いですから。

その代わり、業務用システムのマニュアルが増えてきたようです。パソコンは以前から企業内の業務に使われていますが、パソコンの性能向上と低価格化、インターネットやLANの普及などにより、業務に本格的に導入されるようになってきたということでしょうか。そうなると、業務用のシステムが必要になり、そのためのマニュアルも必要になる、というわけです。この傾向は来年も続くのではないかと思います。

○常駐案件の増加

TCストリートで募集されるジョブを見ていると、クライアントの社内に常駐することが条件の一つになっているケースが増えているようです。当事務所へもそういう依頼がくることがあります。

これは納期短縮という命題に対する一つの解として選択されているように思われます。常駐のほうがクライアントとのコミュニケーションは容易になるので、納期短縮の効果が期待できるからです。マニュアル業界に限らず、納期の短縮は大きな傾向となっているようなので、常駐ということが要件になってくるのでしょう。

常駐の案件の場合、拘束期間がどの程度になるかということが重要になってきます。フリーランサーが、例えば1年間一つのジョブのためにある場所に常駐したとしたら、安定した収入が得られる反面、その1年の間に他のクライアントやエージェントとのつながりがすっかり希薄になってしまう恐れがあるからです。長期間の常駐については、受注するかどうか、難しい判断が迫られます。

常駐案件がさらに増えるかどうかはわかりませんが、その傾向が続くことは間違いなさそうです。

○スパムの増大

人にもよると思いますが、受け取るメールの大半がスパム(広告などの迷惑メール)だという人は少なくありません。私の場合でも、8割くらいはスパムです。たとえていうなら、郵便受けにぎっしり詰め込まれたダイレクトメールのなかに、知人や取引先からの手紙がチラホラ混じっている、そんな状況です。電子メールの場合は物理的に場所をとらないとはいえ、これほどの数ですと放っておけない問題です。スパムは、インターネットの大きな課題の一つになってきたといってよいでしょう。

現状できることは、せいぜいメールソフトのフィルタ機能でスパムを自動的にゴミ箱に放り込むくらい。とはいっても、スパムの巧妙化により、フィルタをすり抜けるものが大半ですから、焼け石に水の観があります。早くインターネットがこんなふうでなくなってくれるとよいのですが。

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今年は、そんなところでしょうか。皆さんは、いかがでしたか。

それでは、どうぞ、よい年をおむかえください。(2004.12.26)

No.294 カモカモカモ

この一週間は、カモ漬けの日々でした。カモ鍋、カモ南蛮といったカモ料理ばかり食べていた、ということではなく、ウォーキングの際にカモを追い、撮影してきたのです。以下の8種類のカモの写真は、すべて家から歩いていける範囲で撮影したものです。いやあ、身近にこんなにいろいろなカモがいるとは知りませんでしたよ。驚きました。

マガモ
マガモ
オナガガモ
オナガガモ
カルガモ
カルガモ
コガモ
コガモ
ヒドリガモ
ヒドリガモ
ハシビロガモ
ハシビロガモ
キンクロハジロ
キンクロハジロ
アヒル
アヒル

(2004.12.18)

No.293 カルガモとオナガガモ

先日のことです。ずいぶん早い時間に起きてしまったので、夜明け前にウォーキングに出かけてみました。ウォーキングのコースとしてよく使っている公園に行ってみると、まだ薄暗いのに公園脇を流れる川に鳥たちがたくさんいました。

川面に遊ぶ鳥たち
<川面に遊ぶ鳥たち>

夜明けの景色などを撮っておこうとデジカメを持ってきていたので、暗い水面で遊ぶ鳥たちの姿をフィルムに…、いやメモリカードにおさめました。そのときは意識していなかったのですが、あとで写真を見てみると、写っている鳥は一種類ではないようなのです。鳥たちは一群となって一緒に行動していたのですが。

一種類は、くちばしの先が黄色っぽく、目のところに長いアイラインのような模様があります。もう一種類は、くちばしは黒で、頭が黒っぽく、頭の後ろから首にかけてが真っ白です。どうでしょう、同じ種類に見えますか?

一部分を拡大した写真
<一部分を拡大した写真>

真相に迫るべく、「Yachoo! オンライン野鳥図鑑」で調べてみました。カモ科であることは間違いなさそうなので、カモ科の写真を順番に見ていくと、ありましたありました。くちばしの先が黄色っぽくなっているほうはカルガモ、頭の後ろから首までが白くなっているほうはオナガガモのようです。説明によると、どちらも日本にたくさんいる鳥のようですから、こうして近くの川にいてもおかしくありません。

面白いのは、カルガモは留鳥として日本に棲みついているのに対し、オナガガモは渡り鳥で、日本には冬の間だけ滞在するということです。ということは、私の見た鳥たちもいまは一緒に行動しているものの、やがて春になればオナガガモたちはカルガモたちに別れを告げ、大陸のほうへと渡っていくことになるはずです。なんだかドラマチックですね。(2004.12.11)

No.292 ペイントショップ9

2002年の当コラム(No.168)にて、画像編集ソフト「ペイントショップ」は昔のバージョンのほうが使いやすかったという話を書きました。当時使っていたのはバージョン7で、それ以上のバージョンアップに期待がもてなかった私はバージョン8は購入しませんでした。

先ごろ発売されたペイントショップの新バージョン(バージョン9)にはスクリプト機能(簡易プログラム機能)が搭載されているというので、さっそく購入しました。たまたま現在進行中の仕事でペイントショップを使っており、資料からスキャナで取り込んだ画像にいくつかの加工処理を行うという単純作業の繰り返しがありましたので、スクリプト機能を使えばそれが効率化できるのではと考えたからです。旧バージョンのユーザーなので、価格の安いアップグレード版(7400円)を購入することができるというのも魅力でした。

Paint Shop Pro version9のスクリーンショット

使ってみて驚きました。バージョン8を飛ばしているせいもあるでしょうが、バージョン7と比べてずいぶん使いやすくなっているのです。今回はスクリプト機能のために購入したようなもので、それ以外の部分については特別期待していなかったため、なんだか得したような気分です。もちろんスクリプト機能も役に立つものでしたが、それ以上に全体的な使いやすさの向上に目をみはらされたのでした。

使ってみるとわかるのですが、マイクロソフト製品のユーザーインターフェースのよいところを上手に取り入れており、それが功を奏しています。その代表が、ツールバーとメニューのカスタマイズ機能です。ツールバーやメニューから好きなものを選んでツールバーの任意の位置に配置することができるのです。不要な機能はツールバーから隠すこともできます。ソフトに装備されている機能のうち、ふだん使うのはごく一部にしか過ぎないので、そのごく一部の機能だけをツールバーに出しておくことで、その機能の実行するのが簡単になりますし、使わない機能のボタンは隠れているわけですから画面もすっきりとするのです。机のうえがきちんと整理され、しかも効率よく仕事できるように文房具類が並べられている状態をイメージしてもらえばよいかもしれません。ペイントショップは、気持ちよく使えるソフトになりました。

インプレスのデジカメWatchにペイントショップの開発者へのインタビューが掲載されているのを見つけました。それによると、開発においてはベータ版でのユーザビリティテストを重視しているそうです。このバージョン9を見るかぎり、彼らのやり方は成功しているといってよいでしょう。(2004.12.4)

No.291 R246

  東京都千代田区の三宅坂交差点から静岡県沼津市の上石田交差点までを結ぶ国道246号線は、横長の神奈川県を上下に分けるように横断しており、神奈川のほぼ中央のあたりにおいて私の住むマンションのすぐ前を通ります。社会人になってから数回の引越しをしてきましたが、この国道から大きく離れたことはなく、私にとっては故郷の国道5号線にならんで愛着のある道路だということができます。

 この国道(沿線住民からはニイヨンロクと呼ばれます)は、交通量がたいへん多いのです。いつ見ても車が走っています。深夜であろうが夜明け時であろうが車が1分以上途切れることは、たぶんないでしょう。夜明け時など、長距離トラックが列をなして走っています。

 なぜそんな時間帯の道路状況を私が知っているかといえば、そういう時間帯に仕事をしていることがあり、ときには沿道のコンビニまで買い物に出たり、明け方にゴミを集積所まで出しに行ったりすることがあるからです。

 多くの人が寝ている時間帯に国道をひっきりなしに車が行きかうのを見るたび、私は思うのです。「すごいものだなあ」と。一台一台の車は、それぞれの事情でそれぞれの目的地に向かっているわけです。何かを運ぶため、何かを買うため、誰かに会うため、帰るため、ただ走りたいがため、車を走らせている。そして、それを総合した結果として、一晩中車の途切れることのない道路状況が生まれる。それは一言でいうなら、社会の活力ということだと思うのです。不景気であるとしても、やはりこの国の活力の絶対的な大きさというものは大変なものだという気がします。

 ちなみに、私が愛着を感じているもう一つの国道のほうは、私の中では1960年代のイメージのままで時間が止まっています。当時、あたりで唯一の舗装道路でしたが、車はまばらで、耕運機や 農耕馬が通ることも珍しくありませんでした。馬たちが通るのですから、むろん彼らの団子状の落し物が路上に残っていることもしばしば…。それは社会の活力というよりは、馬とか自然とかの活力というべきでしょうか。(2004.11.27)

 

No.290 スナック「ログイン」

 雨の朝の16号線。渋滞で動きの止まった車の中からふと横を見ると、「ログイン」という文字が目に入りました。よく見ると「スナック ログイン」とあります。これは面白いと思い、先日買ったCLIE TH55で車中から撮影。それが下の写真です。はっきりとは写っていませんが、濃いオレンジ色の看板に「ログイン」とあるのがなんとなくわかるのではないでしょうか。

  スナック「ログイン」の写真

 ログインというと、パソコンやネットなどの使用時に、ユーザーIDやパスワードを入力して、自分が正規のユーザーであることを伝える操作です。雑誌でそういう名称のものはありましたが、スナックの名前としてはミスマッチな感じが興味をそそります。これがネットカフェだったら普通のネーミングですが、スナックですからね。しかも、看板だけ見る限りでは、よく郊外の住宅街のはずれなどにある、昼は喫茶店、夜はスナック、といったおもむきの店のようです。オーナーがパソコン好き、ネット好きなのか、それともなんとなく語感が気に入って採用した名前なのか。案外、中はネットカフェのようにインターネットが使い放題になっていたりするのか。なんだか気になります。

 考えてみるとIT用語というのはけっこう水商売の店名に使えるかもしれません。

○スナック「パスワード」
秘密の場所っぽい感じが怪しげで、惹かれます。

○キャバレー「パケット」
かわいいホステスさんがいそうです。サービス内容の品質はベストエフォートでしょうか。

○バー「アンドゥ」
人生をやり直したい気分のときに、よいかもしれません。

○パブ「スパム」

一度行くと、あとが大変そう。店名としては不適でしょうか。おいしいスパム料理が売り物なら繁盛するかも。

(2004.11.20)

No.289 漫画喫茶

  ある日の出先での打ち合わせのあと、すぐに情報を文書にまとめて取引先にメールで送らなくてはならないことになりました。ノートパソコンの持ち合わせもなかったので、漫画喫茶を利用することにしました。

 文書作成とメール送信のために漫画喫茶へ? と疑問に思われる方もいるかもしれませんが、私の見たところ、漫画喫茶は緊急のそういう作業にとってほぼ理想的存在です。まず、漫画喫茶の多くは、インターネットに接続されたパソコンが置いてあります。そして個室が用意されている。料金は1時間で数百円程度。24時間オープン。そして繁華街ならだいたいどこにでもあるので、見つけやすい。漫画を抜きにしても、十分利用する価値のあるサービスなのです。もちろん、もしあなたが漫画を読みたければ、ずらりと並んだ漫画を好きなだけ読むこともできるわけですが。

 私は渋谷にいたのですが、すぐにMANBOOという漫画喫茶を発見し、入店。受け付けを済ませ、数千冊、もしかしたら数万冊はあろうかという漫画本が壁面の本棚にびっしりと並んだ通路を抜けて、指定された個室へ。ドアを開けて中に入ると、そこには椅子、机、パソコン、卓上ライトなどがありました。

 Windowsの「メモ帳」で簡単な文書を作成。メールはヤフー!メールを使用しました。この手のウェブメールサービスは、メールソフトがなくてもブラウザでネットにアクセスできる環境ならどこからでもメールが利用できるので便利です。メールは、取引先のほか、自宅でそのデータを取り出せるよう自分宛にも送っておきます。

 メール送信後、作成した文書を削除し、ブラウザの使用履歴なども消去。これはほかの人に情報が漏洩しないようにするためで、忘れてはいけない重要な処置です。これをおこなってもセキュリティ上の危険はゼロとはいえないのも事実です。例えばキー操作をこっそり記録するキーロガーというソフトがパソコンに仕込まれていたら、メールのパスワードが盗まれてしまうなどのおそれがあります。実際、インターネットカフェでオンラインバンキングのパスワードがキーロガーで盗まれたという事件もありました。機密度の高い情報については、漫画喫茶やインターネットカフェは利用しないほうがよい でしょう。

 そういう問題はあるものの、出先での突発的な状況に対応するうえで漫画喫茶が便利な存在であることは確かです。漫画喫茶は乱立気味のようですが、そういう競争の厳しい分野は、料金も安くサービスも充実しているものです。一度お試しを。(2004.11.14)

No.288 デジタル土方

  誰が言い出したのか知りませんが、最近「デジタル土方(どかた)」という言葉を見聞きします。カンのよい方なら、これがどういう意味なのかはすぐにおわかりになることでしょう。
 土方とはいうまでもなく「土木工事に従事する労働者」(広辞苑)のことです。私も二十代のころ経験したことがあるのですが、作業としては比較的単純なものの(頭を使わないわけではありません)、肉体的にきつい仕事です。肉体の酷使の代償として報酬を得る、という印象があります。
 となると「デジタル土方」というのは、デジタル、つまりコンピュータを使った仕事で、しかも肉体的にきつい労働、というイメージになるのではないでしょうか。
 現在の日本には、そう呼んでよい仕事、あるいは全面的にそうではないにしろある面ではそうである仕事、そういう仕事がけっこうあると私は思います。そして、コンピュータの普及に合わせて、そのような仕事に従事する人の数も増えてきているはずです。
 テクニカルライターという職業についてほとんど知らない友人に「どういう仕事か」とたずねられたとき、私は冗談まじりに「精神の肉体労働だよ」と答えたことがあります。そういう私にとっては、「デジタル土方」という言葉も「言い得て妙」と感じられました。もちろん、そうでない部分もありますが、テクニカルライターの仕事にデジタル土方的な面があることも確かだろうと思います。
 さて、仮に私たちの仕事がデジタル土方であるとして、そこからどう考えるかは人それぞれでしょう。土方的でけっこうと考えるのもよし、土方的でなくなるように務めるのもよし。あなたなら、どう考えますか?(2004.11.6)

No.287 クリエ

SONY CLIE PEG-TH55  電話を「京ぽん」に換えたのに続けて、PDAもカシオペアからクリエにしました。カシオペア(E-55)を購入したのは確か1999年。最近は使うことも少なくなっていましたが、パソコンに貯めたアドレスデータを携帯するための道具として現役でした。進歩の激しいデジタル分野において5年前の機器を使うというのは、21世紀に馬で畑を耕すようなものかもしれませんが、ちゃんと仕事をするよい機械でした。しかし、後進に道を譲ってもよい時期でしょう。

 クリエのほうは、5年前のカシオペアよりも値段が安く、それでいて能力は何倍か何十倍かありそうです。これはPEG-TH55という機種で、カメラが内蔵されているのが特徴。取材現場で撮った写真にメモを書き込む、という使い方を想定して購入しました。内蔵されているソフトだけではそれはできなかったので、インターネット上をかけずりまわるようにして探して、求める機能を備えたソフトをなんとか見つけました。その過程で、役に立たないソフトの購入に数千円を費やしてしまったのが悔やまれます。

 クリエやその上で動作するソフトを使ってみての感想ですが、ユーザーインターフェースやファイル管理の方式が、慣れ親しんだWindowsやMacintoshと違い戸惑う部分がけっこうあります。例えば、画面の下のほうにあるボタンを操作すると上のほうにメニューが出てくる、なんていう動作をするのです。もぐら叩きでもやっているような感じです。画面が狭いという制約から、そのようなユーザーインターフェースになっているのでしょうか。そういった違いが新鮮でもあるのですが、慣れるには少し時間がかかりそうです。(2004.10.31)

No.286 京ぽん

AH-K3001V(京ぽん)の写真

 先日、これまで使っていた日本無線のPHSから京セラのAH-K3001Vに機種変更しました。セラのエアエッジホン(DDIポケットの規格)ということで「京ぽん」の名で一部に知られている機種です。

 この電話機の特徴は二つ。一つは、PHSとしては初のカメラ搭載機であること。ケータイ電話全体でみればごくふつうのことですので取り立てて言うほどのことではないかもしれませんが、多くのPHSユーザーにとっては待望の機能です。

 もう一つは、オペラというブラウザを内蔵していることです。これは「取り立てて言うべきほどの」事柄です。インターネット上の通常のウェブサイトがこの電話機で見ることができるのです。携帯用のサイトではなく、通常のサイトが見られるのです(右の写真は、当サイトを表示しているところです)。もちろんメールもできますから、パソコンの用途としてもっとも大きいと思われるメールとウェブが、この片手におさまる電話機で利用できてしまうことになります。画面サイズの小ささや動作速度の遅さなど、パソコンより劣る部分はたくさんありますが、ともかくもメールとウェブがこの小さな装置で利用できるということに、私などは感慨を覚えないではいられません。

 メールソフト(Outlook/Outlook Express)のアドレスデータを取り込む機能や、文字入力の際に入力しようとしている言葉を予測して候補を表示する機能なども気に入りました。初めてケータイの類(やはりPHSでしたが)を買ったとき、それを手に載せてためつすがめつして、「こんな小さなもので誰にでもどこにでも連絡できるのだなあ」とワクワクした気持ちになったものでしたが、今回もそれに似たワクワク感があります。(2004.10.23)

No.285 違和感

 メールのあて先の名称に「様」や「さん」を付ける人が出てきたという話をNo.205で書きましたが、そのやり方を採用する人はますます増えているように思います。それを見かけるたびに私はひっかかりを感じてしまいます。顧客は「様付け」にし同僚や下請け業者は「さん付け」にするという例も見たことがあります(上司へや社長へのメールでは、「様」と「さん」のどちらを使うのでしょうか)。
 メーリングリストへの投稿の冒頭でビジネスメールの定型文である「いつもお世話になります」を使ったり、メーリングリストの本文中で相手を様付けで呼んだりする例もときどき見かけますが、これにも私は違和感を覚えます。
 このひっかかり、違和感は、いったいどこからくるのか。
 それはつまりこういうことのようです。かつてネットの世界は同好の士の集まりという雰囲気があったのでした。ネットにやってくるのはマニアばかりでしたから、そこで出会う相手もまた同じ趣味を持つ人なわけです。ネット全体が一つの秘密結社のごときものだったと考えてもよいかもしれません。掲示板もメーリングリストも、参加者の間にはちょっとした仲間意識があったように思うのです。だから、そこでは実社会での肩書きも、上下関係も、長幼の序も関係ない、ダイレクトで自由な人間関係が成り立っていたように思います。そこには「様」も「いつもお世話になります」も必要なかった。
 しかし、パソコンもネットも一般のものとなり、ビジネスの道具として普及した結果、利用者の意識は変わったのでしょう。ネットはもはや同好の士だけの世界ではなく、実社会と密着したものとなったのです。一般のビジネスマナーをネットの世界にも適用したいという気持ちが出てくるのも当然のことです。ましてや若い世代であれば、社会人となる以前からネットがビジネスの道具として存在しているわけですから、社会人になった時点でメール、メーリングリスト、掲示板にビジネスマナーを持ち込むのは自然なことかもしれません。
 とすると、私の違和感は単なるノスタルジーということかもしれませんね。もちろんネットの中には「肩書きも、上下関係も、長幼の序も関係ない」世界というのがまだたくさん残っていることは残っているのですが…。(2004.10.16)

No.284 マーゴンの夜に

 昨日はTCストリートのオフ会でした。会場は新橋にある喜山飯店という中華レストラン。マーゴン(台風22号の名称)のじわじわと接近する中13人が集まり、2時間以上にわたって揚州家庭料理と会話を楽しみました。それぞれの近況、業界の動向、そして趣味の世界の話まで、話題は尽きることがありませんでした。
 オフ会のたびに感じることですが、このように人と接し、会話をすることで、自分はエネルギーを注入されたような気がするのです。皆さん、それぞれの立場で頑張っているわけで、そういう方々の話を聞くことで勇気づけられ励まされるのです。ふだんは一人で仕事をしているので、余計にそう感じるのでしょう。
 二次会を経て、家の最寄り駅に着いたのが12時半。そのころには雨も風も強さを増しており、傘を差しているにもかかわらず、下半身には雨がかかりほうだい。信号待ちのときにふと横を見ると、車内灯をつけたタクシーの中で生真面目そうな初老のドライバーが何か記録をつけてからハンドルを握りなおすのが目に入りました。深夜のその光景に、「自分も頑張らないとな」とまたひとつ励ましを得ました。(2004.10.9)

No.283 アップルのガイドライン本、復刊

 アップルコンピュータ社のインターフェイスのガイドライン『Human interface guidelines 日本語版 The Apple desktop interface』が復刊されました。89年にアジソンウエスレイ社から刊行されていた本で、名著といってよい内容ではあるもののどういうわけか廃刊となっていたのです。
 この本がどのようにすばらしいのかといいますと、いまわたしたちがふだん使っているパソコン(MacintoshのみならずWindowsも含めて)のユーザーインターフェースの思想の根幹がここに明文化されているのです。いわばユーザーインターフェイスの「聖書」です。
 ここには、ユーザビリティ、アクセシビリティ、ユニバーサルデザイン、ユーザーセンタードデザインなど、現在ソフトウェアやWebサイトのユーザーインターフェイスを考えるときに欠かせない思想・概念のすべてがそのままの形あるいは原型の形で示されているといってよいでしょう。
 ユーザーインターフェイスに興味のある方は、ぜひご一読を。
--
Human interface guidelines 日本語版 The Apple desktop interface
Apple Computer, Inc.著、新紀元社
(2004.10.2)

No.282 父とメールする

  先日、郷里の老父からメールが届きました。電子メールが。妹一家が帰省した際に、メールが使えるように実家のパソコンの通信環境を整え、メールの使い方も父に伝授していったそうです。
 手紙の感覚なのか、父のメールの文章は丁寧な言葉遣い。となると、こちらもふだんのくだけた感じでは書けず、なんだか改まった文章になってしまいました。
 メールは、手紙と会話の中間くらいのもの。使っていくうちに、父ともリラックスしたやり取りができるようになるとよいのですが。(2004.9.25)

No.281 感染する

  仕事用のパソコンとは別に家族で使うためのノートパソコンが居間に置いてあります。子どもたちはネットで見つけたゲームをインストールしまくってあれこれ楽しんでいるわけですが、そういったネットで入手できるソフトの場合、スパイウェアと呼ばれるプログラムがいっしょにくっついてくることがあります。コンピュータウイルスとは違いますが、パソコンの画面に広告を表示したり、利用者の情報を勝手に送り出したりといった迷惑な動作をするものです(広告を表示するものについては「アドウェア」と呼ぶこともあります)。
 子どもたちのゲーム三昧の結果として、我が家のノートパソコンには、これまで何度かスパイウェアが組み込まれていました。勝手に広告が画面に表示されたりブラウザのホームページが別のサイトに設定されてしまったりするのは、実際に体験してみるとけっこう不愉快なものです。
 じつは昨日もその問題が発生していました。ブラウザを起動すると、表示されるよう設定してあるサイトではない別のサイト(www.incrediFind.com)が表示されるのです。ネットで調べたところ、同じ被害にあっている人も少なくないようでした。対処方法が書いているサイトもありましたので、それに従ったところ無事に解決したしだいです。
 これも子どもたちにとっては社会勉強、ネット社会の社会勉強かもしれません。(2004.9.18)

No.280 歩く

  ここ2カ月ほど、よく夜に外を歩きます。ウォーキングというやつですね。健康維持のために以前はスポーツクラブのようなところに通っていたのですが、時間が決められているし、お金もかかりますから、外を歩いてみることにしたのです。
 はじめる前はあまり楽しそうな印象はなかったのですが、やってみるとこれが意外と気持ちよいのです。仕事部屋から夏の夜の屋外に出るとそれだけで解放されたような気分になれますし、夜風も爽快。毎日のように歩きに出るようになりました。
 自分のペースで、好きな道を選んで進めるのも魅力です。こっちの道に行くとどこに出るかな、こんな場所があったのか、ここは景色がいいぞ、などと思いながら好きなように歩く喜びは、車では得られないものでした。自転車にもそういった自由度はありますが、徒歩の自由度はそれ以上です。距離では自転車にかないませんが、階段を上り下りしたり、道のない草むらを横切ったり、駅の構内を抜けて向こう側へ出たり、徒歩であればどこを通るのも思いのままです。
 気が付けば2時間ほども歩いていたということもよくありました。2時間かけて目的地まで歩けといわれたら、うんざりした気持ちになると思いますが、ウォーキングではそれがあっという間に感じられるのですから、面白いものです。
 夜毎のウォーキングを続けていたところ、体重が4、5キロほども減りました。以前は、体脂肪率からいって「軽肥満」の体型でしたが、現在は標準の範囲内です。猛暑からくる食欲減退のせいもあったとは思いますが…。当これからの食欲の秋にリバウンドしてしまわないか、そして外出が億劫になるほど寒くなってきてもウォーキングを続けられるのか、それが当面の心配です。(2004.9.11)

No.279 打ち上げる

  以前読んだエクストリームプログラミングの本に、プロジェクトが終了したときには打ち上げをしようという話が出ていました。そうする理由についてはもう記憶も定かではないのですが、そうやってこれまでの労をねぎらったり健闘を讃えたりすることは、有意義なことだろうと思います。気持ちに区切りが付くし、次の仕事へのやる気も出てくるのではないでしょうか。

 というわけで、先日、妻のかかわった仕事が終わったので、夫婦で横浜にて打ち上げを挙行したのでした。二人でレストランにて昼食をとるというだけのささやかなものですが、ふだん行かないようなグレードの店でしたのでそれなりに楽しめました。ま、ふだん行くグレードというのは例えば吉野家とかかつやですから、「ふだん行かない」ところといってもそんな高級なところではないのですが、店内の雰囲気は落ち着いているし、料理の一品一品がそれなり凝っていて味もまずまず。満足できました。

 一人分で牛丼十人前くらいになる料金には軽いめまいを覚えましたが、この家計へのダメージが次の仕事への奮起を促すモチベーションにもなったといってもよいかもしれません…。(2004.9.4)

No.278 夏枯れ

  【夏枯れ】夏期にみられる市場不振。事業が季節的関係で夏期に不振状態となること。 多く、都会の商店・飲食店・劇場などについていう。(広辞苑)――今年の夏は、私の仕事のほうも「夏枯れ」気味でありました。いつもはその時点で進行中の仕事のあとも予定が入っているのですが、次の仕事が確定しない時期がこの夏にはありました。
 幸いなことに現在は先の予定も決まっており心安らかでいられるわけですが、このような状況を経験すると仕事があることのありがたさというものを改めて実感させられます。フリーランサーというのは仕事がこなくなってしまえば無職と変わりません。仕事がきている状況におごらず、先を見越した努力を怠るべきではないといえるでしょう。
 仕事がない状況への対応としては、(1)営業活動に努める、(2)ひたすら仕事の依頼を待つ、(3)仕事がくることを信じて自己研鑽に励む、(4)転職する、の四つくらいがありそうです。理想は(1)を進めつつ、(3)にも励むといったところでしょうか。まあ、十分な資産を形成済みの方ならば、(5)引退して南米あたりに移住する、といった選択肢もあるかもしれませんね。あなたなら、どうされますか?(2004.8.28)

No.277 現場

横浜スタジアム(ヤクルトスワローズvs横浜ベイスターズ)

  TCストリートのメンバーに誘われて横浜スタジアムでプロ野球の試合を観戦しました。8月8日のヤクルトスワローズ対横浜ベイスターズの一戦です。横浜リードで迎えた終盤、大魔神こと佐々木投手が登板し、ヤクルトを抑えて逃げ切るかに思えたのですが、あろうことか佐々木投手は三者連続のホームランを浴びて敗北。ヤクルトが劇的な逆転勝利を収めたのでした。

 プロ野球を生で見るのは初めての体験でした。実際にその「現場」に来てみると、テレビで見ているだけでは気づかないさまざまなことを知ることになります。選手が打席に立つときその選手専用のテーマ曲が流れること、応援は攻撃中のチームの側だけが行うこと、ホームランが出るとヤクルトのファンは東京音頭を歌い踊ること、キャッチボールの練習のあと、ヤクルトのラミレスは必ず観客席にボールを投げてくれることetc。キャッチボールといえば、プロの選手のそれはやはり高い技術を感じさせるものでした。ごく普通の感じで投げる球が、相手のいる場所にぴたりと届くのですから。

 テレビの画面を通じて見るのと現場に赴いて見るのとでは、得られる情報の量に何倍もの差があるということが言えると思います。これはほかのさまざまな事柄についても同様だろうと思います。敷衍して考えるなら、私たちはインターネットを通じてさまざまな情報を得ることができますが、それでわかったつもりになってはいけないということも言えるのではないでしょうか。これは例えば、仕事における情報のやり取りでも、ともすればメールで済ませてしまいがちですが、実際に会って話をすることでより正確に漏れなく意思の疎通が図れるということです。(2004.8.21)

No.276 指の怪我が教えること2

  親指の怪我はだいぶよくなりました。切ったところが少しへこんで、小さくカサブタが残っている程度です。もう包帯も外しました。こうしてだいたい快復してみると、なんというか晴れ晴れとした気持ちになるものですね。美しい女医に診てもらえたという少し楽しい体験はありましたが、やはり体が自由に使えるのはよいことです。
 親指一本使えなくなるだけでずいぶん不便だということを前回書きましたが、調べてみると、親指というのは実際のところ、人間の生活のなかで大変重要な役割を持っているということがわかります。たとえば、障害の等級を決める場合、親指が使えないのは他の指がそうなるのよりも等級が上となります(より重い障害と認定される)。また、生物学的には、「親指を自由にまわすことができ、ほかの4本の指と完全に向かい合わせになる」(Microsoft エンカルタ)のはヒトの特徴の一つで、これによりヒトは物をしっかりつまんだり細かい作業ができるようになっているわけです。
 ウクレレのほうも復活です。硬くなった傷口が引っ掛かり気味になるせいで、弦の鳴り方が少し違うのですが、ほどなくそれも元通りになることでしょう。(2004.8.15)

No.275 指の怪我が教えること

 大工道具のカンナを裏返しにしたような構造の野菜スライサーという器具を使ってタマネギをスライスしていたとき、右手の親指の先を切ってしまいました。たいした怪我ではないのですが、傷が少し深かったので、翌日病院に行き消毒などしてもらいました。親指は、そこだけミイラ人間のように包帯でぐるぐる巻きに。
 さて、こうしてしばらく親指が使えない状況になってしまったわけですが、これはなかなか不便です。親指というのが日常生活のなかでどれだけ大きな役割を果たしているかということに気づかされます。物を強くつかんだり、つまんだりする動作に親指は不可欠なのです。ですから、たとえばインスタントラーメンの袋を開けるという行為。これができません。しいておこなうなら、歯で袋をかんで、左手でひっぱるというやり方でしょうか。トイレに入ってズボンのチャックを下ろすのも、人差し指と中指でチャックのつまみをはさんで、ということになります。
 親指の果たす役割が大きいということと、親指が使えないときには他の手段でそれをカバーする能力が人間にはあるということ、その両方がわかった、というべきかもしれません。
 もしずっと親指が使えなかったら、もし片腕全体を失ったらなら、もし視力をうしなったなら…、そんなことも少し考えさせられました。
 ウクレレの弦を親指でポロンポロンとやるのも、しばらくお預けです。(2004.8.7)

No.274 パソコンサポートランキング

  日経パソコン2004年8月2日号の特集「サポートランキング2004」は、大規模なアンケート調査に基づいてパソコンメーカーのユーザーサポートを比較したもので、興味深いものでした。評価の項目はWebサポート、電話サポート、マニュアル、修理サポートの4つ。総合評価ではNECが1位、日本IBMが2位、あとはエプソンダイレクト、デル、富士通、東芝、松下、ソニー、日立、シャープと続きます。

 昨年、調査対象だったアップルとソーテックは辞退したそうです。パソコンを購入し、ユーザー登録した人に依頼して実施するアンケートなので、メーカーの協力がなければ調査することができません。第三者による評価が得られるわけで、メーカーにとっては非常に価値ある調査であるとともに、参加するのに勇気のいることでもあるでしょう。アップルとソーテックの辞退については、「逃げた」というよりも、ユーザー層の違いなどから、他社と一律に評価してほしくないという事情があるのかもしれません。

 さて、マニュアルの分野についてみてみると、冊子(紙のマニュアル)ではエプソンダイレクトが、電子マニュアルでは日本IBMが1位でした。ただ、ユーザーにとってマニュアルは、他のサポート項目と比べて重要性が一番低くなっており、マニュアルに対する評価が高くてもサポート全体に対する評価にあまり反映されないという傾向があるということも調査結果から明らかになっています。

 マニュアルの評価ということでは、TC協会の主催するマニュアルコンテストなどがありますが、実際に製品やマニュアルを使用したユーザーによる評価である日経パソコンのサポートランキングは他に類を見ない価値 があるといってよいでしょう。ぜひ来年以降も続けてほしいものです。(2004.7.31)

No.273 ウクレレモードとギターモード

 ウクレレをやりはじめて気づいたことがあるので、今回はそれについて。

 ウクレレもギターと同じようにコード(和音)進行を見ながら演奏するのですが、そのコードの押さえ方はウクレレとギターでは異なります。それというのも、ギターは弦が6本であるのに対し、ウクレレは4本。そして音程がギターは低いほうからE、A、D、G、B、Eとなっているのに、ウクレレはG、C、E、A。同じ和音を出すのでも、弦の押さえ方はまったく違ってくるわけです。その違いを写真に撮りました。

  Cコード Fコード Gコード
ギター ギターのCコード ギターのFコード ギターのGコード
ウクレレ ウクレレのCコード ウクレレのFコード ウクレレのGコード

 ウクレレを始めて少し戸惑ったのは、コードを押さえるときについギターの押さえ方をしてしまうということでした。ギターに親しんでいると、たとえば「C」というコード名を見るとすぐにそのコードの押さえ方ができるようになります。それが身についてしまっているので、ウクレレの4本の弦のうえでギターのコードを押さえようとしてしまうのです。

 しかしながら、この問題はすぐに解決しました。しばらく練習していると、ちゃんとウクレレのコードの押さえ方が身についてきて、ギターと混同することはなくなりました。「今度はギターを弾くときにウクレレの押さえ方をしてしまうのでは?」と心配になりましたが、ギターをほうを持てば、ちゃんとギターのコードが押さえられます。

 どちらの楽器を手にしているかによって、コードの押さえ方が切り替えられるようになったわけです。自分の中にギターを弾くモードとウクレレを弾くモードがあり、ギターを持ったときはギターモードがオンになり、ウクレレを持ったときはウクレレモードがオンになる、といった感じです。

 考えてみると、ひとは生活のなかでこのようなモード切り替えを頻繁におこなっているといってよいでしょう。オートマ車を運転するときとマニュアル車を運転するとき、自宅のパソコンを使うときと会社のパソコンを使うとき、フィルム式カメラを使うときとデジタルカメラを使うとき、日本語を話すときと外国語を話すとき、右打席で打つときと左打席で打つとき(松井稼頭央ガンバレ)…。モードが切り替わっていることは確かですが、何がスイッチとなって切り替えが実施されるのでしょうね。(2004.7.24)

No.272 ウクレレにウカレテ

ウクレレの写真  先日43歳の誕生日を迎えたのですが、家内がお祝いとして何か買ってくれるというので、いつも行くイトーヨーカドーに入っている新星堂のウクレレをリクエストしました。チューニング(音程合わせ)用の笛と教則本が付いて数千円という値段のものです。以来、暇さえあればウクレレを弾くという日々が続いています。

 一般に楽器というのは値段はピンからキリまであり、高価なものは何十万、何百万とし、音色のほうもおそらくは高価なものほどよいものなのであろうと思います。「おそらく」という保留をするのは、私にはあるところから区別が付かないに違いないからです。 ウクレレの場合は基本的に安い。新星堂に並んでいたウクレレのなかには1400円などというものもありましたが、弦をはじいてみると私の耳にはそれなりに気持ちのいい音がしていました。これでもいいかなと思ったのですが、店員の薦めもあり、もう少し高いものにしたのでした。

 さて、そんな安価な楽器ではありますが、楽器というのは楽しいものです。すべての楽器は楽しい。「楽しい器」とは、よくぞ名づけたものです。千円のティン・ホイッスルも、数千円のウクレレも、その価格の何十倍、何百倍に値する楽しみを提供してくれています。

 もちろん、まったく演奏できなければ面白くありませんが、ウクレレの場合は初めての人でも小一時間も練習すれば簡単な曲が弾けるようになります。国内でもっともポピュラーな弦楽器であるギターと比べると、弦の数が4本と少ないため弦の押さえ方が単純ですし、大きさも小さいので指が届かず弦が押さえられないということもありません。女性や子どもで、ギターよりはるかに容易にはじめられることでしょう。

 何か楽器をはじめたいという人には、ウクレレ、お勧めです。夏ですし。(2004.7.17)

No.271 ナベツネ氏の「無礼」発言に思う

  日本語のなかには何万何十万という言葉が存在していますが、そのすべての言葉を全日本人が共有しているわけではありません。地方、年齢、性別、職業などが違えば、人の語彙の中身は少しずつ違っているはずです。いうなれば、私たちは一人ずつ微妙に異なる国語辞典を持っているようなものです。

 この個人辞書の違いを感じさせる出来事が最近報じられていました。プロ野球球団の合併問題が選手・ファン不在の状態で進んでいることについて日本プロ野球選手会の会長を務める古田選手が「球団のオーナーたちと話しをしたい」と述べたのに対して、巨人のオーナーである渡辺恒雄氏が「無礼なことを言うな。分をわきまえないといかん。たかが選手が。」と応じたニュースです(asahi.com 7月8日)。

 「無礼なことを言うな」――はるか遠い過去から響いてきたかのような言葉に私は感じました。最後の「選手が」のところを「町民が」や「百姓が」にすれば、時代劇の悪役のセリフとしてぴったりではないでしょうか。「無礼」という言葉は多くの日本人が知っていることでしょうが、このように個人を名指しする形で実際に使用する人は現代では稀なように思います。すくなくとも、渡辺氏の辞書は私のそれとだいぶ違うということは感じます。

 人により辞書の中身が違うということは、私たちテクニカルコミュニケーターが仕事をするうえで意識しなければならないことの基本でもあります。誰の辞書にも載っている言葉だけで文章が書ければ理想ですが、なかなかそうもいかないのが実情でしょう。今回の「無礼」発言に見られるとおり、語彙は人によりずいぶん違うものなのですから。(2004.7.10)

No.270 美しいということ

 台風のあとだったと思うのですが、仕事帰りの空がじつに美しく感じられ、思わず写真に収めました。

空の写真

  どういうものを美しく感じるかは人それぞれですから、この写真の空が万人に美しいものであると主張するつもりはありませんが、少なくとも私にとっては美しかったのでした。雲の向こう側に太陽があったために雲が光で縁取られるような具合に輝いていたことや、雲が水平に流れるように大きく広がっていたことが、その理由でしょうか。それがなぜ美しいのかと問われれば、もうそれ以上説明する言葉を持たないのではありますが。

 「美しい」という言葉で思い出すことがあります。ちょっと前のこと、お客様の会社で、ある装置を分解して調べていたところ、隣で打ち合わせをしていた初老の外国人男性が休憩時にこちらに近寄り、カバーを外されてむき出しになっている配線を見て独り言のようにこう言ったのです。

"Beautiful"

 空についての話ならば美しいということに同意される方は少なくないでしょうが、機械の配線についてはどうでしょうか。むしろ「そのどこが美しいの?」と ケゲンに思う方のほうが多いかもしれません。しかし、じつをいうと私はかの男性と同様その配線を美しく感じていたのでした。ですから、すかさず「ええ、まったくそのとおりですね」というようなことを言いたかったのですが、残念ながらそのような対応ができるほどの英語力も私にはありませんので、軽い笑顔で応じるのが精一杯でした。(2004.7.3)

No.269 白眉

  先週の当コラムで、クルンとカールした猫の白い眉毛のことを書きましたが、いつの間にかその毛はまっすぐになっていました。カールしていたのは、子どもが引っ張ったことによるものだったようなのですが、毛に備わっている復元力によって戻ったのでしょう。

 その写真を撮ってみました。右目の上から右耳の先に向かって白いまっすぐな毛の伸びているのが確認できるかと思います。これがあの毛です。

白い毛がまっすぐになった黒猫

 ところで、眠っていないときの猫の写真を撮るのは難しいということも先週書きましたが、日々蒸し暑さが増してくるにつれ、状況は変わってきました。つまり、蒸し暑いと、猫はぐったりと床に伸びて、動きも緩慢になるからです。そんなわけで、今週の写真は容易に撮影することができたのでした。写真の表情からは、「暑いぜ…」という猫のぼやきが聞こえてきそうです。(2004.6.26)

No.268 決定的瞬間

  「決定的瞬間」というとゴシップ雑誌の誌面に大活字で踊っていそうな言葉ですが、フランスのカメラマン、カルティエ・ブレッソンの作った言葉です。ブレッソンは、事故の瞬間といったような劇的なものではな く、日常のなかの心沸き立つような情景を指してこの言葉を使ったそうです。

 ところで、次の写真をごらんください。著名な写真家の名前を出したあとで、自分の下手な作品を出すのは気が引けるのですが、この写真は、私としては小さな「決定瞬間」を捉えたという思いがあるのです。猫の右目の上に白い毛がクルンと丸くなっているのがおわかりでしょうか。最初は糸クズかと思ったのですが、よくみると猫の眉毛なのです。

黒猫の白眉

 この写真は一発で撮れたわけではありません。猫は寝ているときや休んでいるときは別として、ふだんはじっとしていませんから、問題の眉毛が写るちょうどよい角度でとどまってはくれないのです。しかもデジタルカメラの場合、シャッターを押してから実際に画像が取り込まれるまでの時間(タイムラグ)が従来のカメラよりも長いため、「ここだ!」と思ってシャッターを切っても、写っているのはその次の瞬間のようすなのです。 私は何枚ものミスショットを経なければなりませんでした(以下の写真を参照のこと)。

 ミスショット1ミスショット2ミスショット3

 そんなわけで、黒猫の白眉をバッチリとらえた一番上の写真は、私にとってはまさに決定的瞬間なのです。間違いない!(2004.6.19)

No.267 華氏911と華氏451

  失礼ながらレイ・ブラッドベリ氏がまだ存命であったとは知りませんでした。十代のころSFに夢中になっていた私にとって、氏はSF界の大御所であり、SF史上の人物というふうに認識されていましたので、私の脳内では<歴史上の人物>→<存命ではない>、ということになってしまっていたようです。氏がマイケル・ムーア監督の映画『華氏911』について、自作『華氏451度』の題名の盗用であると批判したというニュースによって、私は氏の存命を知ったのでした。
 しかしこの主張は、的外れであるという印象を与えます。紙が発火する温度にちなんで題名が付された『華氏451度』は、読書が禁じられ、本という本が燃やされてしまうアンチユートピアを描いたもの。ブラッドベリ氏の代表作で、SF史上に残る傑作といってよいでしょう。トリュフォーによって映画化もされています。ブッシュ大統領を痛烈に批判する内容であると伝えられているムーア監督の新作の題名が、暴走する権力への批判を込めたものだということは、ブラッドベリ氏の『華氏451度』の存在を知っていてはじめて理解されるものです。そうであるなら、これは盗用ではなくむしろオマージュであり、題名における本歌取りであるといってよいのではないでしょうか。ブレッドべり氏にはムーア監督の気持ちを汲み取ってもらいたいし、『華氏911』という題名の映画の出現により『華氏451度』の名作としての位置づけがいっそう確固たるものになったとSFファンが(少なくとも私は)感じているということを知ってもらえたらと思います。
 ちなみに、この「華氏」というのは、ドイツの物理学者ファーレンハイト(Fahrenheit)の定めた単位で、記号としては「°F」を用います。なぜ「華氏」と書くかというと、ファーレンハイトを中国語では「華倫海」(中国語読みするとファーリンハイでしょうか)と書いたので、その文字を取って「華氏」と表記されるようになったとのこと。日本で一般に使われている「摂氏」(°C)のほうはスウェーデンの物理学者セルシウスが提案したもの。華氏(F)と摂氏(C)との間には、

F=(9/5)C+32

の関係があるので、計算すると華氏451度は、摂氏でいうと約233度ということになりますね。(2004.6.12)

No.266 『悪魔に仕える牧師』を読む

  リチャード・ドーキンスの新刊『悪魔に仕える牧師』を読みました。これは書き下ろしではなく、彼の書いた書評、他の著者の本に寄せた前文、弔辞など、さまざまな形で発表されてきた短文を集めたエッセイ集です。以前このコーナーで紹介した『ミームマシンとしての私』の序文も含まれています(私にとってはすでに読んだ文章ですが、非常に面白いですから、後世に残すためにもこうしてドーキンスの本に収録することは大歓迎です)。

 ところで、この本の「情報への問題提起」という文章のなかに「スタッフィット」という圧縮プログラムのことが出てきます。文脈から考えて、これはマッキントッシュというパソコン用の代表的圧縮プログラムStuffIt(スタッフ・イット)のことだと考えて間違いないでしょう。それが「スタッフィット」という表記になったのは、訳者がこの製品のことを知らなかったからだろうと想像できます。

 その分野の知識が欠けていたために適切な訳ができなかったという例は数多くあることでしょう。私がすぐに思い出すのは、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でドクというマッドサイエンティストが「ギガ」という言葉を使ったときに、字幕が「ジガ」となっていたことです。これは十億倍を表すGigaという単位のことですが、科学や工業の分野ではギガヘルツ、ギガバイト…というように、日本語としては「ギガ」という読み方が定着しているのですから、あれは「ギガ」と書くべきだったと思います。

 これらの例は、翻訳するということがいかに難しいものであるかを示す一端といってよいのではないでしょうか。どのような訳者であろうと、すべての分野に通暁することなど不可能ですから、幅広い内容を含むものを訳すときに、知識が欠けていたために不適切な訳になってしまう場合があるのも当然のことだと思います。それを防ぐには、該当する分野の知識を持つ者が監修にあたるほかないのでしょうね。

 話は変わりますが、この本には2002年に亡くなった古生物学者スティーブン・グールドの著書についての書評や、グールドへの弔文も掲載されています。グールドとは論敵という関係にあったドーキンスですが、同じダーウィン主義者として同志的関係にもあり、認めるべきところは認め合う仲であったことが、それらの文章からうかがわれます。こういった理性的態度も見習いたいものです。

 本筋はそっちのけで枝葉の部分にだけ触れるかっこうになってしまいましたが、読みやすい本なので皆さんにもお勧めします。(2004.6.5)

『悪魔に仕える牧師』表紙

『悪魔に仕える牧師』
リチャード・ドーキンス著
垂水雄二訳
早川書房刊

No.265 我が「年金未納問題」

年金手帳の表紙  国会議員の年金未納が問題になりだしてしばらくたちますが、私も気になって自分の年金を調べてみました。会社勤めをやめてからは国民年金をきちんと払い続けているつもりですが、過去の二度の会社勤め期間やその間にあったフリーター期間に未納や未加入はなかったか記憶が定かでなかったからです。資産のある国会議員ならまだしも、そうではない一介の自営業者にとっては老後の生活を支えるうえで国民年金は欠かせない存在ですから、放っておけません。
 調べるのには少しばかり手間がかかりました。まず年金手帳が見つからない。ふだん使うことのないものですから、いつどこにしまったのかの記憶もありません。半日探してやっとオレンジ色の表紙の手帳を発見。皆さんは、ちゃんと保管してますか?
 その年金手帳を手に、「年金の加入履歴などを知りたいのですが」と市役所に問い合わせてみました。すると、社会保険事務所に聞くようにとのこと。社会保険事務所というのは、年金行政を管轄する社会保険庁の出先機関で、各地に置かれているそうです。この地域を担当する社会保険事務所の電話番号も教えてくれました。今度はその社会保険事務所へ電話。用件を言うと、年金手帳に記載されている厚生年金と国民年金のそれぞれの年金番号を聞かれます。伝えると、数秒ほどで返答が…。

 調査の結果、最初に就職した会社を辞めてから次の会社に就職するまでの17カ月は、国民年金に未加入となっていることがわかりました。約1年半です。当時の記憶はないのでよくわかりませんが、最初の会社を辞めたときに年金の切り替え手続きをしなかったということなのかもしれません。この未加入期間により、65歳から支給される老齢年金の額は多少減ることになります。現時点での支給額のレベルでいうと月2000円ほどの減額だということも教えてもらいました。昭和61年以降の分についてはいまからでも未納分を追加納入できるように法律が変わる可能性があるという話しも聞きました。私の場合はそれに該当するので、未加入期間の分をいずれ埋め合わせることができるかもしれません。

 さて、話はもう少し続きます。厚生年金と国民年金の番号を統合する手続きをしたほうがよいということも聞いたので、数日後、年金手帳を持って社会保険事務所に行ってきたのです。小さな市役所といった感じの建物で、平日の昼間なのにけっこう大勢の人が来ていました。

 手続きは数分で終わる簡単なものでした。必要なのは年金手帳だけ。印鑑や身分を証明するものなども不要です。本人でなくてもよいようで、いっしょに持参した妻の年金手帳のほうも手続きできました。ついでなので、過去の納付歴について改めて確認したところ、紙にプリントして渡してくれました。

 このようにして我が「年金未納問題」は一段落したしだいです。退職したときに自分で手続きしなければ国民年金に加入できないというような制度では、未納者や未加入者が大勢いるのも当然だなあというのが今回の件での印象です。自分の加入履歴を把握していない方は、調べてみてはいかがでしょうか。各地の社会保険事務所については、社会保険庁のサイトに連絡先が掲載されています。(2004.5.29)

No.264 餅は餅屋

  仕事用に新しくデジカメを購入したのですが、このカメラ、色合いが妙になってしまうことがよくあるのですね。下の左の写真がその実例で、全体に青っぽくなっているのがわかると思います。右の写真は、左の写真をMicrosoft Office Picture Managerというソフトで加工したものです。加工といっても、3回クリックするだけのごく簡単な操作です。それにより、この猫の飼い主から見て違和感のない自然な色合いになったのでした。

猫の写真(オリジナル)加工前 → 猫の写真(色の調整後)加工後

 

 Microsoft Office Picture Managerは、Office2003に含まれるソフトで、その名のとおり写真の管理や編集のためのものです。写真の色合いの変更は汎用のグラフィックソフトでも可能ですが、やはり専用のソフトのほうが簡単です。餅は餅屋、ということでしょうか。私たちも、自らの専門分野においては「○○は○○屋」と言われるようでありたいものです。(2004.5.22)

No.263 ダーウィンの仕事術(2)

 科学史上あるいは思想史上もっとも重要な書物の一つとして挙げられるはずの『種の起源』以外にも、ダーウィンは何冊かの本を書いています。自伝の最終章でダーウィン自身が全著書を紹介しているので、それを抜き出してみましょう。
『航海記』 1844年
『南アメリカの地質学的観察』 1846年
『珊瑚礁』
蔓脚類の現生種についての二巻 1854年頃
蔓脚類の絶滅種についての二巻 1854年頃
『種の起源』 1859年
『蘭の受精』 1862年
『家畜および栽培植物の変異』 1868年
『人間の由来』 1871年
『ヒトと動物の感情の表現』 1872年
『攀援(はんえん)植物』 1875年
『食虫植物』 1875年
『植物界における他家受精と自家受精の効果』 1876年
『花の異形』 1877年
『植物における運動力』 1880年(共著)
『ミミズの作用による腐植土の形成』 1881年

 これらはどれも書物として出版されたものです。これら以外にも学術誌にいくつも論文を投稿していることを考えると、ダーウィンという人は相当に精力的に仕事をしたのだということがいえそうです。

◇◇◇

 さて、二つ前の世紀に、コンピュータもワープロソフトもデータベースソフトもインターネットもない19世紀という時代に、ダーウィンはどのように情報を整理し、本を書いたのでしょうか。自伝で彼は本の書き方について次のように述べています。
(1)「ごく大まかな輪郭を二、三頁で書き」
(2)「それから一つの議論全体あるいは一連の事実を数語または一語で表すようにしてその輪郭を拡大し、頁をふやしたものを書く」
(3)「こんどは、これらの題目のおのおのを拡大し、またしばしば、詳細に書きはじめる前に形を変える」
 これは現代においてもそのまま通用するとても合理的な執筆手順といってよいでしょう。「詳細に書きはじめる前に形を変える」というのは、題目の順序を入れ替えたり、情報のグループ分けのしかたを変えたりという意味だろうと思います。この部分、ワープロソフトがあれば作業はぐっと楽になるわけですが、ダーウィンは手書きでやっていたわけですね。

◇◇◇

 情報のほうはどのように整理していたのでしょうか。先の著作一覧で同時期に複数の本が刊行されているのを見てもわかるように、ダーウィンは並行して複数の本を書くこともありました。しかも書いているのは、観察の結果や他者の論文などから得られたさまざまな事実に基づいた学問的事柄ですから、その多数の事実(情報)を上手に整理しておかなければ、とても仕事にはならなかったことでしょう。ダーウィンは次のように書いています。
「私は各段にラベルをつけた棚に三十から四十の大きな紙ばさみをおいていた」「それらの紙ばさみに、私は、ばらばらにした文献やメモをすぐいれることができるようにした」
 棚にラベルを貼って情報の大分類とし、その棚に小分類ごとの紙ばさみ(現代ならフォルダやクリップでまとめた束といったところでしょうか)を置いたわけですね。
「私はたくさんの本を買ってそれぞれの巻末に、私の仕事に関係のあるすべての事項の索引をつけている。自分の本でないときには、個別に抜粋をつくり、このような抜粋を私は一つの大きな引き出しいっぱいもっている」
 自作の索引というのは「ミミズの糞の量 xxページ」といったものでしょうか。本を読んでいて自分の仕事に関係する情報が出てきたら、そのキーワードとページをメモしていったのでしょう。そして、借りた本の場合は本文から該当部分を抜粋し、引き出しに入れておいた。
 このように情報を整理しておくことによって、どういうことができたか。ダーウィンはこう述べます。
「なにかの問題に着手する前には、私は短い索引を全部しらべてみて、全般的な分類をした索引をつくる。そして、一つかそれ以上の紙ばさみをそれにあて、それをとり出せば私が一生のあいだに集めたすべての知識をすぐに使えるようにした」
 「短い索引」というのは、本の巻末につけた自作の索引のことでしょう。これを全部調べ上げ、おそらく引き出しの抜粋も調べ、他の文献などといっしょに紙ばさみで束ねて例の棚に置いたのでしょう。この紙ばさみを手に取れば、ダーウィンのアナログデータベースの全情報に容易にアクセスすることができるというわけです。コンピュータのない時代に、これは最大限に効率的な情報整理術といってよいかもしれません。
 仕事術というものがそれ自体のもっともらしさではなく結果で評価されるのだとしたら、歴史に残る仕事をなしとげたダーウィンの仕事術は、その有用性は証明済みであるといってよいでしょう。私たちがダーウィンに学ぶことができるのは、進化論だけではないようです。(2004.5.15)

No.262 ダーウィンの仕事術(1)

『ダーウィン自伝』表紙 「私はいつも、自分の思うことをはっきりと簡潔に表現するのにたいへん苦労する。」

 まるでライターの日記にでも書かれていそうな言葉ですが、これは進化論で有名なあのダーウィンが自伝で述べているものです。続けてダーウィンはこう書いています。

「この苦労によって、私は非常に多くの時間を失わせられた。しかしそれは、私に一つ一つの文章を時間をかけて余念なく考えさせるという、代償的な利益をもっていた。それによって私はしばしば、推理の誤りやまた自分自身のした観察あるいは他人のした観察の誤りに気づくようにさせられた。」

 文章を書く過程で自分の考えが整理できたり論理のアラが見えたりするというのは、多くの人が同意することではないでしょうか。ダーウィンのような偉人においてもそれは同じであったようです。もっとも、ダーウィン自身は、自分のことを天才のようには考えていなかったということが自伝からはうかがえます。ダーウィンは、自分に「中庸の才能」しかないとし、それでも進化の原理を発見できたのは「科学への愛」「辛抱強さ」「勤勉さ」などがあったからだというのです。謙遜も含まれているかもしれませんが、自伝全体を通じてその自己評価は一貫しています。

 さて、ダーウィンは科学者でありますが、研究だけしていればいいという考えではなく、その成果を世に広めるために「はっきりと簡潔に表現する」ということに心を砕く人でもあったわけです。進化論を世に問うた『種の起源』に見られるテクニカルライティング的工夫ついては「No.233 ダーウィンのテクニカルライティング」で書きましたが、あの本があのように読みやすいものになっているのは、「はっきりと簡潔に表現」しようというダーウィンの努力の賜物だったわけですね。進化論の考えが広まったのは、表現することについてのダーウィンの姿勢が微量ながらも影響したためだといってよいかもしれません。

 ライティングの手法についてもダーウィンは述べています。

「以前には、私は文章を書き下す前に、それについて思いめぐらしたものだった。しかし年がたつうちに、言葉を半分にちぢめ下手な字でなぐり書きしてできるだけ速く頁をうずめ、そのあとで慎重に添削するのが時間の節約であることを知った。このようにしてなぐり書きされた文章が、慎重に書いたものよりよいこともしばしばあった。」

 ラフに書いたあとで推敲するというこのやり方は、現代でも通用するのではないでしょうか。ワープロが普及してからは、なおのこと。文章の編集作業は、手書きとワープロとでは効率がずいぶん違います。もしダーウィンにワープロをプレゼントすることができたのだったら、大いに感謝されたに違いありません。

 次回は、自伝で披露されているダーウィンの情報整理術についてご紹介する予定です。(2004.5.8)

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『ダーウィン自伝』
チャールズ・ダーウィン著 ノラ・バーロウ編
八杉龍一/江上生子訳
ちくま学芸文庫

No.261 ティン・ホイッスルを吹きながら

  楽器店を覗いたときに妻がたまたまティン・ホイッスルという縦笛を見つけました。これはアイルランド の民俗楽器なのですが、値段は1000円と安価で、簡単な教則本と練習曲のCDまで付属していました。

 ティン・ホイッスルは、ブリキの筒にプラスチックの吹き口を付けただけのとても単純な作りで、吹き方は小学校で誰もが学ぶリコーダーによく似ています。指で押さえる穴は六つ。全部の穴をふさいだ状態が一番低い音で、下の穴から順番に指を離すことで音は高くなっていきます。音を出すこと自体はとても簡単な楽器なのです。

 私は気付いていませんでしたが、ティン・ホイッスルはアイルランド音楽に限らずさまざまな楽曲のなかで使われているようです。たとえば映画『ロード・オブ・ザ・リング』のサウンドトラックでは、ティン・ホイッスルが随所で使われています。プロの使うのも、私が買ったような値段の安いものだそうですから、なんともコストパフォーマンスのよい楽器だといえそうです。

 音を出すのは簡単だと先ほど書きましたが、ただ音を出すのと、よい音を出すのは別です。最初のうちは我ながら聴くにたえない音であったと思います。しかし、練習しているうちになんとなくそれらしい感じの音になってくるのですね。これが実に楽しい。そして上達すればするほど、何度も吹きたくなる(「上達」というほどうまくなっているわけではありませんが)。

 ところで、物の使い方を覚えること、何かに熟達していくこと、要するに「学ぶ」ということ、それが楽しいというのは、人間が本来もっている性質なのではないでしょうか。そのようにして知識や技術を身につけることで生き延びてきたのが人間だからです。例えば火の起こし方を覚え、例えば武器の使い方を身に付け、生き延びてきたわけです。

 私たちテクニカルコミュニケーターが仕事でやっているのは、この「学ぶ」という行為を助けることです。「学ぶ」ことが本来人間にとって楽しいものであるのならば、それを助ける私たちの仕事は、人間を喜びへと導くものであると考えることができそうです。このことを私は忘れないでおこうと思っています。(2004.5.1)

ティン・ホイッスル

No.260 モモを探して

  ミヒャエル・エンデ(1929-1995)原作、ヨハネス・シャーフ監督の『モモ』を観ました。エンデというと、『ネバーエンディング・ストーリー』が有名ですが、私が子供のころやっていたテレビアニメ『ジム・ボタン』の原作もこの人だそうです。

 『モモ』の物語はこうです。町外れの遺跡に住み着いた浮浪児のモモは、近所の下町の人々と友達になります。下町の人々は貧しいながらも生活を楽しむすべを心得ていました。ところが、そこにベンツに乗り灰色の背広を着た「灰色の男たち」が現れ、人々から「時間を盗む」のです。これは、ゆっくり食事をしたり友達を話したりといった仕事以外の時間を奪うというような意味で、時間を奪われた者たちはそのときから仕事に追われる日々が始まります。「灰色の男たち」によって、人々の生活は一変してしまいます。そんななかモモは、不思議な亀に導かれて、時間を人々に配る役割を担っているホラという老人に会い、「灰色の男たち」から時間を取り戻す方法を教わります。そしてモモはみんなの時間を取り戻すために「灰色の男たち」との戦いに独りで向かいます。

 原作は1972年、映画は1986年の作品ですが、とても今日的な21世紀的なテーマであるという気がしました。というより、当時、エンデの感じ取っていた問題が20年30年の時を経ていっそう大きくなってきているというべきかもしれません。

 「灰色の男たち」は、いまの言葉でいうなら「グローバリゼーション」ということではないでしょうか。日本についていうなら、この国はおおかた「灰色の男たち」に支配されてしまった観があります。子供も大人も、効率が求められています。そして経済的な成功、ビジネスで勝者になることに最大の価値を置く考え方が主流となっています。個人よりも組織が大切にされ、組織を守るために個人に犠牲を強いることが当たり前になっています。これは時間を盗まれてしまったあとの世界そのものではないでしょうか。

 物語の世界なら、モモがみんなを救ってくれるかもしれませんが、現実世界ではどうでしょう。もちろん女の子が独りで世界を救うというようなことは、現実にはないでしょう。しかし、自分のなかの価値観、物事の優先順位、それを変えることなら自分一人でできるかもしれません。どうでしょうか。それができるなら、モモは心の中にいるということもできるかもしれません。あなたの心の中にモモはいるでしょうか。(2004.4.24)

No.259 『デブラ・ウィンガーを探して』に思う

  映画『デブラ・ウィンガーを探して』は女優ロザンナ・アークェットが、仕事と家庭の両立のしかたや、40代50代になったときの女優の生き方について、他の女優たちにインタビューしていくドキュメンタリ。悩み、体験、意見を率直に語る女優たちの姿が印象的な佳作です。例えば、知的でクールなイメージのあのシャロン・ストーンが、他の女優の優れた演技を見て「自分にはとてもできない」と落ち込みそうになるということ告白しているのです。トップスターでも、一般の人と同じように悩んだり苦しんだりしているんだということがよくわかる映画です。
 もっとも興味深く感じたのは、何年も前に女優を引退したというジェーン・フォンダへのインタビューです。夫の求めに応じて仕事より家庭を選んだ彼女は現在の生活に満足しているのですが、唯一残念なことがあるというのです。それは、俳優が経験するもっとも深く濃密な至福の瞬間の体験がもう得られないということです。それがどういうものかを、ジェーン・フォンダは説得力のある語り口で説明します。いわく、どの映画にも核となるシーンがあって、そこで俳優は非常に複雑な心理を表現することが求められる。そのシーンの成否に映画の成否がかかっている。つまり自分のその演技にすべてがかかっている。大いなるプレッシャーのなか、控え室で出番を待つ。やがてドアがノックされ、出番となる。監督、他の俳優、全スタッフ、映画会社の関係者、そういった大勢の人々が注目するなか、照明のなかに入っていく。「高いギャラに見合う演技をしてもらおうじゃないか」という目で見ている者もいる。そこでは誰も助けてはくれない。自分がやるべき演技を自分ひとりで演じきらなければならない。失敗すれば地獄。そういうなかで、ソレは起こる。演技を始めると、飛行機が離陸するような感じがあり、まるで他の俳優たちとダンスを踊っているような一体感があり、スタッフ全員と融合したような気分にもなる。つまりは、女優としての至福の瞬間、恍惚の瞬間がそこにある。
 50本近い映画に出演して、その体験をしたのは8回しかないとジェーン・フォンダは語ります。そしてその経験がもうできないということが、引退して唯一残念なことだというのです。
 それで思うのは、程度の違いさえあれどのような職業にもその職業ならではの幸福な瞬間というのがあるのではないかということです。例えばボクサーなら相手をノックアウトしたときがそうかもしれませんし、ミュージシャンなら聴衆の前で最高の演奏をしたときがそうかもしれません。芸術家ならば作品が完成した瞬間でしょうか。ビジネスマンにだってあるはずです。大きな契約を成立させたときや、難しい仕事を完了させたときなどは、深い喜びがあるのではないでしょうか。
 そしてさらに思うのは、そういった至福のときというのは、その前に大いなる苦しみがあってはじめて生まれるものではないかということです。例えばボクサーがリングに立ち、相手をノックアウトするためには、長いトレーニング、プレッシャーとの戦い、そういったことを経る必要があるわけです。簡単に倒せる相手では、ノックアウトしても嬉しくないでしょう。努力と苦労を重ねて強い相手に勝ってはじめて大きな喜びがあるはずです。大きな喜びを得るには、大きな苦しみに耐えなければならないのです。逆にいうと、その苦しみに耐えられなくなったときが、その職業から退くべきときということかもしれません。(2004.4.17)

No.258 グッドタイム

  仕事をしなければならないのに気持ちをそのように仕向けることができない、あるいは頭が煮詰まってしまって前に進めない、そんなとき皆さんはどうしていますか? 私がよくやるのは、部屋の片付けをしたり仕事とは関係のない本を手に取ったりすることです。そうすることで、いわば頭のコリをほぐすのです。高くジャンプするために、いったん後ろに下がって距離を取る、といってもいいかもしれません。とにかく仕事のことを頭の中から一度追い出すわけです。

 先日のこと、そんなふうにしてたまたま手に取った雑誌のページをめくっていると、なんとなく見覚えのある顔が目に入ってきました。Switch(1989年8月号 )の105ページにあるその写真の女性は、私がかつてこのコラムで書いた「Windows95のCDにgoodtime.mpgというファイルがある」という話に出てくる女性アーチストによく似ているのでした。

Edie Brickell(Windows95所収"goodtime.mpg"より)

 雑誌のその記事は「エディ・ブリッケル インタビュー」と題されていました。80年代のなかば、ダラスのローカルバンドだったニュー・ボヘミアンズのボーカルとして活動していた彼女は、「ホワット・アイ・アム」という曲で一躍有名になります。そしてレコード会社の思惑とのズレからバンドの内紛が起こり、失速する。インタビューで彼女は当時の状況を語っています。エディ・ブリッケル曰く「ありきたりの話よね」。

 ウェブで調べてみると、彼女はその後、あのサイモン&ガーファンクルのポール・サイモンと結婚し、ソロアルバムもリリースしたそうです。そこからのシングルカットが「グッドタイムス」という曲だということもわかりました。それがWindowsに収録されたgoodtime.mpgである可能性が高そうです。

 確たる証拠を求め、今度はamazon.comでCDを検索してみると、彼女のソロアルバム「ピクチャ・パーフェクト・モーニング」に確かに「グッドタイムス」という曲があります。幸運なことにその曲はウェブで試聴できるようになっていました。息をつめるような気持ちで試聴のリンクをクリックしてみると、流れてきた曲はまぎれもなくWindows95のあの曲なのでした。goodtime.mpgのあの女性は誰なのかという数年来の疑問が解けた瞬間です。

 Windows95が登場した当初、私はこのOSのことをMacintoshの恥知らずな物真似であり、遊び心あふれるMacintoshとは正反対のセンスの悪い無味乾燥なシロモノ、というように受け止めていたと思います。それだけに、そのなかに魅力的なミュージッククリップであるgoodtime.mpgが入っていたということが強く印象に残っていたのでした。そしてそれが今になって、たまたま手にした古い雑誌からgoodtime.mpgを歌っていたアーチストのことを知ることができたというのが、なんだか面白く、また不思議なようでもありま した。(2004.4.10)

No.257 ペイジー

  先日、社会保険庁から国民年金の納付書が郵送されてきました。それ自体は毎年のことですが、同封されたパンフレットを見て、例年と大きく違う点がひとつあることに気付きました。それは「ペイジー」での納付が可能になったという点です。
 パンフレットによると、ペイジーとは「公共料金、地方税、社会保険料やインターネットショッピングなどの料金をパソコンや携帯電話、Pay-easy(ペイジー)マークの貼付されているATMなどを利用して支払うことができるサービス」。こういうものが普及しつつあったとは知りませんでした。
 調べてみると、ペイジーは政府の進める電子政府の一端を担うもので、民間企業、金融機関、官公庁、地方公共団体などで構成される日本マルチペイメントネットワーク推進協議会が運営しています。2001年10月にみずほ銀行からNTTドコモへの料金支払いが可能になったのがサービスのスタートで、以来、ペイジーで支払いのできる公共料金や民間サービスが少しずつ増えていき、現在は国民年金の保険料の支払いも可能となっているというわけです。
 で、新し物好きの私は、さっそくペイジーを試してみることにしました。銀行のインターネットバンキングは以前から利用しているので、銀行(東京三菱)がペイジーに対応していれば、インターネットでの支払いが可能なはずです。東京三菱銀行のインターネットバンキングにログインしてみると、画面内にペイジーのマークが見つかりました。これなら大丈夫そうです。ペイジーマークをクリックすると、国民年金の納付書に記載されている番号の入力を求められます。いくつかの番号を入力すると、画面にこちらの名前が表示されます。確認画面を経て、支払いは完了。時間にして数分ほどでしょうか。じつに簡単なものでした。江角さんにもお勧めしたいペイジーです。(2004.4.3)

No.256 角をタメテ牛を殺す

  恥ずかしながら、私はつい最近まで「角を貯めて牛を殺す」だと思っていました。そしてその意味は、角ごときを貯める目的で牛を殺してしまうなんてもったいないことだ、本末転倒なことだと解釈していたのでした。
 ところが「貯める」ではなくて「矯める」だったのですね。「矯める」と書いて「ためる」と読む。「矯」は「矯正」の「矯」、つまり「曲がったものをまっすぐになおす」(広辞苑)ことです。ということで「角を矯めて牛を殺す」とは、角をまっすぐに直そうといじくっているうちに牛を死なせてしまうということであり、その心は、「少しの欠点を直そうとして、その手段が度を過ぎ、かえって物事全体をだめにしてしまう」(広辞苑)ということなのでした。
 そういうことを人間はよくやってしまうから、こういうことわざが生まれたのでしょう。考えてみると、物事を「矯める」(矯正する)ということは、なかなか容易なことではありません。たとえば歯の並びを矯正する程度のことですら、長い期間、歯にブリッジをはめて生活するという忍耐をしなければならないのです。人の性格、人間関係、組織のあり方、国のあり方…、そういうものをまっすぐに直すのは大変なことでしょう。がんばりすぎると、「牛を殺す」ことになりかねない。
 やはり昔の人の言葉には知恵が詰まっているようです。(2004.3.27)

No.255 地獄からきたDVD

  これまでDVDというとツタヤのレンタルで利用するくらいで、パソコンではあまり使うことがありませんでした。それが、仕事の都合でDVDへの書き込みができるドライブをパソコンに搭載し、データを保管するなどの用途にも使うように最近なりました。
 DVDのメディア(ディスク)にいろいろな種類があってややこしいことになっているということは知っていましたが、実際にパソコンショップでメディアを購入する段になって、その混沌ぶりに心底うんざりさせられました。パソコンショップの棚には、細かく分けるならば数十種類におよぶDVDのメディアが並んでいるのです。メディアを購入しようとする人は、用途や価格などを考慮してそのなかから最適なものを選ぶ必要があるわけです。
 私がパソコンに搭載したドライブで使用できるメディアは、DVD+R、DVD+RW、DVD-R、DVD-RW、CD-R、CD-RWの6種類です。CD-RとCD-RWのCD系を除いたとしても4種類。4種類の違いを認識して使い分けるということは、正直にいって私には苦痛です。メディアを購入するときに、この用途にはこれが適しているからこれを買おうというような判断がその場でパッとできるとは思えません。
 どの種類のDVDメディアを使えばよいのか、かろうじて判断できたとしましょう。しかし、峠を越えたと思ったら、その先にまた峠が現れるというのがDVDの世界なのです。今度は、何倍速のものがよいかという判断を迫られます。「倍速」というのは、データを書き込む速度が標準の何倍かという話。私の使用するドライブの場合でいうと、DVD+Rならば4倍速か2.4倍速、DVD+RWならば2.4倍速という具合に、特定の倍速のメディアが推奨されています。DVD+Rのメディアだったらどれでもよいというわけではないのです。
 推奨する倍速のものが見つかったとして、それでもまだレジに向かうことはできません。さらに、それが推奨メーカーのものかどうかを確認する必要があるのです。メーカーについては、それほど神経質になる必要はないかもしれませんが、しかしドライブのマニュアルでは、たとえばDVD+Rの2.4倍速なら三菱化学、DVD-RWの2倍速ならTDKかパイオニア、という具合に具体的にメーカーを推奨しているのです。そして、推奨のものを使用しない場合はデータが書き込みできない場合があるとも述べています。無名メーカーの安いメディアを買ったら書き込めなかった、などという話はよく聞きますから、やはりメーカーのことも気にしたいところです。
 私はパソコンショップの棚の前をうろうろし、持参したドライブのマニュアルを何度も見、購入するメディアを決めるまでに20分くらいはかかったように思います。数十種類のDVDメディアを前にして「ヤレヤレ、どうしてこんなことに…」とうんざりした気持ちになったことがある人は私だけではないでしょう。当面、 このメディアのことは「地獄からきたDVD」と呼ばせてもらうことにします。(2004.3.20)

No.254 「キャットイヤー」後日談

 2月7日のコラムでキャットイヤーのことについて書きましたが、たまたまその二日後に検索サイトGoogleでキャットイヤーについて検索したところ、検索結果の上から数番目のところに私の書いたコラム(つまりこのページ)が出ていました。ひと月以上経過した今日の時点でもそれは変わりません。天下のGoogleでの検索結果の上位に出てくるなんて! とちょっと驚いたのですが、そのことからいくつかのことがいえそうです。
 一つは、「キャットイヤー」という言葉がそれほどは普及していないということ。じつはGoogleでの検索結果のトップは、猫の耳の形をしたアダルトグッズのページで、インターネットの時間の速さとは関係のないものでした。インターネット用語としては、やはりドッグイヤーのほうが圧倒的に一般的で、キャットイヤーのほうはあまり使われていないのです。そういうわけで、私のコラムも上位に食い込むことができたのでしょう。
 もう一つは、ウェブサイトに書いたものは程なくして検索サイトで検索できるようになるということです。少なくとも、その可能性がある。Googleのような検索サイトは、定期的にインターネットを調べ、インターネット全体の“索引”というべきデータベースを作り、利用者が検索を実行したときはこの索引から該当する用語を探します。数十億ページも存在する世界中のウェブサイト全体をそのつど調べまわることなど不可能ですから、あらかじめ索引を用意しておくわけです。索引作りは定期的に・自動的にプログラムによって行われますが、できたてのウェブサイトの情報は次の索引作りまではまだ索引に収録されていないので、検索サイトでも検索できないことになります。この索引作りがどのくらいの頻度で行われているかによって、どれだけ新しい情報が調べられるかが変わってきます。その頻度については不明ですが、ちょうどタイミングが合えば、ウェブサイトに載せた情報がすぐに検索エンジンの索引に収録され、世界中から検索できるようになることもある――それが今回のキャットイヤーの件で証明されたといってよいでしょう。
 ちょっと面白い感じがしたので、キャットイヤーの後日談を書いてみました。(2004.3.13)

No.253 サービスと料金

 皆さんは自分で自分の散髪をしたことがあるでしょうか。私は中学生のある時期、そうしていました。それなりに上手にできているつもりでしたが、翌日友達から「自分で切ったの? うまいね!」といつも言われていましたから、少なくとも自分でやったことは明らかにわかる程度の仕上がりだったようです。なぜ自分でやっていたのか、いまとなってはよく思い出せません。床屋さんのカットに満足できなかったからなのか、髪なんてこれで十分という一種の開き直りだったのか…。おそらくはその両方だったのだろうと思いますけども。大人になってからも、その両方の理由によって、電気バリカンで坊主刈りにしていた時期もありました。
 いまはふつうに床屋さんで切ってもらっていますが、どの店に行くかというのは、なかなか判断の難しい問題です。いったん切ってもらえば私の場合は三か月程度はそれで持たせますから、いわば三か月間の自分の姿をその床屋さんに託すことになるわけです。いきおい店の選択は慎重にならざるを得ません。
 以前は、千円で切ってくれる店に行っていたのですが、最近はおじいさんが店主をやっている昔ながらのタイプの店を利用しています。うちの近くにあるカット千円の店は、男性客もOKな美容院という類の店なのですが、男性客に敵意でも抱いているかのような接客態度の店員(男性)がおり、ハサミを持つ相手に身を預ける側としてはどうも落ち着かなかったのでした。一方、おじいさんの床屋さんは、年配者らしい柔らかい物腰で接してくれますし、一人でやってますからそのときによって担当が変わって切り方が違うなどということもありません。カットの形はまったくいま風ではありませんが、それはむしろ私の望むところであります。そして千円の店にはない念入りなマッサージ。料金こそ三千何百円かしますが、むしろそれが安いと感じられるほどのサービスなのです。
 店主の話では、あと一年くらいやったら店をたたむとのこと。残念ではありますが、店主はもうかなりの高齢ですからやむを得ないでしょう。息子さんは別の仕事に進んでおり、店を継ぐ人もいないそうです。その話を聞きつつ「ならば私が継ぎましょう」と言いたい衝動を覚えたのではありますが…。(2004.3.6)

No.252 『ミーム・マシーンとしての私』を読む

  生物学・進化論の観点から生物全体、そして人間の存在というのものを冷徹に見つめることで発展してきたのが社会生物学だと思うのですが、本書はその冷徹さをさらに深め、社会生物学だけでなく心理学や文化人類学など幅広い学問分野の成果を土台に、人間の心の成り立ちを考察したものといえます。その結論については、「ほんとうだろうか」という気持ちは残るものの、個人的には忘れがたい本となりました。
 「ミーム」は、ドーキンスが歴史的名著『利己的な遺伝子』のなかで提唱した概念で、「文化の遺伝子」あるいは「文化の単位」というような意味を持ちます。身長、肌の色、目の色など個々の遺伝情報の単位のことを「遺伝子」といいますが、ミームは文化が伝播するときの遺伝子の役割を果たすものに対して与えられた名前です。ここでいう文化とは、非常に広い意味で使われており、たとえばジャンケンの方法だとか口笛の吹き方、歌のフレーズ、警句といった小さいレベルのものから、宗教、言語いったような大きなレベルのものまであらゆる規模のものを含みます。田中さんが鼻歌を歌い、それを佐藤さんが真似したら、それは田中さんの保持していたミームの一つが複製されて佐藤さんに伝わったことになります。マニュアル制作に携わっている方なら、濡れた猫(あるいは子犬)を乾かそうと電子レンジに入れたところ…という悲喜劇を聞いたことがあると思います。この都市伝説風のエピソードも『ミーム・マシーンとしての私』のなかでミームの一例として紹介されています。本当のことであるかどうかに関係なく、このように人から人へと会話や本や各種のメディアを通じて伝播していく(複製されていく)ものはすべてミームなのです。
 生物が進化するのは、自然淘汰によって選別がなされ、より環境に適したタイプが生き残っていくという原理によります。ダーウィンの提唱したこの自然淘汰説を発展させ、淘汰を受けるのは個体ではなく実は個体のなかの個々の遺伝子であるということを主張したのがドーキンスの「利己的な遺伝子」説。そしてドーキンスは、遺伝子を遺伝子たらしめる特性とは、それが自己複製子(自己を複製するもの)である点にあるとしています。さらにドーキンスは考察を進め、遺伝子のほかに自己複製子と呼べるものはないかと考えます。自己複製子であるならば、それは自然淘汰の原理によってより複製されやすいものが生き延び、つまりは「進化」していくだろうというのです。そしてドーキンスが遺伝子以外の自己複製子だと指摘したのが人間の文化でした。そしてその文化の遺伝子をドーキンスはミームと名づけました。つまり、ミームは自然淘汰を受け、進化するのです。人間の中に存在する、遺伝子とは別のもう一つの自己複製子がミームなのです。
 『ミーム・マシーンとしての私』の著者スーザン・ブラックモアは、このミーム説を徹底的に推し進めます。そして、ミームの生存競争が、人間の肉体や心のあり方にも大きな影響を与えたことを論証します。人間の利他的な行動の理由、人間の脳が他の種と比べて異常なほど大きい理由、人間に「自分」という意識の生まれた理由、こういったことについてミーム学の観点から著者は答えを出していきます。
 人間とは何か、どこから来てどこへ行くのか、なーんてことを考えたりすることがある人なら、きっと面白く読めることでしょう。(2004.2.28)
『ミーム・マシーンとしての私』(上・下)
スーザン・ブラックモア著 垂水雄二訳 草思社

No.251 エクスパック500

  翌日配達、料金一律500円、無料集荷、ポストへの投函も可――日本郵政公社が提供しているエクスパック500というサービスの特長です。これまで郵便小包(ゆうパック)というと、宅配便より料金は安いものの、翌日配達が保証されていないということからビジネス用途での荷物の配送においては敬遠されてきた面があると思います。少なくとも私はそうでした。しかしこのエクスパックは、翌日配達をうたっており、しかも料金は500円なのです。宅配便の有力なライバル登場と感じます。
 宅配便と比べたときの欠点は、事前に厚紙の専用封筒を500円で購入しておく必要があることと(この封筒代に送料が含まれている)、専用封筒の容量がそれほど大きくないということです(248mm×340mm、A4が250枚入れられる程度)。専用封筒はあらかじめ買い置きしておけばよいわけですが、容量の小ささについてはいかんともしがたいので、ある程度は用途は限定されますね。それほどかさばらない資料や校正紙のやりとりに使っていきたいと思っています。ビジネスのコストダウンをお考えの方は、試されてみてはいかがでしょうか。(2004.2.21) 

No.250 春一番に思うこと

  干した洗濯物を取り込むのにベランダに出たところ、エアコンの室外機の上においてある洗濯バサミ入れがひっくり返っていました。また、傘状の洗濯物干しが物干し竿から外れて下に落ちていました。そんなことはいままでなかったので、「どうしてかな」と不思議な気がしたのですが、「春一番」が吹いたということをのちほど報道で知りました。ベランダの散乱はそのせいだったようです。
 春一番は春の到来を告げる強い南風のことですが、「こんにちは! 気象庁です」(2003年2月号)によると、気象庁では春一番についてきちんとした定義をしており、立春から春分までのあいだであることや、日本海に低気圧があることなど、いくつかの条件をすべて満たした場合だけ「春一番が吹いた」と発表することになっているそうです。ただし、この言葉そのものは気象庁が発明したものではなく、昔からあったもの。平凡社の世界大百科事典によると、春一番はもともとは漁師言葉で、それが1950年代後半にマスコミで使われだして一般化したとのこと。
 目先のことに追われる日々を送っているせいか、「春一番」のような季節の言葉を作った人はすごいものだと私は感じます。春一番は、一年に一度しかない現象です。つまり、この言葉を作るということは、一年という長いサイクルで繰り返される現象に気付いたということです。ただの強風と区別される新しい概念を発見したといってもいいかもしれません。私だったら、それが起きたときに「ああ今日は風が強いな」と毎年思うだけでしょう。何年生きても、春先に強い南風が吹くという現象が毎年起きるということには一生気付かないかもしれません。たった一つの言葉を生みだすためであっても、そこには大いなる人間の知性の働きがあるといえるのではないでしょうか。(2004.2.15)

No.249 キャットイヤー

  最近はあまり聞かなくなりましたが、かつてインターネットの変化の速さをたとえて「ドッグイヤー」という言葉がよく使われていました。犬は一年で七つ歳を取る、インターネットの時間の進み方もそれくらい速い、という意味です。確かにインターネットは日々変化していき、次から次へと新しい動きが現れ、あるものは発展し、あるものは消えていく。
 犬の寿命はかつては十年と考えられていたようです。七十年生きる人間と比べると、犬の一年は人間の七年分に相当することになるわけで、そこから「犬は一年で七つ歳を取る」ということになるわけでしょう。ところが、ペットの扱いがよくなったのか、犬の寿命は延びてきているようです。二十年生きる犬もいるとか。こうなってくると、「犬は一年で七つ歳を取る」というのが当てはまらなくなります。それで、いまでは最初の一年(三年の説もある)で十八歳になり、あとは毎年四歳ずつ増えていくといわれているようです。
 寿命が延びる傾向にあるのは猫のほうも同じようです。猫の寿命は犬と似たり寄ったり。ですからインターネットのことをドッグイヤーといわずキャットイヤーと呼んでもよかったはずなのですが、なぜドッグイヤーになったのでしょうね。ドッグイヤーが英語にもとともあった表現なのかもしれません。あるいは、その比喩を使い始めた人が犬好きだったからなのかも。
 ところで、我が家には一九九三年に生まれたと思われる雄の黒猫(アシスタントA)がいます。インターネット時代の前夜といってよいその時代に生を受け、これまでの十年あまりの期間を”キャットイヤー”のスピードで年齢を重ねてきた彼。人間でいえば、すでに中年を過ぎつつある年代でしょうか。昔は全身真っ黒だったのですが、足先や腹に白い毛が目立つようになってきています。この間までは人が洗面台で手などを洗っていると水をもらいに洗面台に飛び乗ってきていたのですが、最近はそれもできなくなってしまいました(中年太りのせいもあるのですが)。
 そんな老化ぶりにふと思ったのですが、人がドッグイヤーの世界で働くということは、ドッグイヤーのスピードで年老いていくということになるのでしょうか。もちろん肉体的にはそんなことはありえませんが、もしかしたら精神であるとか感性であるとか、そういう内面の部分では、過酷な競争のなかで通常の速さ以上で老化していってしまうということはないでしょうか。もしそんなことがあるとしたら、怖いですね。(2004.2.7) 

No.248 二十四年後のマークシート

 先日、 横浜で放送大学の単位認定試験を受けてきました。二教科だけではありますが、この半年間の勉強のしめくくりです。しっかりと試験勉強をして臨みたかったのですが、あいにくと試験前の期間はいろいろと忙しく、十分、準備をしておくことができず、ぶっつけ本番という具合になりました。
 試験はマークシート方式です。HBの鉛筆を使用するよう指定されていたので、事前に鉛筆を購入し、中学生時代に使っていた鉛筆削りで削っておきました。と、ここまではよかったのですが、当日は消しゴムを忘れてしまいました。気付いたのは、緊張感に静まり返った教室で試験監督官がおごそかに試験開始五分前を告げたすぐあと。
 「しまったー!」と心の中で大声で叫び、自我が崩壊しそうになるのを必死でこらえながら、どうすべきかを考えました。消しゴムがなければ、一度塗りつぶしたマークを取り消すことはできません。いっさい間違えないよう一問ずつ慎重に解答していくか、あるいは問題用紙の選択肢に印をつけていって最後に解答用紙に転記するか…。
 私は思いついて、後ろの席の人にたずねました。
「消しゴムを余分に持っていませんか?」
「ありません」
 迅速かつ冷酷な返事にダメージを受けながらも、「そうですか、すみません」とできるだけ平静を装いつつ前に向き直ると、後ろから「試験場で用意しているものがあるんじゃないかな」というアドバイス。そのやり取りに気付いた試験監督官が頭のかなりすり減った消しゴムを渡してくれました。試験会場にこのような準備がなされているということは、どうやら私のようなドジが毎年いるのでしょう。その消しゴムを前回使った誰かにひそかに親近感を抱きつつ、試験開始を待ちました。
 ◇ ◇ ◇
 そんな具合にして試験を受けたわけですが、このマークシート方式については思い出があります。
 私の大学入試は、国内にマークシート方式の共通一次試験が導入された次の年でした。当時は、マークシート方式そのものにまだなじみがなく、鉛筆の硬さはどれがいいとか、どういう塗りつぶしかたをしなければいかんとか、学校も受験雑誌などもなんだか大騒ぎだったような印象があります。マークを塗る練習もさせられたのではなかったか。おそらく、機械で解答を読み取るということに対して「本当に大丈夫か」という不安感が世の中全体にまだ強かったのではないでしょうか。ですから、機械に誤読されないよういかに適正にマークを塗りつぶすかということに神経を使ったのでしょう。
 それから二十四年。今回の単位認定試験も含め、いまではごく普通にマークシートが試験に利用されています。試験だけではありませんね。何かの届出用紙だとかアンケート用紙などがマークシート方式になっているのも見たことがあります。機械の読み取り精度も向上したことでしょう。機械が読み取ることに対する不安感はもう解消されたようです。かつての受験生がいまや40過ぎの中年なのですから、世の中も変わって当然ですね。(2004.1.31)

No.247 行動力

 先日、一人の中国人女性(Sさんとしておきます)が我が家を訪ねてきました。1時間ほど歓談して、彼女は帰っていきました。

 ことのいきさつはこうです。昨年末のこと、ある作家のファンサイトを運営する私に、その作家の生活を取材したルポルタージュ番組のビデオテープを貸してほしいというメールが届きました。その送り主がSさん。中国で闘病する家族にぜひ見せたいということだったので、すぐにテープを宅配便で送ったのでした。そうしたところ、今年になって、その番組内容に彼女やその家族は大いに感動し、励まされもしたので、ぜひお礼にうかがいたいという連絡がありました。最初はフランス料理店に招待されたのでしたが、都内に出る機会がなかなかありませんでしたし、ビデオテープを貸したことに対してそこまでしてもらっては申し訳ないという気持ちもあり、断ったのでした。

 そういったいきさつののち、彼女は我が家を訪問したのでした。そして丁寧にお礼をしていただき、中国のお土産もいただきました。

 この経験で感じたことはいろいろあるのですが、その最大のものは、Sさんの行動力の見事さです。見知らぬ人にメールを書き、ビデオテープを借り、そのお礼に相手の家を訪ねる。そういうことをしようという積極性、それができる行動力。そういうものをもっているのといないのとでは、人生はずいぶん違ったものになるに違いありません。積極性と行動力があったほうが、人生は実り多いことでしょう。

 別れ際、Sさんは自分から手を差し出して握手を求めてきました。握手を交わし、Sさんと別れたのち、「すごいものだなあ」と私は感慨を覚えました。Sさんの行動力に感銘を受けつつ、それが自分に欠けているものの一つでもあるとも考えました。Sさんの流儀に学びたいものです。(2004.1.25)

No.246 装飾過多説明過剰馬鹿丁寧

  いま『ミームマシーンとしての私』という本を読んでいるのですが、原題はThe Meme Machine。「としての私」という意味の言葉は原題にありません。正月に私が観たDVD『戦場のピアニスト』、これの原題はThe Pianist。やはり、原題にない「戦場の」という言葉が邦題に加えられています。このように原題にない言葉が邦題で付け足される例は、書名、映画名、歌の題名などにおいて枚挙にいとまがありません。

 これはどういった理由によるのでしょうか。直接的には、その作品を売る側が、原題の直訳よりは言葉を付け足したほうが売れると判断したから、というのが理由になるでしょう。しかし、ではなぜ原題の直訳では売れないと感じたのでしょうか。

 確かに、言葉を足すことによって作品の内容やイメージがより正しく伝わってくるということは言えると思います。例えば『戦場のピアニスト』が、もし『ピアニスト』という題名だったら、いったいどういう映画なのかあまりに漠然としすぎているように感じませんか? 私はそう感じます。『ミームマシーンとしての私』は、スーザン・ブラックモアという女性の科学者が書いたものですが、「としての私」と付け加えることで一層興味をそそられる感じはしますし、内容的にはそう付け足してもおかしくない、筆者の個性が行間からあふれている本なのです。言葉を付け足すことには、価値があるわけです。少なくとも、ここ日本では。

 しかし、欧米では違う。『戦場のピアニスト』は、The Pianistで十分なのです。それで問題なく通用し、カンヌ映画祭で最優秀作品賞を受賞するほど評価もされてます。この違いは何なのでしょう。

 「戦場の」がないと漠然としすぎている、物足りない、そう感じるのは、日本人が装飾過多・説明過剰に慣らされてしまったからなのでしょうか。詳しく説明してもらわないとイメージがわかないという、ある種の「幼さ」なのでしょうか。そういえば、駅のホームや電車内でのアナウンスも親切すぎるほど親切です。

 俳句や短歌のこと思い起こすと、簡素な言葉から背景や情感を汲み取るというのはむしろ日本人にとって慣れ親しんだことであり、得意なことのように思えます。それがまた、どうしてこういうことになってしまったのか、いつからこうなってしまったのか、皆さんはどう思われますか? (2004.1.17) 

No.245 「座禅組むより肥やし汲め」

  『岩波ことわざ辞典』(時田昌瑞著、岩波書店)を見ると、ふむふむと頷けるものや思わず笑ってしまうものなどがたくさん出てきます。たとえば「座禅組むより肥やし汲め」。「自分の身に添わないことをやるより、本業をおろそかにせず励め」という意味です。仕事に直接関係ないことに精を出してしまうことも多い自分にとっては耳の痛い言葉。でも気に入りました。

 これはどうでしょう。「よい分別は雪隠(せっちん=便所のこと)で出る」。分別とはここでは「考え」のこと。つまり、便所のような一人静かになれる状況においてよい考えは生まれるという意味。分別のフンが、いい味を出していますね。

 「名人は人を謗(そし)らず」「弱い犬ほどよく吠える」。発言に気をつけたくなります。

 「尻に目薬」。ようすが目に浮かびますね。意味は、まったく見当違いのことや無駄なこと。たしかにそりゃあ無駄だ。

 「一つまさりの女房は金の草鞋で探しても持て」。これはずっと「キンのわらじ」だと思っていたのですが、「カネのわらじ」だったのですね。つまり、金属製で擦り切れないわらじをはいて探し回ってでも年上の女房を持てと。ふむふむ、姉さん女房はそんな価値があるものなのだな、などと余計な ことを考えていると、「座禅組むより肥やし汲め」という言葉が飛んできそうですね。(2004.1.10)

No.244 非言語コミュニケーション

 個人的意見ですが、車を安全に運転するには、それが”コミュニケーション”でもあるということをよく理解しておく必要があると思います。コミュニケーションとは「情報を伝える」ということです。車どうしはもちろんのこと、人や自転車など周りのすべての存在との間でコミュニケートすることで安全運転は成立するのです。

 わかりやすい例としては、右折や左折のとき、車線変更のときなどにウインカーを点滅させるという行為があります。あれは周囲に「これから右(左)に行くよ」という意思表示をするための行為であり、さらにいうなら「だから皆さんぶつからないようにしてよね」と依頼する行為でもあります。 それを見て、周囲は衝突を避けるべく行動します。まさにコミュニケーション。

 そんなことは誰でもわかっている? いやいや、路上に出てみれば、それを理解していないドライバーが少なからずいるということがわかります。右折左折を始めてから、あるいは車線変更を始めてから、ウインカーを点滅させるドライバーを私は何度も見かけました。 ウインカーを使わない場合さえあります。ゴビ砂漠のようなところで運転しているのならばともかく、ほかにも車や歩行者がいるところでウインカーのタイミングが遅いのは、ウインカーを点滅させるまで「私はここで曲がらない」という誤まったメッセージを周囲に伝えることになり、とても危険なのです。彼らは運転の安全がコミュニケーションによって保たれていることを理解していません。

 ウインカーに限ったことではありません。速度、加速、減速、車線内の位置、他の車との距離、そういった要素の一つ一つがドライバーの意思を周囲に伝える働きをします。ドライバーはそのことを意識し、自分が何をしようとしているのかが周囲にはっきりと伝わるように運転することが 大切です。

 こういった路上のコミュニケーションは、じつは車だけの話ではありません。たとえば、あなたが道を歩いているとき、向こう側からも人が歩いてきたとします。両者ともにツッパリハイスクールロックンロール(?)といった例を除けば、どちらかがまず片側に寄って「私はこちら側を通りますので、あなたはそちら側をお通りくださいな」という意思表示をし、もう一方の側も「あ、はい、わかりました。では私はこちら側を通りますね」と反対側へと寄る、というコミュニケーションが円滑に行われるのです。渋谷ハチ公前のスクランブル交差点などを観察すれば、大勢の老若男女がじつに巧みにこのコミュニケーションを行い、行き来を混乱なく成り立たせているさまが見られるのではないでしょうか。車にしろ歩行者にしろ、 このような非言語(言葉によらない)コミュニケーションを行うことで衝突を避けているということがいえると思います。

 さて、考えて みると、非言語コミュニケーションは、私たちの生活や仕事の場でも欠かせないものです。自分の行動(行動しないという行動も含め)が相手にどういうメッセージを伝えるか、そのことをよく考えることで、人間関係や仕事の流れをより円滑にすることができるかもしれません。テレビでこんな歌をやっていました。彼女を車で家に送ったあと、彼氏がいつも曲がり角でブレーキランプ5回点滅させ る、それが二人の「アイシテル」 のサインだ、というような歌詞です。非言語コミュニケーションを人間関係をよりよくするのに役立てているよい例ではないでしょうか。(2004.1.4)

No.243 刀を抜かぬ者たち

 『ラストサムライ』という映画のプロモーションで来日したトム・クルーズがテレビ番組で筑紫哲也と対談したときに『武士道』という本が話題になっていたので、私も読んでみました。『武士道』 (新渡戸稲造著、矢内原忠雄訳、岩波文庫)は、外国人に向けて武士道を解説した本で、義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義など武士道を構成する徳目について、日本文化を共有しない人たちにもわかるようにかみくだいて説明しています。明治時代、海外に在住していた日本の知識人の価値観や考え方などがわかって面白いですし、なんとなくわかったような気になっていた武士道というものを明確な言葉で具体例も示しつつ説明されることで「ああ、こういうことなのか」と納得がいくところもありました。

 そのなかで印象に残ったことのひとつとして、<刀>の扱いがあります。刀は武士の魂であり、武士の象徴でもある、そういう存在のようです。名刀ムラサメなどと固有の名前まで与えられたりするわけですが、それも刀への敬意・愛情・畏敬の念の表れのようです。おいそれとは抜かないが、何かことあるときにはそれを抜いて人を斬る、あるいは自分の命を投げ出す、それを躊躇することはないというのが武士の覚悟のようです。武士は家庭でそのように育てられるし、社会からもそうであることを期待されている。逆にいうと、<刀の論理>でがんじがらめに縛られた存在が武士であるわけです。

 『武士道』 は、そのように語りつつも、「武士道の究極の理想は結局平和であった」と述べ、その端的な例として勝海舟を紹介しています。勝は騒然とした維新前後の世を権力者として生き、暗殺者にもたびたび狙われたにもかかわらず、一度も人を斬らなかったというのです。「刀でも、ひどく丈夫にゆわえて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られてもこちらは斬らぬという覚悟だった。」という勝の言葉を引用しています。

 もう一人、武士階級でありながら刀をきらった人物として福沢諭吉が思い出されます。『福翁自伝』によれば「これはどうしたって刀はいらない、馬鹿馬鹿しい、刀は売ってしまへと決断」したとあります。仕事上、外出時には大小を差す必要もあったので、刀らしく見えるように偽物を細工して使ったそうです。

 私たちは、さまざまな論理・規範で何重にも縛られているはずです。男はこうあらねばならない、女はこうあらねばならない、大人はこうあらねばならない、サラリーマンはこうあらねばならない、結婚式はこうあらねばならない、葬式はこうあらねばならない、学校はこうあらねばならない、日本はこうあらねばならない、などなど。しかし勝海舟と福沢諭吉は、社会を覆う「武士はこうあらねばならない」という論理の根幹をなす<刀の論理>から自由だったといってよいのではないでしょうか。

 なぜ彼らがそうであれたのか。それは一言でいうなら、事態を冷静に見通す徹底した合理主義と、強靭な自立心によるのではないでしょうか。そのような人物だからこそ彼らは歴史に名を残すことにもなったのでしょう。ふりかえって、現代に生きる私たちはどうでしょうか。彼らのように、「〜ねばならない」から自由でしょうか。意味のある、正しい「〜ねばならない」であればよいのですが、そうではない「〜ねばならない」に縛られて、人を傷つけたり自分を苦しめたりしていないでしょうか。100年ほど前に書かれた『武士道』を読み、そんなことを感じました。

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 さて、当コラムはこれが今年最後の回となります。不景気が続くなか、この一年間、無事に仕事をしてこれたことについて、多くの方々に感謝しています。ありがとうございました。来年もまたよろしくお願いいたします。(2003.12.27)

No.242 『私は薬に殺される』を読む

 薬害被害者の闘病記『私は薬に殺される』(福田実著、幻冬舎)を読みました。このなかで印象に残ったことのひとつとして、医療現場の「マニュアル通りの対応」への批判があります。「どこへ行ってもマニュアル通りの診察のため、マニュアルから外れた俺の症状は無視され、誰も信じない」(p.29)というのです。このように感じているのは、たぶんこの著者一人だけではないでしょう。似たような経験をしている人は少なくないのではないかと思います。

 「マニュアル通りの対応」への批判は、そういう対応をする人々への批判でありますが、そういう対応をさせているマニュアルの問題でもあるわけです。マニュアルを制作する側にいる者として、この批判を受け止める必要があるように私は感じました。

 マニュアル制作は医療とは無関係だから無視してよいとか、ここでいう”マニュアル”は製品に添付されているマニュアルではないから無関係だとか、そういう意見もあるかもしれません。しかし、私たちの仕事の範疇には業務マニュアルの制作もあります。業務マニュアルにおいては、「マニュアル通りの対応」への批判は直接関係することだと思います。また、製品のマニュアルの場合にしても、「マニュアル通りの対応」への批判を受け止めるなら、想定外の状況が起きたときにユーザーにどうしてもらうかを考えるという方針が導かれるのではないでしょうか。

 「マニュアル通りの対応」が問題なのは、そのマニュアルがその業務の本質的な部分を忘れているせいではないでしょうか。医療の場合でいうなら、患者を救うということが本質です。ですので、一般的な症例から外れていて治療方法が見つからないケースがあったとしても、患者を突き放すのではなく、どういう形でもよいのでとにかく患者をフォローし続ける、患者を見放さないという対応を取るべきだろうと思います。マニュアルは、そういう対応までを含めた内容であるべきなのです。

 製品マニュアルの場合でいうと、ユーザーが製品を使えるようにするということがマニュアルの本質的役割です。そこを基本に置くのと置かないのとでは、できあがりは違ってくるはずです。

 「マニュアル通りの対応」という言葉が非難ではなく褒め言葉になるような、そういうマニュアルを作りたいものです。(2003.12.20)

No.241 都会

 ニューヨークは刺激的な街で、そこにいるだけでエネルギーが与えられる、元気が出る――などという話を聞くことがあります。ミュージシャンとかタレントとかがインタビューでそう語っているのを聞いたことはないでしょうか? 米国に行ったことのない者のヒガミかもしれませんが、いつもそういう話にはピンとこない感じを受けていたのでした。そこに行くだけで刺激を受けるなんてことがあるかねぇ、と半信半疑だったわけです。

 ところが、先日、初めてニューヨークに行ってみて考えを改めました…、と話が展開すると面白いのですが、残念ながら行っていません。予定があるわけでもありません。

 しかし――。

 先日、打ち合わせで都内に出た際、「もしかしたらこういう感覚だろうか」と思う瞬間があったのでした。特別な出来事があったわけではありません。たんに地下鉄の車内でつり革につかまりながら周りを見回しただけなのです。そこには地下鉄車内のありふれた光景があっただけですが、なぜかそのとき体内にエネルギーが湧きあがるような感じがしたのでした。

 それはたぶんこういうことなのだろうと思います。地下鉄の車内には、勤め人、小さい子を連れた母親、学生、老人、いろいろな人たちが、それぞれの服装で腰掛け、あるいは立ち、話したり新聞や雑誌を読んだり目を閉じていたりと思い思いのことをしていました。その姿は、一言でいうなら、生きている人間の姿です。地下鉄にしろ路上にしろどこかの店内にしろ、街では私たちは大勢の人たちの、いま生きている・生き抜こうとしている姿を目にするわけです。それは自然と「自分も生きていこう、がんばっていこう」という気持ちを引き起こす刺激となるのではないでしょうか。

 その日は、久しぶりの東京でした。しばらく神奈川の自宅にこもって仕事をする日々が続いていたなかでの上京でしたので、都会の空気に対して敏感になっていたのでしょう。それで、東京のありふれた光景に活力を与えられるような気がしたのではないかと思います。

 ニューヨークを知る人からしたら、「世界の東の端っこの国の陰気な地下鉄の中で? ニューヨークの刺激とは比べものにならんよ」という話かもしれません。たぶん、個性が尊重され、競争も厳しい米国の都会では、生きている人間の姿もより強く迫ってくるのではないでしょうか。しかし、程度の差こそあれ、自分がその日感じたあの刺激の延長線上に、ニューヨークの刺激もあるのではないか。いまはそれを自分の中の仮説として、いつかニューヨークで検証できる日に備えておこうと思います(そんな日が来るとよいのですが…)。 (2003.12.13) 

No.240 発見

 あることを調べようと、これまでまともに読んだことのない聖書の一部を読みました。読んだのはほんの一部だけなので、まだ自分にとって聖書の世界はほとんど未知のものではあります。しかし、それでも少し意外に感じたことがあります。大げさにいうと、<発見>がありました。
 ご存知のとおりキリスト教の聖書は旧約聖書と新約聖書とからなります。旧約聖書はキリスト誕生以前の話で、キリスト教だけでなくユダヤ教の聖典でもあります。新約聖書のほうはキリスト誕生以降の話で、キリスト自身の生い立ちや言動、その弟子たちの言葉を記したもののようです。その新約聖書ですが、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書という四つの福音書から始まります。この福音書が問題。
 ここで話がそれますが、福音というのは喜ばしい知らせのことですが、キリスト教では、特に神の国と救いの教えを指すようです。これを英語ではゴスペル(Gospel)といいます。あのゴスペル音楽のゴスペルですね(そういえば確かにゴスペル音楽というのは喜びに満ち溢れている)。ですので、たとえば「ヨハネによる福音書」は英語ではThe Gospel according to Johnというらしい。ゴスペルって福音のことだったのかとか、ヨハネって英語読みするとジョンなのかとか、こういうのも私にとっては小さな小さな発見ではあります。
 さて、福音書問題に戻りましょう。先に名を上げた四福音書。私はこれまでそれぞれまったく別の話が書かれているものと思い込んでいました。ふつうそう思うのではないでしょうか? たとえば『指輪物語』に第一部から第三部まであれば、第一部、第二部、第三部はそれぞれ別の話だと考えるのは当然のことですよね? しかしながら、聖書の四福音書は、細部や重点は異なるものの、話の大筋は同じなのです。それはすなわち、キリストがどうやって誕生し、どう成長し、どういう奇跡を行い、どう裏切られ、どう殺され、どう復活したかという話なのです。なんと呼ぶのか名前を知りませんが、音楽で、一つのテーマを楽章ごとに変化させていく手法がありますが、そのようなイメージでしょうか。
 われながら、これを<発見>と呼ぶのは大げさだと思います。いまごろそんなことに気づいたのか、と思われる方も大勢いらっしゃるはずです。まあ、物を知らない人間にとっては、新しい知識を得ることの喜びの種は尽きないわけですね。仕事には関係のない話ですが、ちょっと面白かったので恥を忍びつつ紹介するしだいです。(2003.12.6)

No.239 マトリックス

 キアヌ・リーブス主演のヒット映画「マトリックス」の第三部「マトリックスレボリューションズ」を観てきました。このシリーズは、ネットワーク上の仮想現実<マトリックス>をコントロールするコンピュータと、そこから覚醒した人間たちとの戦いを描いたSF作品です。

 この映画では、人間たちはネットワークに接続されたままの状態で眠っており、脳に接続されたケーブルを介して、まるで楽しい夢を見るようにマトリックスの世界を「生きて」います。人間たちの生活のすべて、経験のすべては、仮想現実の世界の出来事にすぎないわけです。しかし、一部の人間たちはマトリックスから「目覚める」ことができ、自らをマトリックスから切り離し、本当の現実世界を見、そこで生きはじめた。

 今回、このシリーズの最終作を観て改めて感じたのは、この世界設定が、明らかに現代社会に対する批判になっているということです。私たちは、インターネット、テレビ、雑誌などさまざまなメディアを通じて世界を見ているわけですが、そこに見ているのは果たして「現実」の世界なのでしょうか。たとえばネットで暴言だらけの掲示板を見、ゲームに没頭し、テレビでバラエティ番組を見、雑誌でスポーツ記事を読みする日常によって脳内に形成される世界観というのは、世界をゆがみなく反映したものだといえるでしょうか。そんなような生活を送る私たちというのは、すでにしてマトリックスに取り込まれているといえないでしょうか。

 先日の総選挙の投票率は6割ほどだったと聞きます。4割の人たちは、自分たちが暮らす世の中をどうするかを決める行為である投票を放棄した。これはすなわち現実の世界を見ることをやめたのと等しいことのように私には思えます。これを指して、マトリックス化が進んでいるといったら大げさに聞こえるでしょうか。

 映画の設定では、キアヌ・リーブスが人間の救世主として戦いました。しかし、現実の世界では救世主など存在しません。自分自身で戦う必要があります。自分で現実世界を把握するには、メディアを通じてではなく、自分の体験を通じて世界を理解していくという過程がどうしても必要だろうと思います。

 なんだか大げさな硬い話になってしまいましたが、映画「マトリックス」のシリーズが生み出された背景には、上記のような現代社会についての問題意識があるのではないかと思うのですが、皆さんはどうお感じでしょうか。(2003.11.30)

No.238 スパムがいっぱい

 大量にばら撒かれる広告メールのことをスパムといいますが、これがずいぶんと増えました。私がメインで使っているメールアドレス宛てに毎日数十通届くほか、マイクロソフトが運営するフリーメールサービスであるHotmailのほうにも毎日10通くらい届きます。

 スパム中身を大まかに分類すると、二種類に分けられそうです。すなわち金とセックスです。インターネットで世の中はこういうところが便利になるぞ、という表の話の陰では、ドロドロっとした欲望が渦巻いている、そういう世界でもあるようです。人間の営みというのは、そもそもそういうものでしょうから何も改めて指摘するほどのことでもありませんね。

 「警察にさよならをいう方法はまだ見つかっていない」はあるハードボイルド小説のラストシーンで登場する名セリフですが、それをもじるならば「スパムにさよならをいう方法はまだ見つかっていない」というのが実情です。メールを送るなと抗議すれば、自分のメールアドレスが相手に知られ、さらなるスパムを呼び込むことになるというのが定説です。私たちにできることは、いまのところ、メールソフトやプロバイダの設定でできるだけスパムを自動的に削除するよう設定しておくことしかありません。

 こういった設定方法の代表は、メールの題名や本文に特定の言葉(たとえば「Viagra」)があったら削除する、というものです(このような機能をフィルターといいます)。ところが、スパマー(スパムを送る人)側もそれを見越して「V.i.a.g.r.a」とか「V/i/a/g/r/a」のように言葉を変えてきます。そうするとフィルターに引っかからずに通り抜けてくる。それならばと「V.i.a.g.r.a」や「V/i/a/g/r/a」をフィルターに登録しても、「v_i_a_g_r_a」としたり「v  i  a  gra」などとしたメールも来る。要するにきりがない。いたちごっこなのです。

 スパムがなくならないどころが増え続けているように見えることを考えると、スパムは宣伝方法として一定の効果があるのかもしれません。メールを何万通と大量に発送することは難しいことではないでしょうから、そのうちのほんのわずかな割合の人だけが財布の紐を緩めてくれればいいのです。それでスパマーは利益を出せる。逆に考えると、我々全員がスパムを無視し続けることができれば、スパムに宣伝効果がないということになって、スパムは衰退するかもしれません。インターネットの利用者が増え続けている(スパムのことをよく知らない人も増えるということになる)ことを考えると、全員がスパムを無視するなどというのもまた無理な話ではあるでしょうけども。やはり「スパムにさよならをいう方法はまだ見つかっていない」ということになりそうです。(2003.11.22)

No.237 本の処分

 昨日、ブックオフで20冊ほどの本を買い取ってもらったのですが、定価でいうなら合計数万円になるものが数百円にしかならなかったのが少し残念でした。
 本の処分方法として、(1)捨てる、(2)人にあげる、(3)アマゾンやフリーマーケットで売る、(4)オークションで売る、(5)古書店で売る、などがあると思います。 (1)は、本が一種の文化資産であることを考えると避けるべき方法です。過去にやって、後悔した覚えがあります。(2)は悪くない方法ですが、読みたい本は人によって異なりますから、ふさわしい貰い手がいる場合に限ります。誰だって、不要な本を押し付けられたら困りますよね。金銭的メリットからいうと (3)や(4)が一番いいのですが、手間と時間がかかります。
 今回は部屋をすぐに片付けてすっきりさせたかったので、一番手っ取り早い方法として (5)を選んだのでした。本から得た知識、本を読んでいたときの楽しさ、そういったものを考えれば損をしたわけではないですが、「それにしても数百円とは…」という気持ちがまだあるのは貧乏性のせいでしょうか。(2003.11.15)

No.236 料理

 このところ妻が毎日仕事に出かけるので、私が夕飯の準備を担当している。日々料理をしていて感じるのは、料理という行為の面白さだ。いや、もちろん大変な面もある。時間のないときなどは特にそうだ。パスしてしまいたくなる。しかし、料理することの中に何か楽しさが含まれているのもまた事実だと思う。

 なぜ面白いのか。それはひとつには、何ものかを創り出すということの面白さだろう。創造の喜び。素材を組み合わせ、調理し、結果としておいしいものができあがる(おいしくないものができるあがることも、もちろんあるが)。同じ料理を作ったとしても、できあがるものはそのつど違う。同じものは二度とできあがらないのだ。これが創造でなくてなんであろう。いま冷蔵庫にある食材から何が作れるかを考えたり、その組み合わせにどういう味付けがふさわしいかを考えたりすることにも、創造の喜びがある。

 化学実験のような面白さもある。調理というのは、まさに物質に化学変化をもたらす処理だからだ。薬品の変わりに食材や調味料、アルコールランプやガスバーナーの変わりにガスレンジ、フラスコや試験管の変わりに鍋やフライパンを使う化学実験、それが料理なのだ。我々は、料理という実験のなかで、物質が熱せられ、色や硬さを変化させていくさまを観察する。

 登山のような楽しみもあるかもしれない。頂上から雄大な景色を眺めるという目標へ向かって山を一歩ずつ登っていくように、野菜を洗い、切り刻み、あれをし、これをしていく。料理の場合、我々を待っているのは雄大な景色ではなく、一皿の料理ではあるが、それは口中に広がる味覚の沃野へとつながっている。そこを目指して手順のひとつひとつを行っていく。

 などといいながら、実はそれほど料理を知っているわけではない。かつて、キャベツとレタスと白菜の区別が付かなかった時代が私にはあったが、そこからそれほど進歩しているわけではないのだ。まあ、そういう程度の人間でも料理に何かしら楽しみを見出すことができる懐の深さが料理という行為にはあるということだろうか。(2003.11.8)

No.235 メジャーリーグ

 今年は松井のメジャーリーグ挑戦を興味深く見てきた。不振の時期もあったものの、シーズン全体を通してみれば十分な活躍をし、ヤンキースの一員として立派な仕事をしたといってよいだろう。4月、ヤンキースタジアムでの初戦で満塁ホームランを放ち、ダッグアウトに戻ってからも鳴り止まないスタンドの声援。それに応えて立ち上がり、観客へむかってヘルメットを高くあげた松井のあのシーンは当分忘れることはできそうにない。

 それにしてもだ。ワールドシリーズを制することの容易ならざることには驚かされた。一昨年だったか、イチローを擁し圧倒的な強さで地区優勝を決めたマリナーズがプレーオフではヤンキースに歯が立たなかったのを見たときも感じたことだが、どんなに強いチームであってもワールドシリーズで勝利して頂点に立つということは本当に難しいことなのだろう。戦う相手もまた長く厳しい戦いを勝ち抜いてきたチームだから、それは当然のことだろうが、それにしても…と思う。点を取れば取り返されるし、ピッチャーが好調で抑えているかと思えばポンとホームランを打たれる。ここで打てと願っても、三振を奪われる。ワールドシリーズ全体としては好調だった松井も、最後の2試合はまったく振るわなかった。

 しかし、松井ファンにとってもこの結果はそれほど悪くはないことかもしれない。一年目で優勝までしてしまうより何年かかけてそれを達成してくれたほうが喜びは大きいに違いない。いつかきっとワールドチャンピオンの栄光を勝ち取る日がくるだろう。

 我ながら単純な反応だとは思うが、目標に向かって戦い続ける松井の姿にこちらも大きな励ましを感じる。松井がああしてがんばっているんだから、自分もがんばろう、と思ってしまう。野球中継なんか見てないで仕事しろという声も聞こえてきそうではあるが…。 (2003.11.1) 

No.234 WinZip

 ネット経由で納品するzipファイルにパスワードを設定するため、圧縮ソフトのWinZipをダウンロードしてきた。代金を支払ってユーザー登録したのはもう何年も前のことだが、そうやって当時入手したパスワードをこの最新版に入力したら、ちゃんと正規ユーザーとして認識してくれた。昔、一度だけ入ったことのある床屋にまた行ったらちゃんと覚えていてくれた、そんな嬉しさを少し感じた。

 ところが、圧縮ファイルにパスワードを設定するのだったら、わざわざ圧縮ソフトを持ってくる必要などないということにあとから気付いた。WindowsXPにその機能があるのだ。まず、圧縮したいファイルやフォルダを右クリックして「送る」から「圧縮(zip形式)フォルダ」を選択して圧縮する(ここまでは知っていた)。これにパスワードを設定するときは、その圧縮フォルダを開き、「ファイル」メニューから「パスワードの追加」を選択する。実に簡単だ。

 それにしても、OSがこのようにさまざまな機能を備えるようになるのは利用する側としては嬉しいことだが、ソフトウェアのメーカーはたまったものではないだろう。たとえOS標準のものより優れた機能を備えたものを開発しても、OSにただで付いてくるものがあるならそれを使う人のほうが多いはずだ。人ごとながら、WinZipの先行きが心配になった。 (2003.10.25) 

No.233 ダーウィンのテクニカルライティング

 進化論に関する本を読むのが趣味のようになっているのだが、これまで本家本元ダーウィン先生の『種の起源』は読んだことがなかった。現在の進化論の観点から注釈と図を加えた『図説 種の起源』(チャールズ・ダーウィン著 リチャード・リーキー編 吉岡晶子訳、東京書籍刊)という本があったので読み始めた。

 まだ途中なのだが、いろいろ発見がある。まず、この本が一般の人を対象として書かれているということ。『種の起源』は学者向けに書かれた論文ではないのだ。ダーウィンは世の人々に向けてこの本を書いた。その意味において、学者ダーウィンではなく、ライターとしてのダーウィンの仕事ぶりを私たちはこの本から読み取ることができる。『種の起源』以前に『ビーグル号航海記』も物しているダーウィンだ。それなりに筆は立つのだ。「<自然>が突然一足とびにまったく違った構造をつくりださないのはなぜなのか。自然選択説をとれば、その理由がはっきりわかるはずだ。なぜなら、自然選択は連続して生じる軽微な変異をうまく利用してのみ働くからである。<自然>というのは決していきなり飛躍することなどできず、ゆっくりだが確実に短い歩幅で前進するしかないのである。(原文:Why should not Nature take a sudden leap from structure to structure? On the theory of natural selection, we can clearly understand why she should not; for natural selection acts only by taking advantage of slight successive variations; she can never take a great and sudden leap, but must advance by the short and sure, though slow steps.)」(p.116)などというくだりなど、まるでドーキンスの名文を彷彿とさせるではなないか(ドーキンスがダーウィンに学んだ、というべきだろうが)。

 初版の出たのは1859年だが、それからダーウィンは繰り返し改訂を行っている。最後は1872年の第6版。これが『図説 種の起源』の原本だ。編者リーキーの解説によると、ダーウィンによる改訂は微細なものではなかったらしい。冗長な部分を省き、学説に対する批判への反論を加えなどし、初版と比べると第6版は三分の一の長さに凝縮されているとのこと。

 1872年がどれくらい古いか古くないか。日本では明治5年、福沢諭吉の『学問のすゝめ』の出た年だ。まさに近代の夜明けという時代。福沢翁の文章からは合理的な物の見方が感じられ、現代と地続きになっているという感じがするのだが、ダーウィンの文章には輪をかけてそれが感じられる。1872年の本が、読んでいて100年以上前の本という気がしないのだ。一部分を抜き出して「今年出版された本の引用だ」といわれたら、そのまま信じてしまうことだろう。合理的な見方、考え方ができなければ、進化論という普遍性のある学説を打ち立てることなど不可能だろうから、それは当然のことかもしれない。

 ダーウィンが『種の起源』でおこなったのは、専門的なことがらを一般向けにわかりやすく解説することだ。それってつまりテクニカルライティングじゃないの? と思って今回のコラムの題名を考えたのだが、牽強付会だろうか。小見出しをつけたり、章の最後にまとめを入れたり、例で説明したり、比喩を使ったり、という工夫は、テクニカルライティングにも通じるものがあるといえるのではないか。なんとダーウィンは用語集(Glossary)までつけているのだ。(2003.10.18)

No.232 不親切な文章

 今月から放送大学で授業を受け始めた。自分で選んだ科目だけを受講する科目履修生という資格で、二つの講義をテレビで視聴している。1回の講義は45分と短い。教科書には先生が話す言葉の何倍もの情報が載っている。そこで、講義とは別に自分で教科書を読み進めて行く必要がある。

 ところがこの教科書がなかなかやっかいだ。実に不親切な書き方をしている。内容の切れ目でないところで段落が切れていたり、「以上の三つの論点が〜」という表現がその三つが何を指しているのか何ページもさかのぼらなければわからないような個所で突然出てきたりする。「これについてこれないようじゃ、こまるよ」とでも言われているような感じだ。

 私たちの仕事では「わかりやすさ」が最重要課題だ。目を他の分野に転じても、わかりやすさが重要視されない分野があるとは思えない。わかりやすいということは、情報がちゃんと伝わりやすいということだ。情報がちゃんと伝わらないのでは、文章を書いた意味がない。だから、わかりやすさは常に意識されなければならない。

 しかし、もしかすると学問の世界だけは例外なのかもしれない。知識レベルでいうと、教える側は高みにいて教わる側は低いところにいる。教わる側は高みへと登っていかなくてはならない。高みにいる側が低いほうへ下りてきてくれることを期待していてはいけない。端的にいうとそういう構図があるのではないだろうか。だから学ぶ側は、教科書がどんなに不親切でもわかりにくくても、そこから情報を読み取らなくてはならない、その努力をしなければならない。

 私にリライトさせてくれるなら、もっとわかりやすくできる気がするのだが…。(2003.10.11)

No.231 コンビニ

 「コンビニなら特別な接客術もいらないことだろう」と先週書いた。しかし、考えてみるとコンビニの店員には百貨店とはまた別の技術が必要と思われる。いまコンビニが提供しているサービスは、商品を売るということだけではないからだ。コンビニでは、コピー機やファックスが使えたり、ATMがあったり、宅配便が出せたり、さまざまな公共料金の支払いができたりする。コピー機ひとつとっても、使いかたがわからないという客がいれば教える必要があるし、用紙が詰まればそれを直さなければならない。宅配便の受け付けにしても、料金の計算も必要だし、伝票に何を記入しどの伝票を客に戻すかもわかっていなくてはならない。いくつものサービスに関して店員は対応をしなくてはならないから、それはそれで大変なことだと思う。

 あるとき、こんなことがあった。宅配便だかフィルムを出しにいったところ、店員が新人だったようで、やり方がよくわからない。彼が戸惑っているうち、他の客がレジに二人三人と並んできた。新人氏が電話で店長に問い合わせていると、客の一人が「なにやってんだよ!」と怒鳴って品物をレジにドンと置く(いい大人が1、2分待たされたくらいで怒鳴るものかね)。他の客が「こっちが先だろうが!」と怒鳴り返す。店内は一気に緊張状態に。

 この事態を解決したのは、店内にいた茶髪・ガングロの女子高生だった。どうやら彼女はその店のアルバイトで、かの新人氏と入れ替わりで仕事を終え、そのまま店で買い物をしていたらしい。レジへ移ると、それまで友だちと話していたときの言葉遣いから店員のそれへと切り替え、並んでいた客たちをたちまちのうちにさばいてしまったのだ。見事な店員ぶりだった。プロフェッショナルと呼ぶにふさわしいと思う。「コンビニなら特別な接客術もいらないことだろう」という発言は取り消したい。(2003.10.4)

No.230 サービス

 以前、デパートの文具売り場で万年筆を買ったことがあるのだが、そのときの店員の対応の見事さが印象に残っている。言葉遣いといい笑顔といい、これぞデパガ(デパートガール)という非の打ち所のなさであった。

 コンビニなら特別な接客術もいらないことだろう。客は黙って商品をレジに持ってくるだけだ。しかしデパートは違う。客は商品の説明を求めてくるし、あれこれ見せてもらおうとする。贈り物にどれがいいかなどと相談もしてくる。やってきた客が求めているものを見極め、それを与え、満足させて帰らせる。その一連の作業を最初から最後まで適切な言葉遣いと笑顔で執り行う。じつに高度な技術だと思った。

 物を売るという職業には何百年という歴史がある。私がデパートの文具売り場で経験したサービスは、この長い歴史で育まれた技術によるものなのかもしれない。

 私たちの仕事に引き寄せて考えてみる。仕事を受けるということは、クライアントを満足させるサービスを提供することだと捉えることができる。しかし私がデパートで体験したような満足感をクライアントに感じさせることはなかなかできていないのではないか。「よい買い物をした」と思ってもらえるようなサービスを提供したいものである。(2003.9.27)

No.229 経験

 息子がインターネットの通信販売で携帯型のラジオを買おうとしたのだが、彼には初めてのことでスムーズにはいかなかった。配達日を指定したらしいのだが、その日になっても商品がこない。次の日もその次の日もこない。困ったようすなので、注文時に購入店からきたというメールを見せてもらったら、商品の見積り結果が書いてあるだけで、まだ正式に注文したことになっていないということが判明した。息子には見積りと正式な注文の違いがわかっていなかったのだ。

 正式に注文したい旨の返信メールを送るよう指示。数日後に無事ラジオが届いた。支払方法は、商品が届いたときに配達員に代金を渡す「代引き」。

 この一件で感じたことは、子供はこちらが当たり前のように知っていることでも知らなかったりするということだ。こういうお金に関することだけでなく、さまざまな事柄においてそういうことがあるに違いない。だから子供にはいろいろな経験をすることが必要となるわけだ。大人になるために。(2003.9.20)

No.228 アマゾンで本を売る

 オンライン書店アマゾンで本を売った。不要になった本をネットを利用して処分する方法として、オークションへの出品があるが、それよりももっと手軽だった。オークションに出品するには、その品物の写真を撮影したり説明文を書いたりといった手間がかかるが(ヤフー!オークションの場合)、アマゾンの場合は不要だ。なぜならアマゾンでは、本の情報はすでに掲載されているからだ。だから古本の出品者はもうその本についての情報を提供する必要はない。ただし、本の状態(痛み具合)は出品時に申告する。また、売値は自分で決められる。

 古本を出品してみたところ、数日のうちにアマゾンから「出品商品が売れました。すぐに発送してください」というメールが届いた。メールに書かれている購入者の住所宛てに本を発送すれば、やるべきことは終わる。代金はアマゾンから後ほど銀行口座に振り込まれることになっている。

 本を古本屋に持っていって悲しいほど安い値段で買い叩かれたという経験を何度もしている者としては、そこそこの値段で本を売ることのできるアマゾンのシステムはなかなかよいものと思える。

 ちなみに売った本は『“It”(それ )と呼ばれた子』という文庫3冊(3部作。なぜか3冊それぞれ別の方に買われた)と『ヘルタースケルター』という漫画。出品したものの買い手がまだついていない本も2冊残っている。自分の趣味のどの領域が一般的でどの領域が偏っているかがこの売れ残り状況から感じられて興味深くもある。(2003.9.13)

No.227 東北の山中で感じたこと

 東北にある工場にうかがう機会があった。新幹線から在来線に乗り換え、さらにタクシーでやっと現地へ。そこは東京よりも明らかに涼しく、空気はさわやか。打ち合わせのあと、用意していただいた昼食をとりながら窓の外を見ると、美しい山脈の連なりが見えた。

 この工場では、電気製品に不可欠な部品を製造するための装置を開発し、生産している。その分野では高いシェアを誇り、海外への輸出も多いという。その話にふさわしく、社屋は立派で、きれいだった。

 世界を相手に活動する企業が、都心をはるかに離れた場所にポツンと存在している。しかしこれは特別なことではない。このような優れた企業がさまざまなな分野で存在し、日本の各地に散在している。首都圏で仕事をしていると、そこが日本のすべてのような気がしてきたりするものだが、そうではないのだ。

 日本は広く、その地方地方でさまざまな企業が世界レベルの仕事をしていたりもする。その全体を総合したものが日本の工業力ということになるはずだ。そう思ったとき、日本という国の底力、懐の深さにめまいすら感じるような気がした。

 帰りの新幹線には背広姿の男性が多数乗車していた。彼らも、私が訪れたような企業を訪問した帰りなのだろうか。東京駅でホームに降り立つと、秋らしさを少し感じさせる夜風が気持ちよかった。(2003.9.6)

No.226 競争原理2

 先週、ラーメン屋の競争について書いた。 この場合の競争というのは、いかに麺を長くするかみたいな直接的な競争ではなく、客がくるようにする競争だ。だから、他の店との競争ということだけを考えると本質を見誤る可能性があると思う。ある意味では、客の舌にどう立ち向かうかという、客を相手にした戦いなのだ。

 では、テクニカルコミュニケーターにおける競争は、と考えてみる。味(品質)か、値段か、速さか、接客(コミュニケーション)か…。接客(この場合は発注相手とのさまざまなコミュニケーションを指す)は、あまり重要ではないという意見もあるだろう。ラーメン屋だったら、無愛想だが味は最高、という店は人気を集めることができる。なぜならラーメンは基本的に店側が店側の基準で作って客に出すだけのものだから、店と客のコミュニケーションは不要だ。注文が店に伝わればそれでよい。しかし、テクニカルコミュニケーターの仕事はそうではない。仕事の最初から最後までコミュニケーションが必要だ。これがダメだと、よいものなどできようがないのだ。味(品質)、値段、速さ、の重要性はいうまでもないだろう。結局、どれか一つだけよくてもだめだし、一つでもダメなのがあればほかが全部よくてもやはりダメというのが正解かもしれない。(2003.8.30)

No.225 競争原理

 仕事で吉祥寺によく行く。行くようになって気付いたのだが、吉祥寺の繁華街にはラーメン屋が多い。30秒歩く間に4、5軒の店が目に入ってきたりする。

 入ってみると、どの店もなかなかうまい。うまいだけでなく、だいたいどの店も好みに合わせた注文ができるようになっており楽しい。スープの味が2種類とか3種類とかあり、ラーメンに載せる具も数種類から選べたり組み合わせたりできる。もちろんチャーハンやギョーザをセットで頼むことも可能だ。そんなオプションの数々を前に「今夜はどれでいこうか」と悩む。幸せな瞬間だ。

 吉祥寺のラーメンがうまいのは、競争が激しいからか。向かい合わせや同じ並びでラーメン屋が競い合っている以上、まずい店は廃れるのが必然だろう。懐かしいチャンドラー風コピーでいくなら「うまくなければ生きていけない、安くなければ生きていく資格がない」といった感じか。いや、そんな安くはないんだが。

 競争原理が効果があるとはいっても、いったいどこまで競い合えばよいのか。味についていうなら、十分な人数の客を呼び寄せるだけの味が実現できればそれでよいということになるだろう。なにも世界最高のラーメンにならなくてもいいわけだ。吉祥寺は人が多いから、塩味が好きな人もいればトンコツが好きな人もいる。好みはいろいろなのだ。だからいろいろなラーメン屋がやっていく道がある。

 競争というと、他者に勝つこととともすれば考えられがちだが、敵を倒すことではなく自分が生きていくことが目的の競争もあるわけだ。ふむふむ。(2003.8.23)

No.224 回転寿司に思う

 先日、家族で回転寿司に行った。子どもたちは普通の寿司屋には数えるほどしか行ったことがないから、彼らにとって寿司屋といえば回転寿司のほうを指すことになるだろう。回転寿司が「普通の寿司屋」というわけだ。

 今回、回転寿司に行って感じたことは、従来の寿司屋と回転寿司は根本的に違うということだ。考え方ががらりと変わることをコペルニクス的転回というが、従来の寿司屋から回転寿司への変化はその表現にふさわしいとすら思う。なんといっても、寿司がベルトコンベアーに載って客の前を移動していくのである。このような仕組みを日本の伝統的料理を食べさせる店に入れるなど、突飛といっても過言ではない発想だが、それを考え、そして実現した人は大した人物だと思うしだいだ。

 回転寿司に対する批判もあることだろうと思う。「あんなのは寿司じゃない」「オンナ子どもの行くところだ」「ベルトコンベアーで流れるエサを食べる農場の牛や鶏みたいだ」などなど。しかしそういう御仁は従来の寿司屋に行けばよいだけのことだ。回転寿司は、寿司を安くするにはどうしたらよいかという命題に対する回答だ。安く食べられればそれでよいと思えば回転寿司に行けばいいし、おいしい寿司を食べたいと思えば従来の寿司屋に行けばよい(しかし北海道出身者として言いたいことだが、おいしい回転寿司もあるし、それに負ける従来型の寿司屋もある)。

 回転寿司的革新というのは、もしかしたら他の分野でも起こりうるものなのかもしれない。回転寿司的車、回転寿司的ソフトウェア、回転寿司的マニュアル…。(2003.8.17) 

No.223 『ワンダフル・ライフ』を読む

  スティーブン・ジェイ・グールドの『ワンダフル・ライフ』(ハヤカワ文庫)を読んだ。カナダのバージェス頁岩というカンブリア紀の化石の産出地から見つかった奇妙な形態の生き物とその研究をめぐる人々を描いたノンフィクション作品だ。

 バージェス頁岩が重要な意味を持つのは、ここで見つかった化石からは体の柔らかい部分の構造もわかるということによる。一般に化石は、甲殻や骨のように硬い部分だけで構成される。だから、硬い部分をまったく持たない生き物は化石が残らず、後世の者は化石からその生物の存在を知るということができない。そんなわけで、カンブリア紀に生きていたはずの、硬い殻をもたない生き物たちのことを私たちは知ることができなかった。バージェス頁岩が発見されるまでは…。

 バージェス頁岩により、これまで知られていなかったカンブリア紀のさまざまな生き物の姿がわかったわけだが、それはなんとも奇妙なものだった。いま知られているどのような種類の生き物とも違う奇妙な姿。それは何を物語っているのか。それはもしかしたら進化論のある部分の見直しを迫るものとなるかもしれない…。という具合に話は深まっていく。

 本書では、バージェス頁岩の研究に携わった人たちについても詳しく述べている。研究者の直面する問題、乗り越えねばならない苦労といった側面については、他の本ではあまり語られることはないので、これも興味深いものだった。

 グールドはじつは、進化論や動物生態学で有名なリチャード・ドーキンスの論敵である。ドーキンスは『虹の解体』という本でグールドの『ワンダフル・ライフ』の一部分を強く批判している。だからこそ今回『ワンダフル・ライフ』を読んでみたわけだが、個人的な感想だが、ドーキンスの本のほうが面白いと感じるし、書かれていることもより論理的と思う。皆さんなら、どう判断するだろうか。(2003.8.10)

No.222 岡村氏のこと

 7月27日に亡くなられた岡村氏のことを書いておきたい。

 岡村氏は有限会社テクニログの代表を務めていた。テクニログというのは、テクニカルイラストやDTPなどを手がける会社だ。私が最初に勤めた制作会社では、テクニカルイラストをテクニログに依頼することがよくあった。その質はとても高く、プロの仕事がどういうものかを見せ付けられた気がしたものだった。私が別の制作会社に移ってからもやっかいな仕事を何度かお願いしたものだったが、常に期待以上のものを提供してくれていた。その会社を率いていたのが岡村氏だ。

 彼と初めて会ったのは5、6年前のことだと思う。柔らかい語り口が印象的で、企業の代表者でありながらビジネスライクに徹しきれない情の厚さも感じさせる人物だった。なんといったらいいのか、仕事の打ち合わせが終わったあとでももうちょっと雑談していたい、そういう気分にさせる雰囲気を持っていた。

 私が制作会社から独立してフリーランスになったばかりの頃、イラスト作成も含むマニュアル制作の仕事を受注したことがあった。イラストはもちろんテクニログにお願いした。私個人からの発注であるにも関わらず岡村氏は私を信頼し快く請け負ってくれた。そればかりではなく、代金の締めに際しても、独立したてのこちらの事情を察してか、大いに配慮をしてくれた。そのときの厚意は忘れがたく心に残っている。

 岡村氏のご冥福をお祈りします。(2003.8.2)

No.221 カード2枚重ねのワザ!?

 私鉄の定期券とパスネット(首都圏の私鉄や地下鉄で共通して使えるプリペイドカード)を2枚重ねて改札の装置に入れる使いかたを先日はじめて知った。状況は、こうだ。A駅とB駅の間の定期券を持っており、パスネットも持っている。B駅の先のC駅から乗って、A駅まで行きたい。以前、同じ状況になったときは、定期は使えないものと思い、パスネットを使ってC駅の改札を入り、パスネットを使ってA駅で降りた。パスネットでA駅―C駅間の全運賃を払ったのだ。

 改札口の駅員が目で見て定期券や切符を確認する時代だったら、定期が使える区間の手前までの切符を買い、定期の区間については定期を利用する、という方法を私も採っていたものだが、自動改札機の場合は、どこから乗ったかの情報がパスネットにも残るようだから、パスネットと定期の組み合わせはダメだろうと勝手に思い込んでいた。パスネットで乗って、定期で降りるということはできないだろうと。

 ところが、今回、駅員にたずねたところ、それは可能ということだった。方法はこうだ。C駅で改札を入るときはパスネットを機械に通す。そしてA駅で改札を出るときは、定期券とパスネットを重ねて機械に入れる。どちらが上でもかまわない。これで、定期区間以外の運賃だけがパスネットから引かれる。

 考えてみれば、そういうことができないようでは定期券利用者の不興を買いまくることだろう。できてあたりまえだ。だから、たぶん多くの人が知っている方法なのに違いない。しかしワタクシ的にはちょっと嬉しい情報だった。この程度のことで喜んでいるようでは、ワタクシにとって、この社会は複雑すぎるということなのかもしれないが…。(2003.7.27)

No.220 小説家と会う

 太宰治賞作家・秦恒平氏から話をうかがう機会があった。ウェブサイトの紹介記事を書く仕事で、今回取り上げる予定の文芸関係のサイトに問い合わせのメールを送ったところ、応対してくださったのが秦氏。「会ってご説明します」とのことで、新宿駅南口のサンルートホテルで取材させていただくことになった。

 待ち合わせの日時を決めたあとで秦氏の顔を知らないことに気付いた。向こうは当然こちらの顔など知らないから、待ち合わせ場所ではこちらが秦氏を見つけなくてはならない。検索したところ、何かのパネルディスカッションのパネラーの一人として氏の写真がウェブに掲載されていたのを発見。前夜、紹介予定サイトのあちこちを読み、質問事項をまとめる。

 当日、別件の仕事を早めに切り上げて新宿へ。5分前に待ち合わせ場所のホテルロビーに着いたところ、すでに秦氏が腰かけて校正紙らしきものを広げていた。雰囲気でわかったのだろう、むこうもすぐにこちらを認めて立ちあがる。挨拶をし、ラウンジへと移動する。

 小説家ということでとっつきにくい人物である可能性も覚悟していたのだが、秦氏は穏やかな常識人であった。資料を用意しておいてくださり、こちらの質問にも丁寧に答えてくださった。30分ほどで終わらせる予定が、話をうかがううちに2時間近く経ってしまったが、おかげで記事を書くのに十分な情報が得られた。

 帰宅後、記事を執筆。短い記事なのだが、深夜を過ぎてもまとまらない。締め切りは二日前に過ぎているのだが、編集部に頼んでその取材まで待ってもらったので、翌朝にはどうしても原稿を出さなくてはならない。午前3時ころにやっとできあがり、メールで送信。ふーっ。(2003.7.20)

No.219 東京スケッチ6

 混雑した電車内にいる人には五感のそれぞれを通じてさまざまな情報(刺激)がやってくる。たとえば視覚を通じては、車窓からの風景、車内の人の顔、中吊り広告、手を挟まれないようにという注意書きなどが見えるし、聴覚を通じてはガタゴトという電車の走行音、人の話し声、車内アナウンスなどが聞こえる。

 しかし、それぞれの刺激が伝える情報を私たち人間は一つ一つ取り上げて受け取るわけではなく、自動的にふるいにかけ、自分にとって重要なものだけを拾い出している。カクテルパーティの雑音のなかでもちゃんと相手との会話ができるということにかけて、このような能力をカクテルパーティ効果というらしい。

 私が先日、電車で見かけた光景も、一種のカクテルパーティ効果の事例といえるかもしれない。混雑した車内、二十歳前後か二十代前半と思しきおしゃれをした女性が優先席に腰かけていたのだ。彼女の頭のすぐ後ろには「優先席」の掲示があり、この座席を必要とされる方に席をおゆずりくださいという旨のことが書かれている。むろん坐った状態では背後にあるその掲示は見えないだろうが、席に着くときには視角には入っていたはずである。しかしその情報は彼女に届いていないのである。

 彼女はそこに坐ったまま、携帯電話を熱心に眺めていた。メールを読んでいるか書いているかしていたのだろう。「車内での携帯電話のご使用はご遠慮ください、特に優先席付近では電源をお切りください」という車内アナウンスが流れる間も彼女はそうしていた。車内アナウンスの音が聞こえていないはずはないが、そのメッセージはやはり彼女に届かない。

 携帯を眺める彼女の左隣には買い物袋を抱えた六十代後半か七十代という感じの男性が前を向いて坐っており、彼女の右隣には背広を着た二人の中年男性が眠りこけていた。腰を九十度に曲げた八十代くらいの女性が乗ってきたときに起きたことは印象的であった。老女を目にして席を立ち、席を譲ったのは 、一番年輩の男性だったのだ。若い女性は携帯をながめ、眠りこけていた中年男性のうちの一人は少しのあいだ目を開けると面倒くさそうに周りを見回しまた目を閉じた。

 私は、老紳士に席をゆずられて坐った老女に並んで坐っている三人にインタビューしたい衝動に駆られたものだ。「ここは優先席ということになっていますが、この掲示は目に入りませんでしたか? 携帯電話はご遠慮くださいという車内アナウンスは聞こえませんでしたか? あの、率直にうかがいますが恥ずかしくないですか?」(2003.7.12)

No.218 『辞書と日本語』を読む

 知人に薦められて『辞書と日本語』(倉島節尚著、光文社新書)を読んだ。著者は三省堂で国語辞典の編集に長年携わり、大辞林の初代編集長も務めた人。

 言葉の意味を調べるための単なる道具として見られることの多い国語辞典だが、一冊の辞典を作るということは実に大変な事業だということがこの本からわかる。まず大勢の執筆者と編集者が必要となる。そして何年もの時間がかかる。その間、出版社は作業を進めるために金を出し続けなければならないし、関わる人々は地味な作業を投げ出さずにやり遂げなくてはならない。出版社にとってはリスクの大きいビジネスでもある。

 大事業であるから、辞典作りの中心となる人間は、深く深くその作業と関わることになる。場合によっては一生を捧げる、というようなことにもなる。そういう人物としてこの本は、近代的国語辞典のさきがけとなった和英語林集成を作りローマ字のヘボン式を考案したことでも知られる米国人J・C・ヘボン、12年の歳月を費やして言海を独力で書き上げた大槻文彦、小型国語辞典の範となった明解国語辞典を編集し、終生をかけて145万例の現代語の用例を集めた見坊豪紀(けんぼうひでとし)の三人を取り上げている。

 この本を一読したあとでは、国語辞典がこれまでとはちょっと違う存在に思えてくるはずだ。手に入れることは何千円か支払うことでできるわけだが、そこには人の生涯をかけた努力の成果が詰まっている。

 新明解国語辞典の「んとす」の項にはこのような用例が出てくる。「われら一同、現代語辞典の規範たらんとする抱負を以(モツ)て、本書を編したり。乞(コ)ふ読者、微衷を汲(ク)み取られんことを」 (三省堂 新明解国語辞典 第五版より)。かように辞典とは人間的な存在なのである。(2003.7.5)

No.217 東京スケッチ5

 仕事帰り、新宿のヨドバシカメラ・マルチメディア館に寄る。デジカメのデータを出先のパソコンで読み取るためのカードリーダを買い、購入検討中のAirH" Phoneをチェック。桂花あたりでラーメンを食いたい気分だったが、いいかげん腹が減っていたので近くの富士そばへ。 店に入って食券方式だとわかった瞬間は、なぜかいつもかすかな失望を覚える。カツ丼とそばのセット。680円。味は悪くなかった。後から入ってきた白人とアジア人のカップルがカツカレーを頼んでいたのが、なんだか不思議な取り合わせに思えた。

 ぶらぶらと駅に向かって歩いていると、女性が近寄ってきて、たどたどしい日本語で中国式マッサージを熱心に勧める。 いたいけな印象を与えるほど若いが、態度は堂々としたものだった。中国式マッサージは春に八重洲でもよく勧誘されたが、流行しているのだろうか。

 「もう帰るから」とそれをかわしたすぐ後に、今度はちょっとガラの悪い三人の若者が現れた。また何か”ビジネス”の話か ? 非合法のものでも売ろうというのか? と身構えると、一人がまっすぐこちらを見て言った。「あの、歌舞伎町はどこですか」

 その質問と若者の澄んだ目とから、すぐに事情は了解できた。そう、今日は金曜日だった。金曜日の夜なんだ。ちょっと冒険を楽しもうと地方からやってきたに違いない。カブキチョーってところを体験してみようぜ、と。

 すべて了解したということを表情で伝えつつ、だいたいの場所を教えると、彼らはすぐそちらへと向かった。二、三歩進んだところで、私に道を尋ねた男が振り返って「ありがとうございました」と言った。(2003.6.28)

No.216 独立時計師

 時計職人の世界に取材したNHK「独立時計師たちの小宇宙〜スイス・超複雑時計の世界」は印象的な番組だった。自分の工房を持ち、オリジナルの時計を製作する、それが独立時計師。スイスにはそう呼ばれる人たちが大勢いるらしい。番組は、バーゼルフェアという時計の大きな展示会に出品する作品の製作に奮闘する時計師の仕事ぶりを紹介していた。

 彼らは職人であると同時にアーチストだ。その作品は工業製品でありながら、ずっと眺めていたい美しさも備えている。 何ヶ月もかけて部品の製作や組み立てをし、オリジナル作品を作り上げていく作業は、高度な教育と才能があってはじめて可能なことと思えた。そのような仕事に就けている彼らが正直なところうらやましいという気がしたものだ。こんな職業もあるのだなという感慨を覚えたしだい だ。(2003.6.21)

No.215 どこでもホイール

 マイクロソフトのアプリケーションソフトでは、マウスのホイールを回すとウィンドウがスクロールする。これはなかなか便利な機能だ。この機能が備わる前は、(1)ウィンドウの端にあるスクロールバーまでマウスポインターを動かし、(2)それからスクロール操作を行う、という手順だったわけだが、ホイールによるスクロールでは(1)の操作がいらない。毎日、何百何千回と繰り返す操作だから、それが簡略化されることの効果は小さくない。

 この便利さに慣れてしまうと、他社のアプリケーションソフトでも同じ操作をしようとしてしまうことがある。そしてこの機能が使えないとわかると、ちょっと残念な気分になる。いったん享受した便利さを、人間はけして手放そうとしない生き物らしい。いつもよりおいしいエサを与えられた猫が、それまで食べていたエサを拒むのと似ている。

 私はアドビシステムズ社のFrameMakerを使っていて、ぜひともこのアプリケーションソフトでホイールによるスクロールを行えるようにしたいと感じた。グルメ志向のエサをほしがる猫の目をしながらだ。そして見つけたのがaraken氏制作の「どこでもホイール」だった(http://www2k.biglobe.ne.jp/~araken/)。これは、FrameMakerに限らず、ホイールでのスクロールに対応していないアプリケーションソフトでもホイールが利用できるようにするものだ。すばらしい。グルメ志向のエサをほしがる猫の目をしたあなたに、ぜひお勧めする。(2003.6.14)

No.214 STC50周年に思う

 STCが今年で50周年だそうだ。会誌インターコムの記事「STC小史」(原題は"A Brief History of STC"、2003年6月号)によると、1953年にTWEとSTWが創設された。その翌年にできたTPSを加えた3団体が統合されて1971年にSTCとなったという。

 同記事は、二つの出来事がSTCの発展に大きな影響を与えたとしている。一つは第二次大戦で、もう一つはパーソナルコンピュータの普及だ。第二次大戦はTWE、STWの誕生以前の出来事ではあるが、戦争によって軍事技術の重要性が認識され、それが戦後の冷戦下の激しい軍拡競争につながり、そこで生み出された数々の兵器のために大量のマニュアルが必要になったということらしい。そんな中でテクニカルライターという職業が確立されていった。そしてもう一つの出来事、1980年代におけるパーソナルコンピュータの誕生と発展が、大量のマニュアル、そしてわかりやすいマニュアルへの大きな需要を生み出した。事実、STCの会員数は1980年代初頭から急増を始め、それは2000年のドットコム業界の崩壊までは続いた(記事ではこの困難は短期的なものだと位置づけている)。

 日本について考えてみると、二つの出来事のうち前者については存在しなかった状況なわけだが、後者の出来事についてはほぼ同様の状況だったと思う。つまりパーソナルコンピュータの普及が日本でのテクニカルコミュニケーションの事実上の出発点といってよいのではないだろうか。そうすると、米国においては50年の歴史があっても、日本のおいてのそれはまだ20年ほどでしかないということになる。

 コンピュータの世界の変化の多くは米国から始まるため、コンピュータの世界に密接に関わっている私たちは米国の変化に学び、それを追いかけていくという図式がある。それに加え、テクニカルコミュニケーションそのものの世界においても30年の歴史の長さの差があるわけで、まだまだ学ぶべきことは多くあるように思う。とりわけ、どのようにキャリアを発展させていくか、シニア世代になってもなお現役で活躍していくにはどうすればよいかというあたりについては、日本のテクニカルコミュニケーション業界はあまり経験の蓄積がないはずだ。そういうことも含め、米国の状況から学べることは学んでいきたいものである。(2003.6.7)

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STC=Society for Technical Communication

TWE=society of Technical Writers and Editors

STW=Society of Technical Writers

TPS=Technical Publishing Society

No.213 サービスマニュアルを作る

 マニュアルの一ジャンルとして「サービスマニュアル」というものがある。その制作を実際に経験したのは恥ずかしながら最近のことだ。苦労は多かったものの、これは貴重な財産となったと思う。

 一般のマニュアル(ユーザマニュアル)が製品のユーザを対象としたものであるのに対し、サービスマニュアルは製品の保守や修理などを行うサービスマンが読者となる。内容も、製品の利用方法を解説するのではなく、製品の保守や修理に必要な技術的な情報が中心となる。具体的には、内部の配線や分解方法などだ。

 一般のマニュアルとの違いはそれだけではない。内容が技術情報の塊であることから、開発サイドから技術情報を集めるという作業が制作工程のなかで相当大きい割合を占める。ユーザマニュアルならば、外部仕様書を提供してもらって実機を操作してみることで必要な情報はほぼ得られるのだが、サービスマニュアルはそうはいかない。技術的な製品内部の情報が必要なので、ちょっとした情報1つを得るのにも開発サイドとのやり取りが必要となる。開発者の話を聞くことは、わからなかったことが明らかになるという「知る喜び」を感じさせるものだが、先方も忙しいのでスムーズに情報が得られない場合もある。そのあたりをどううまく切り抜けるかがポイントの1つという気がした。(2003.5.31)

No.212 東京スケッチ4―立ったまま眠る―

 その若い女性は立ったままで眠っていた。朝の東海道線。車両の箱の中には人間がぎっしりと詰め込まれている。だから、立ったままで眠ることさえできるらしい。

 女性の前には女性に背を向けて背広姿の男性が立っており、女性はその背広の肩甲骨のあたりに頬を押し付けるようにしていた。ちょうどうつ伏せで寝ているような具合に頬は押しつぶされた形になっており、女性が体重をその男性にもたせかけているようすがうかがえた。男性のほうも寝ているのか、あるいは不可抗力ということであきらめているのか、目を閉じたままそれを避けようとしていない。彼の背中には女性のファンデーションが相当な面積で付いてしまっているのだが、それに気付くのは会社の同僚から指摘されたときか、帰宅後に奥さんに問い詰められたときだろうか。

 車両が揺れた拍子に、女性の顔は上を向き始めた。どんどん角度が進み、ついには真上を見上げるところまでいった。もちろん、眠ったままだ。あなたは立って真上を見ながら眠っている人を見たことがあるだろうか? この光景は深く印象に残った。

 駅で乗り降りがあり、電車が動き出すと、さっきの女性はまた別の男性の背中にファンデーションを塗っていた。

 東京では何だって起こりうる…。(2003.5.24)

No.211 『虹の解体』を読む

 リチャード・ドーキンスの『虹の解体』(早川書房、福岡伸一訳)を読んだ。ドーキンスの他の著書と異なり、これは進化論の本ではない。進化論の話もいろいろ出てくるのだが、脳科学、認知心理学、物理学、天文学などの分野の話も紹介しながら、科学が人間にどのようなロマンや驚きを与えることができるのか を述べている。科学というと、冷たく無機質なイメージを持つ人もいるかもしれない。しかし、天文学が教えてくれる宇宙の広大さや生物学が語る生物の仕組みの精密さ、そういったものに触れたとき、誰しもロマンや驚き、あるいはSFでいうところのセンス・オブ・ワンダー(不思議だなあと感じること)を感じるのではないだろうか。それが本書のテーマである。

 『ブラインド・ウォッチ・メイカー』もそうだったが、本書は批判の書でもある。ドーキンスは戦う科学者だといえよう。今回の攻撃対象は、占いや超能力など。同じ生物学の分野で有名なスティーブン・ジェイ・グールドの誤った主張についても厳しく批判している。ドーキンスは、これらの批判対象を「偽りの詩」と表現する。そこに詩情があるかもしれないが、科学の持つセンス・オブ・ワンダーにこそ良質な詩情がある。人間はセンス・オブ・ワンダーに惹かれる性質があり、それが人間を科学へと向かわせる。しかし、「偽りの詩」はセンス・オブ・ワンダーに向かう人間の性質を悪用し、物事を正しく理解することを妨げるというわけだ。

 本書で登場する「ペトワック」というドーキンスの造語が印象に残る。Population of Events That Would Have Appeared Coincidentalの頭文字を取ってペトワック(PETWHAC)だ。日本語にすると「本来偶然にすぎないのに、なにか関係があるように見える事象の集合」となる。例えば超能力者がテレビで視聴者の時計が止まるように念じる。すると、何人かの視聴者から「いま時計が止まったぞ!」というような電話が番組にかかってくる。これで超能力が証明されたのか? 簡単に言うなら、時計というのは電池が切れたりネジがゆるんだりしていつかは止まる。テレビを見ている何百万人もの人々の周りにはいくつもの時計があるわけだから、毎秒のようにそのうちのいくつかは止まっていくはずだ。だから超能力者が止まれと念じたときに止まる時計も当然ある。テレビ番組を見ているとあたかも本当に超能力で時計が止められたかのように思えるが、実は何も不思議なことではないのだ。これがペトワックである。

 これでドーキンスの邦訳はすべて読んだことになるはずだが、残りがないとなると少し悲しい。何事にも終わりというものがあるわけだが…。(2003.5.17)

No.210 報道の嘘?

 1世帯の平均貯蓄額が1688万円であるというニュースがアサヒ・コムに出ていた。個人的には、ちょっと違和感を覚える数字だ。自分のところはもちろん、友人の間でもそんなにお金を持っている人はみあたらない(と思われる)からだ。

 実はこの数字には、タダシガキが必要なのだ。まず、これは<平均>の額であるということ。例えば10人の人がいて、1人は1億円の貯蓄があり、あとの9人は文無しだとする。すると10人の平均貯蓄額は1000万円ということになる。9人の文無しは、10人の平均貯蓄額が1000万円と聞いて「それは変だ」と思うことだろう。最初にあげた1688万円というのも似たようなものなのだ。一部の資産家が平均貯蓄額を引き上げている。全体の3分の2(68%)の人たちの貯蓄額は1688万円を下回るという。このことはニュースでも報じられていた。

 もう一つある。この数字は総務省の調査によるもので、詳しいデータを総務省のウェブサイトで見ることができるのだが、そこには、「二人以上の世帯のみの調査結果です」と断り書きがあるのだ。つまり一人暮らしの学生や若い勤め人といった層はこの統計に含まれていない。このことはアサヒ・コムの記事には出ていなかった。総務省が一人暮らし世帯を除外した理由はわからないが、それを含めれば結果にもかなり影響があるはずだ。だから、この情報をニュースに記載しなかったことは、私には一種の嘘と感じられた。

 こういった知識を得たうえでもう一度1688万円という数字を見てみると、少し印象が変わってくるのではなかろうか。ま、文無しの負け惜しみかもしれないが。(2003.5.10)

No.209 技術の勝利

 子供たちが通っている習い事の保護者会において役員をやっている。持ち回りでやるのだが、その順番が今年度はうちに回ってきたというわけだ。

 担当している役職は書記。連絡網、名簿、会報などを作るのだが、これにはふだん仕事で使っているワープロや表計算ソフトが大いに役立っている。手なれた「商売道具」で仕事以外の作業するのはちょっと楽しい。たとえば、従来は会報には配布先の人の名前を手書きで入れていたのだが、差し込み印刷機能を使うことで自動的に名前を印字するようにできた。成功したときには、心中ひそかに「技術の勝利だ」と叫んだものだ。我ながら大げさなヤツだと思うのだが。アプリケーションソフトの説明のために架空の連絡網、架空の名簿、架空の会報といったものを作ることがよくある自分としては、架空のものではない文書を作るのも少し新鮮な気分だ。

 仕事の技術が生活においても役立ち、そこでの経験がまた仕事への刺激にもなる。そういう体験をしている気がする。(2003.5.3)

No.208 さよなら、QB

 昨年まで使っていた会計ソフトQuickBooksを引退させ、弥生シリーズを使っている。QuickBooksは米国では高いシェアを誇っていると聞くが、国内ではいまひとつだったようだ。それで開発元であるインテュイット株式会社はQuickBooksに見切りを付け(WindowsXPに正式対応させるためのバージョンアップ版を作らず、サポートも終了した)、弥生シリーズに力を注ぐことにしたらしい。なお、インテュイット株式会社は米国本社から分離独立し、今年の4月1日付けで社名を弥生株式会社に変更した。

 弥生シリーズを使ってみた感想だが、QuickBooksに比べるときめ細かく会計情報が扱えて、よりプロ向けの仕様になっているという印象だ。しかし、自分の仕事にとっては機能が多すぎ、少し使いにくいという気もしている。QuickBooksは、それ一本で会計処理、見積書や請求書の作成などができたのだが、弥生シリーズの場合は会計機能そのものは弥生会計というソフトが担い、見積書や請求書などの管理・作成は弥生販売というソフトが担う。QuickBooksのシンプルさが少し懐かしい。

 メーカーが主力製品に注力し、それ以外の製品が消えていくのはやむを得ないことだと思うが、QuickBooksを愛用していたものとしては残念な気がする。(2003.4.26)

No.207 振り子

 仕事をしている時間(オン)とそれ以外の時間(オフ)――そういうふうに時間を二つに分けたとして、仕事のスケジュールが厳しいとき、追い込まれているときには、とにもかくにもオンが重要に思われ、生活の時間をすべてオンで埋め尽くしたくなる。皆さんはそういうことはないだろうか? オンのあとにもオン、そのあとにもオンと、どこまでもオンでがんばろうとする。私の場合はときどきある。
 しかし、冷静に考えて、人間がオンのままでがんばり続けることなどできるわけがない。オンばかりでいようとするのは、たとえていうなら振り子を片側にだけ振れ続けさせようとするようなものだ。右へ振れた振り子は、そのあと必ず左へ振れる。左へ振れた振り子はまた必ず右へと振れる。どちらか一方にだけもっていくことは自然の摂理に反している。無理な話なのだ。
 さらにいうなら、振り子は、片側に高く振れることで反対側においても高く振れることができる。同じように、人も十分休養を取り、リフレッシュすることで、仕事のほうも充実させることができるのではないだろうか。もしあなたが休むことに罪悪感を感じるタイプなら、そんなふうに考えてみてはどうだろう。私はそう考えることにしている。(2003.4.19)

No.206 「売り」

 仕事の合間に深夜映画を観ていたら、こんなシーンがあった。主人公は好きになった女性を追ってイギリスからアメリカへやってきた作家志望の青年。彼が女性の紹介でハリウッドの映画関係者に会ったとき、相手からいきなり「で、君の”売り”は?」と尋ねられる。青年はキョトンとして返答できない。積極的に自分を売り込んでいかなければならないアメリカ社会、そのなかでも特に競争の激しい映画ビジネスの世界と、”紳士の国”イギリスとの文化のギャップがうまく表現されていると感じた。

 それほど極端な形でなくても、何が「売り」なのかが問われる場面は私たちの仕事においてもある。そんなときは、日本的な謙虚さ、控えめさを、私たちは捨てなくてはならないだろう。これが得意だ、これに自信があります、この分野ではどこにも負けない…。しかし、謙虚さを捨てきれない人のほうが信頼できるような気がしないでもない。謙虚さを失わず、しかも仕事のうえでの信頼感を与えられる、そういう態度の取り方がいちばんよいと思うのだが、それはなかなか難しいだろう。ま、ビジネスはとかく難しいものなのであって、いまさらいうようなことでもないのだが。(2003.4.12)

No.205 メールの宛先に「様」を付けることについて

 メールの宛先欄にはメールアドレスそのものだけでなく名前も入れることができる。たとえばこんなふうにだ。

 TO:伊藤國士 [kunio@itotechwrite.com]

 これがメールアドレスだけなら誰もそんなことはしないのだろうが、名前そのものが入っていることから、そこに「様」を付ける人もいる。たとえばこんな具合にだ。

 TO:伊藤國士様 [kunio@itotechwrite.com]

 メールでの様付けは2、3年前までは見かけなかったように思う。昨年あたりから少しずつ増えてきたような気がする。メールが普及してきたことで、それまでネットのカルチャーに無縁だった人たちもメールを使うようになり、そのなかには敬称なしで相手の名前を入れることに抵抗を感じる人もいた、ということだろうか。

 私としては、これがメールの習慣として広まってはほしくないと思う。この様付けには、気遣いの細やかさが感じられるのだが、これが当たり前という状況にはなってほしくない。面倒なことになるからだ。メールでは複数の宛先を指定できるわけだが、会社からのメールだと、取引先と自分の上司の両方にメールを送る場合がよくある。すると、社外の人は様付けで上司は様なしということになるのだろうか。それを受け取った側が返信する場合、様付けでもらったのだからやはり様付けで返さないとならないという気持ちになりかねない。すると、差出人とその上司の両方に様を付けてメールを出すかもしれない。それに対してまた元の差出人が返信するときは、上司のアドレスについてきた様は削除しなければならないだろう。どうだろうか。こういうのは面倒ではないだろうか。

 メールで宛先に様を付ける感性は日本的で美しいとは思う。しかし、効率が求められるメールの世界では、それは省いてシンプルにいきたい。宛先欄の名前はあくまでもメールアドレスの添え物であり、メールの宛先を識別するためのマークのようなもので、そこに敬称を加える必要はない。そのように考えたいところだ。(2003.4.5)

No.204 東京スケッチ3

 都営新宿線を新宿で降り、エスカレータで上に向かっていたときのことだ。すぐ前に立っていた少年二人がこちらを振り向き、「ミズエにはどう行けばいいですか」と訊いてきた。一人は大柄でやんちゃそうな丸顔、もう一人は映画『スタンドバイ・ミー』のリバー・フェニックスを思わせる精悍な顔つきをしていた。中学1、2年くらいの年齢だろう。訊いてきたのは丸顔のほうだった。こちらは仕事帰りで疲れきっていたし、咄嗟のことでもあったから、何のことだかわからず「ミズエ?」と訊き返すのがやっとだった。すると少年たちは、「小岩とかのほう」と付け足してきた。

 ボーっとした頭で私が思ったのは「あっちのほうに行くなら東京駅まで行かないと」ということだった。それで、JRに乗って東京駅まで行きなさいと教えてしまったのだった。「わかる?」と訊くと、リバー・フェニックスがこちらをまっすぐ見て「大丈夫です」と答えた。

 「新宿はわかりにくいよ」などと言いながら彼らがエスカレータを駆け上がっていき、姿が見えなくなったとき、ハッとした。都営新宿線の東側のほうにミズエというような駅があったような気がしたからだ。いつもバッグに入れているポケット地図帳を取り出し地下鉄路線図を見ると、「瑞江」という駅が確かにあった。たぶん少年たちは誰かから都営新宿線の改札口の方向を教わりそこへ向かっていたのだ。しかし、改札口を見つけられずに、たまたま近くにいた私のような方向音痴に「瑞江」への行き方を尋ねてしまったのだろう。そして私が事態をさらに悪化させてしまった…。

 物怖じしないようすの彼らのことだから、どこかでまた人に道を尋ね、無事、家に帰り着けただろうと信じたい。また、大人だからといって何でも知っているわけではないし、いつも正しいことを言うとは限らない、そういう大切なことを、彼らがあの夜の経験から学んだはずだと思えば、私の罪悪感も多少やわらぐのだが…。(2003.3.29)

No.203 空爆

 目的地の工業団地へタクシーで向かう。ラジオからはイラク空爆のニュース。70歳だという東京向島の生まれのタクシーの運転手氏は、戦争体験を語ってくれた。

 「戦争は本当に嫌なもんですねぇ。3月10日の東京大空襲もはっきり覚えてますよ。母親と下の兄弟たちは縁故疎開で田舎にいってましたが、父親は兵器工場で働いていて、あたしは工業学校の1年で、いまの中学3年ですかね、学徒動員で工場に行ってました。

 空襲が始まったのは夜の8時くらいかなあ。もう暗くなってからですよ。空襲警報が鳴ったと思ったら、もうすぐ爆撃が始まりました。あの焼夷弾というのは、ゴムみたいなものが入っていて、べとべとなんですよね。それが周りに飛び散って、いったん燃え出したら火叩きでいくら叩いても消えっこないんですよ。むかしは火叩きってのがあったんです。うちも焼夷弾でやられて、最初は消そうとしたんですが、いくやっても消えないから父親が見切りをつけて、二人で避難所に行ったんですよ。死体がそこらじゅうに転がっていてひどいものでした。川にもいっぱい浮いているんです。熱いからって川に逃げたところを、川の上にも火が広がって、上半身が焼けて、下半身だけ残って浮いている死体もありました。

 家も工場も、もう全部なくなりましたよ。それから五日間は野宿です。その間、食べ物は配給された乾パン二袋だけ。どうしようもないから、埼玉の親戚のところまで行きました。上野までは歩いて、そこから汽車で。あたしは、汽車の釜があるでしょう、あの上に乗っていったんですよ。ええ、中はとても入れなかったんです、いっぱいで。

 埼玉で新聞を見て、もうダメだなと思いましたよ。新聞には、罹災者全員にオニギリが十分配られ、飢えている人なしって出ているんですよ。あたしは現にいたんですからね。事実と全然違うことが書かれている。もう新聞は信用できないと思いました。

 いまは平和でいい時代ですよ。」(2003.3.22)

No.202 東京スケッチ2

 「横で話をしないでください」
電車に乗っていたときのことだ。女性が強い口調でそう言うのが聞こえた。驚いて横を見ると、中年の女性が向こう隣に座っているカップルに向けていた顔を戻すところが見えた。そのままその女性は手にしていた英文の冊子に視線を落とした。
 叱責されたカップルのほうは数秒間沈黙していたが、男性のほうが「あっちいこう」というと、その彼女がこちらにもはっきり聞こえる強さで「うん」と応じ、二人は空いていた別のシートへと移動した。それからしばらくはそのカップルの会話が、たぶん彼らの意図したことだろうが、こちらのほうまで聞こえてきた。いわく「あんなこと言われたの初めてだよ」「信じらんない」「変だよな」…。
 若者と中年世代のマナーを巡るトラブルということでは、「最近の若者のマナーときたら」式のぼやきにもっていくのが定石かもしれないが、この件については若いカップルに同情を覚えた。彼らは別に大声で話していたわけではない。話を聴いていたわけではないが、言葉遣いが不快だったわけでもなさそうだ。クラシックのコンサート会場や図書館などではないのだから、ふつうに会話をしていて悪いことなど一つもない。席を移動したあとの聞こえよがしの毒を含んだやり取りは少々子供っぽかったかもしれないが、「キレる」ようなタイプに比べればはるかにまともであって、そのことをかの中年女性は幸運に思うべきではないかとすら私には思えた。
 趣味の悪いことかもしれないが、その女性を横目で観察してみた。いったいどんな人なのか、興味を覚えたのだ。皆さんなら、上のエピソードからどういう女性を思い浮かべるだろうか。たぶんその予想は裏切られるはずだ。その女性の年齢は40代後半といったところ。髪は肩ぐらいまであるのを後ろで一つに束ねてあり、その半分は白髪。顔つきは鋭利な印象を与える。横からしか見ることができなかったが、その限りでは美人である。上は暗い緑色のジャケット、下は細いひだのある黒っぽいロングスカートで、どれも質がよさそうだった。わかるだろうか、ひとことで言って美術評論家といった感じ。知的で上品でお洒落で自尊心が高い(想像です)。しかし、いくら魅力的でも、見知らぬカップルに「横で話をしないでください」とやぶから棒に言ってのけたことについては、共感できない。
 別のシートへ移ったカップルの聞こえよがしの非難の声と周囲の好奇の目に晒されながら、手元の冊子に目を落としていた彼女の心境はどういうものだったろうか。表情こそ読書に集中しているふうだったが、少しばかりひそめられた眉には、感情的になってしまったことへの後悔や自己嫌悪などが読み取れるような気がしないでもなかったが、それは想像力を働かせすぎというものか。
 それにしても、東京ではいろいろな出来事に遭遇するものだ。(2003.3.15)

No.201 人生の時

 "You can dance, you can jive,
  having the time of your life."

 70年代に活躍したスウェーデンのポップグループ・アバ。その代表作「ダンシングクイーン」の冒頭の歌詞だ。ドライブしながらアバのベストアルバムを聞き流していたところ、この一節が妙に耳に残った。having the time of your life――辞書によれば、"have the time of one's life"は「最高に楽しい時を過ごす」(小学館ランダムハウス英和大辞典)という意味だが、自分の中では「人生の時」という言葉が思い浮かんだ。「踊って、ノって、人生の時を楽しむ」といったところか。

 「ダンシングクイーン」は、踊りに夢中になっている17歳の少女の青春を描いたものだ。金曜の夜、ディスコへと踊りに繰り出す。好きな音楽が流れ、魅力的な異性たちもたくさんいる。その中で全身で踊り、ハイな気分になる。それはまさに「人生の時」と呼ぶにふさわしい輝くような瞬間だろう。

 振りかえって、自分にとってそれはいつのころだったろうかと考えてみる。「ダンシングクイーン」に描かれるような輝く青春というものは自分にはなかったような気がするのだが、しかし、年代ごとに「人生の時」と呼んでよい時期もあったように思うし、これからもあると思いたい。人生を山脈のようなものと考えるなら、その高低の中で本当の最高地点は一つであるにしても、山頂は年代ごとにあるといえるだろう。働く者にとっては、「人生の時」は仕事の充実を抜きには考えられない。仕事にどのように取り組めば、次の「人生の時」を迎えられるか。

 ちょっと大げさな話になってしまったが、"having the time of your life"というフレーズからそんなことを考えてしまったというわけです。 (2003.3.7)